第2話 かたどるための
「これはなんだ?」
夕暮れ近い教室の中でふたりきり。
ノートに視線を落とした広野の声が抑揚なく響く。
若草色の表紙の小さなノート。表題はなく、めくれば1ページずつに短歌が書きつけてある。
僕にとっての宝物といってもいい。だが、同時に見られてはならない秘密でもある。
――広野の名前は、書いていないはず、だ……!
ぱっと読んだだけでは自分のことを詠まれたとは思われないだろう。
そこだけが救いだった。
あの短歌は広野のことを考えて作りました、とは口が裂けても言えない。
――変に思われる……。
男が男を思って短歌を作るなんて、気色悪いと思われるかもしれない。
広野にそれを指摘されたなら、僕は立ち直れない。
あの三白眼が、見下すように僕を断罪したとしたら……。
それだけで、僕はぎゅっと目を瞑り、何も見ていないふりをしたくなる。
「そ、それは……どうしたんだ? と、いうか、広野くんはどうしてここに?」
僕は動揺しつつも、つとめて態度に出ないよう慎重に尋ねた。だが、そんな空しい努力の甲斐もなく。
広野の強い目が僕の曖昧さをたやすく射抜いた。
「……福永がこれを落としていったから、取りに来るだろうと思って待っていた」
「そ、そう……」
やはり広野は僕が短歌ノートを落としていったのを目撃していたらしい。
「呼び止めようとしたが、慌てていたようだったから」
広野は長い足で教室を横切り、僕の前に立つと、短歌ノートを手渡した。
「あ、ありがとう……」
「いや……」
僕はノートを受け取るために手で掴む。
だが、広野はノートから手を離さなかった。
「え……?」
思わず不思議そうな声が出てしまう。
見上げると、広野の端正な顔がある。睫毛が長い。
ばちん、と音がたったように、視線が交わる。心臓が暴力的に押し潰される。
「福永」
「な、なに」
広野の声は魅力的だ。艶めいている。普段が寡黙な分、放たれた時の威力が凄まじい。
「このノートはなんだ」
一拍遅れて、先ほどの「これはなんだ」という問いを広野が繰り返していたことに気づく。
「……中身を、読んだ?」
そうでないことを祈っての質問だったが、広野はこくりと頷いた。
「文字が書きつけてあった。でも、文章とは少しちがうかんじだ」
「そうだね……」
この時、僕の頭の中では「どうしようどうしよう」と小人たちが駆け回っているようなパニックを起こしていた。
「悪い。……机から落ちた時にページが開いたままだった」
「それなら……仕方ないね」
僕はどうにか誤魔化そうとへらへらと笑っていた。全然笑えない事態なのに。
「これは短歌なんだよ。古典とかで和歌って聞くだろ。あれと同じ文字数で三十一文字……みそひともじ、で心情や情景を詠むやつ。僕は古典がさっぱりだから文語じゃなくて口語短歌ばかりやっているんだよな。なかなか難しくってさ」
「きれいなもんだな」
ベラベラと喋り続けていた僕は、次に広野がぽろりとこぼしたつぶやきを聞き逃し、遅れて脳内に入ってきた言葉に耳を疑った。
「今、なにって……」
「きれいだとおもった……福永の、短歌」
「へっ……」
僕は自分の耳やら頬がじわじわと赤く染まっていくのを自覚した。指先がびんと張って、体が自分のものでないみたいだ。
「俺にはよくわからないところもあるとおもうが……福永の使う言葉は、どれもきれいだ」
とつとつと、僕の短歌を褒めちぎる広野。
意外な反応に、混乱してしまうのは僕のほうだ。
近年短歌ブームと言われているとはいえ、まだまだマイナーな趣味だ。こんなふうに理解されるとは思わない。
――いや、広野なりに気を遣ってくれているのかもしれない。きっとそうだ! そうにちがいない!
「あはは。お世辞でもうれしいよ、ありがとう」
「お世辞じゃない。本心だ」
広野はかすかにむっとした表情を浮かべて。
油断した僕からノートを再度奪い取り、最新のページまでめくって、これ、と指さしながら見せてきたのは。
そのページにあったのは――。
「神さま」に気づかれた時 透明で見返されない壁がほしくて
僕が広野を考えながらつくった短歌だった。
「これが、一番いいとおもった」
広野は今度こそ僕に短歌ノートを返してくれた。
短歌ノートは今までと何も変わらないようでいて、ひとつだけ変わったところがあった。
最後のページの「神さまは〜」の短歌を書きつけた右下のスペースに、鉛筆書きの小さなメモが増えている。
『これがよかった』。ただそれだけ。
なのに、胸に迫るものがあった。広野が短歌を認めてくれて、言葉もくれた。
心臓が早鐘を打っていた。わけのわからない衝動が僕の中で暴れ回っている。
「広野くん、これって……」
「気に入らなかったら消してくれていい」
これだけを言うと、広野は自分の鞄を改めて担いだ。
「俺はもう行く。じゃあな」
「あ……うん。また明日」
あっけなく帰ろうとした広野に、僕の期待はしゅるしゅるとしぼんだ。
期待。……僕は広野に何を期待していたのかよくわかっていなかったけれど。
僕が広野の背中を見つめていたら。くるっと広野が振り返った。
「福永」
「な、なにかな!」
びくっと僕の体が跳ねた。
「よかったらまた……つくった短歌を、みせてくれ」
僕はわけもわからず頷いていた。
「い、いいよ。変にからかったりしないなら」
「しない」
広野は真剣な顔つきになっていた。
「人の好きなものを馬鹿にするなんて、だせぇ真似はしない。本心から言ってるからさ」
「わ、わかったよ」
広野の迫力に飲まれていると、彼はわずかに口角をあげた。
「ぶるぶる震えた子犬みたいだな、福永は」
「な……! 失礼だなあ!」
「悪い悪い」
広野は軽く手を振って、今度こそ教室を出ていく。
ひとりになった僕は、もう一度、短歌ノートに目を移した。
『これがよかった』。文字の上をなぞると、指先に鉛の粉が少しつく。それ以上は文字が消えてしまうのがもったいなくて、できなかった。
僕は椅子に腰掛けながら上半身ごと机にべったりとつけた。
「あぁ、もう。なんなんだよ……」
じわじわと言葉にならない思いが溜まっていく実感があった。
今まで見つめるだけだった広野と、直接話しただけなのに。口からなにかが飛び出してきそうだ。
それはあまりにも特別すぎて、現実とも思えなかった。
――広野は、僕の短歌を読んでいて、気づいただろうか。
「神さま」に気づかれた時 透明で見返されない壁がほしくて
これは広野のことを詠んでいるのだと。
広野海斗が、福永環の「神さま」だと知られてしまったら……。
――でも読んでもらえたのは、うれしい、と思う。
うれしすぎて、意味もなく叫び出しそうなぐらいには。
届かないはずの相手に言葉が届いたのだ。うれしく思わないはずがない。
「……帰ろ」
立ち上がって、教室を後にする。
早く帰宅して、無性に言葉を書き散らしたい気持ちだった。
胸の中に収まらない思いを、どうにか形にしたくて。
――次に新しい短歌ができたら、広野くんに見せるだろうな。
小さなコメントひとつでも、短歌ノートに記録として残る。
僕はそのコメント欲しさにこの「秘密のつまった宝物」を裸のまま広野へ差し出してしまうのだろう、と思った。
糸を吐き包まれた繭はほぐれて 透けゆくへだて それもうれしく
次の日。ぽつぽつと浮かんだ言葉を並べているうちに、新しい短歌ができた。
――よし、できた。
僕はこっそりと顔を上げ、斜め前に座る広野の大きな背を盗み見る。
国語の小論文のテスト中だった。
すでに回答を済ませた僕は、余った時間でテスト用プリントの端にちまちまと短歌に使えそうな単語を綴っていた。
繭、とか、透けていく、とか。
教師の用意したキッチンタイマーが、ピピピ、と鳴る。タイマーを切った国語教師は声をあげた。
「はい、そこまで! テストを回収しろー」
そういわれて、僕ははっとなった。……短歌のメモを消し忘れた!
慌てて消しゴムを握ろうとするも、時はすでに遅し。僕のプリントは間に合わずに回収されてしまう。
「ん、どうしたよ、福永?」
「い、いや、なんでも……」
僕のプリントを何気なく回収していった最後列のクラスメートが不思議そうにしている。
彼は僕の落書きには気づかなかったようだ。
先生には読まれてしまうが、大目に見てもらえないだろうか。そんなことを鬱々と考えていると。
「今日の日直は……広野か」
「はい」
広野が言葉すくなに返事をしている。頭を持ち上げ、教師の話を傾聴する姿勢を取った。
「全員の名前があるか確認して、放課後までに持ってきてくれるか」
「わかりました」
「すまんな。今日はすぐに次の授業に行かないといけなくてな」
「大丈夫です」
教師は慌ただしく教室を出ていった。途端に、教室の空気は弛緩し、休み時間のおしゃべりに花が咲き始める。
その中で広野はゆっくりと立ち上がり、教室の最前列に座るクラスメートたちからプリントを回収していく。
自分の席に戻った広野は、プリント上部の名前欄をクラス名簿と照らし合わせているようだった。
――広野。
つい昨日、放課後に話したのが信じられないような気持ちだ。朝も、午前中も、昼も、僕と広野の間には何の接触もないから、まるで夢まぼろしのようにも思えてくる。
僕の短歌ノートを広野に拾われ、広野が読み、短いながらも、コメントをくれた。
『これがよかった』。今作った短歌を広野に見せたら同じように評してくれるだろうか。
それとも調子に乗っていると思われるのだろうか?
――そうだよ、お世辞を言ってくれているかもしれないじゃないか。
そう思うと、広野に見せる勇気など、砂上の城のようにもろく崩れていくのだ。
頬杖をつき、ため息ひとつでもつきたくなる。教室のあちこちで楽しく話をしているクラスメートの中でブルーな気持ちに浸っていた。
だが――。
何の前触れもなく、プリントのチェックをしていたはずの広野の頭が後方を向く。
またもや、広野は。
僕と視線を合わせてきた。
広野のミステリアスな眼差しにきゅっと心臓が縮む。心の底まで見透かされそうで。
――な、なんだ!
僕は反射的に目を逸らしてしまう。あまりにもわざとらしいのは自分でもわかっていた。
広野の気配が自分の席から動く。立ち上がったのだ。
クラスメートたちの喋り声の中でも、彼の立てる足音だけ際立って聞こえるようだった。
学生服のズボンから伸びた大きな足は……椅子に座る僕の足元近くで止まった。
「福永」
「ど、どうしたんだ」
逃げられなかった僕は、視線まで震えそうな気持ちで広野を見上げた。広野は僕を見下ろしながら、持っていたプリントを指さした。
「これ、消しておくか? 見られたくないだろう」
広野の武骨な人差し指は、僕が書いた落書きをなぞっていた。
その繊細な手つきにまたもやどきりとする。
――まるで宝物として丁寧に扱わなければいけないことを知っているみたいだ……。
時間を忘れそうになったけれども、僕は慌てて現実に戻り、反射的に尋ねた。
「い、いいのか」
「どうせ、採点には関係ない」
「なら頼む」
僕が小声で頷けば、広野も小さく顎を引く。まるで秘密の共犯者になったかのようだ。
「消しゴムを借りていいか」
「いいよ」
僕は自分の消しゴムを差し出した。それをつまんで、広野は丹念にプリントの端を擦る。文字は消え、削りカスは広野がふっと吹き飛ばした。
顔と顔が近かった。ここが教室の片隅で、今もクラスメートたちがたくさんいることを忘れてしまいそうだった。
呼気が震えるのを広野に気づかれたらどうしようかと思った。
僕に消しゴムを返した広野が僕の額の近くで囁く。
「――これで証拠隠滅、だな」
「悪いことをしているみたいじゃないか」
「どうだろう」
広野は長い睫毛を伏せ、曲げていた背を伸ばした。もう一度プリントを取り上げ、ほかのプリントとまとめて束にする。
「じゃあ、これで先生に渡しておく」
「ありがとう」
「福永。新しい短歌が、できたのか」
唐突に名前を呼ばれて、呼吸がとまるかと思った。
「そ、そうだね」
僕は嘘をつけなかった。
「でも、まだ僕の頭の中にあるだけだから……ノートに書かないと」
すると、広野の眉間に少しだけ皺が寄る。何かを考えているような仕草だ。
悩ましげな様子でさえ、見惚れてしまいそうになるほどサマになっている。
近くに来ることで、また広野のかっこよさに気づいてしまう。
「わかった」
広野の声は重々しく、力がこもっていた。
「また、放課後、ここで」
「放課後?」
「おう」
広野はこくりと頷き、優雅な獣のように去っていった。
――放課後。放課後にここで、ってなんだ……?
教師にプリントを提出しにいったらしく、広野の姿は教室から消えていた。
――僕の短歌を、読んでくれるということか……?
ややあってから、ようやく広野の意図を知る。
『よかったらまた……つくった短歌を、みせてくれ』
その言葉が本気と知った僕は、体温が一度上がった。
放課後までの二時限分。これほど落ち着かない時間はなかった。