第3話 公園の蝶
この数日で、おれの生活に小さなさざなみが立っていた。
源に話しかけられることが明らかに増えた。
朝の挨拶と帰りの挨拶は当たり前。おれより成績がいいくせに、おれに課題の解き方を聞いてくるし、用もないのにカラオケ行こう、と誘ってくる。
「いやいやいや、おれは歌が苦手でさ。それにチャリ通だから思い切り方向逆だし」
「そうか。ならまた今度」
「今度」など存在しない。
距離の詰め方がエグい気がする。おれが何かした覚えはない。――謎の歌人「詠み人知らず」としてならあるが。
おれはここ数日、源の下駄箱を覗きにいっていない。なんとなく気分でなかった。
だが、もし源が返歌を置いていた場合、おれは源からの挑戦を無視したことになる。すなわち、負けも同じだ。
――そろそろ確認しにいくか。
やはり不戦敗は避けたいものだ。
そう自分に言い聞かせながら、放課後の隙間時間にこっそりと覗きにいく。
手を伸ばせば、指先にかさりとしたひっかかりがある。
源はきちんと返しの短歌を置いていたのだ。
おれはひとまず持ち帰り、家に帰って慎重に折りたたまれた一筆箋を開く。
「なっ……!」
校庭の蝶はふわんと陰に入り膝にとどまる 傷癒えるまで
恐ろしい勢いで心臓が波打った。
おれが「胡蝶」と言ったのに対し、源は「蝶」で受けたのはすぐにわかった。
「膝にとどまる」、「傷癒えるまで」……。
おれは自分の右膝を押さえた。そこにはまだ傷を覆った絆創膏の感触がある。先日の体育での源とのやりとりを思い出す。
こんな偶然が、あるだろうか。
おれが「詠み人知らず」だと気づかれている?
いや、でもどうやって。一筆箋はいつも手書きだが、字体はいつものノートにする走り書きとは変えているのに。
ひとつだけ、短歌に忍ばせたことがあるが、今になって気付いたとも思えない。わかったらもっと早いタイミングで指摘してきただろう。
おれは短歌ノートの新しいページを開いた。万年筆を握る。なにかを書こうとしたのだ。
――何を、書く?
おれの手はぴたりと止まる。頭が真っ白になっていた。
その時、祖母がノックをしておれの部屋をのぞいた。
「あんた、はよ、寝やぁ。最近、夜遅いやろ。背が伸びんで」
「……わかった」
ばあちゃん子なので、おれは逆らえない。
素直にベッドに横たわる。
――もう「詠み人知らず」も潮時かもしれないな。
おれは源との短歌の応酬をもうやめようと思いながら眠りに落ちる。
眼裏で、ふわん、と蝶が目の前を横切った気がした。
「榊原、おはよう」
「……おはよう」
今日も登校した途端、席に座っていた源に話しかけられた。
朝の眠気など微塵もなさそうなさわやかさだ。
「……どうした? 俺の顔になにかついてる?」
「え、いや、すまん。失礼した」
源がおれの正体を知っているのかと探ろうとするあまり、おれは源をガン見していたらしい。
「ま、榊原の気持ちもわかるぞ」
源の机にもたれかかっていた藤井がにやにやしていた。
藤井もおれのクラスメートだが、いかにも一軍男子といった風貌なので、ほぼ日々の接点はない。
「朝陽はなんでもできちゃうし、イケメンだからなぁ。榊原もそう思うだろ?」
「あ、あぁ、まあ」
「まあ、って! ははっ。朝陽、聞いたか、こいつやべえよ!」
藤井はおれの苦手な笑い方をした。
人をいじり、揶揄するノリだ。
中学のころ、おれはこのノリが心底嫌だったので、人間から距離を置いたのだ。
『あいつ、めちゃカラオケヘタじゃん! うける、わらえるわ〜』
無理やりマイクを押し付けてきて、歌わせてきたのはそちらのくせに。そうだ、あいつらはバカにしたい相手を探して、一緒に笑うことで「絆」とやらを深めるバカたちなのだ。
「藤井、やめとけ。悪いくせ出てる」
「そうかぁ? だってさ、榊原の反応おもしれえんだもん」
源は一応止めているが、口元には薄い笑いが張り付いていた。
――あぁ、源。おまえは……おまえも、「そちら側」なのか。
おれは震える息を吐いた。
「源。すまないが、もうおれに話しかけなくてもいいから」
「榊原……?」
「『クラスの王子さま』なんて言われているらしいが、みんな仲良く、なんてものは無理だからさ。そっとしておいてほしいやつもいる」
こっちはこっちのペースでやるからさ。不干渉で行こうぜ。
おれがこう言ううちに、源の表情がゆっくりと変わっていく。
「どうしてそんなことをいうんだよ。元は君が……」
源が言葉を切った。
そこに浮かぶ感情が、怒っているのか、悲しんでいるのか、おれには判断がつかなかった。
唐突にチャイムが鳴った。藤井と源の様子も気にせず、おれは自分の席に着く。
話は尻切れトンボのままとなった。
その後、源も、休み時間ごとに物言いたげな視線を向けてきたが、おれは気にしないふりをした。
授業中もなんとなく集中が途切れる。胸の奥をもやもやとしたものが覆っていた。
――おれは、源を傷つけたのではないか?
ただのカンだが、そんな思いが頭を閃く。
居てもいられなかった。
教科書とノートの隙間に短歌ノートを忍ばせた。思いつく単語を並べて書いてみる。整理する。言いたいことを探す。
気づけば授業よりも作歌に没頭していた。
はばたきを耳の奥のみとどめつつ歩み去ること 雲に隠れる
なんでこんな時に短歌ができてしまうのか。おれも自分に問いたいと思う。よりにもよって、源への返歌ではないか。
――でも、せっかくできたんだし。
これで終わりにしよう。
おれは短歌ノートの新しいページを切り取り、短冊の形にした。丁寧に文字を書く。最後には「詠み人知らず」と記名した。
放課後を待つ。
「そろそろだな」
自習室で課題をこなしていたおれは机を片付け、カバンを持った。
薄暗い下駄箱には人気がなかった。短歌を放り込むのにちょうどいい。
おれは源の下駄箱についた金属製のふたを持ち上げた。
少しためらったが、結び文をそっと差し入れる。音を立てぬように締め、それから自分の下駄箱へ手を伸ばしたところで――。
「榊原」
ブレザー姿の源が玄関から入ってきた。
おれは内心、驚いたが、なにげない様子で「どうした」と応じた。
「まだ部活中じゃないのか」
「いや。今日はたまたま休み。そこでだべっていたら、忘れ物を思い出したから」
源がおれの眼前を通り過ぎ、スニーカーを脱ぐ。流れるような仕草で源の手が下駄箱のふたを上げる。おれは、ただ見ていただけだった。
源の二本の指がおれの書いた結び文を引き出した。
源が、動けないおれを一瞥してから躊躇なく結び文を開いた。源の視線が上下に動く。
その沈黙の間に、おれはどうにか自分のやるべきことを思い出した。
「……じゃあ、おれは帰るから」
自分のスニーカーを引っ張りだそうとした手が滑る。片方のスニーカーが、ぽんぽんとコンクリートを跳ねて転がる。あ、やべ、と呟いたのは、とっさのことだった。
伸ばした右手が、がしりと掴まれたのはその時だ。
手の主を追いかけた視線は、それよりもっと強い視線に絡め取られた。
そこには、おれの知らない源朝陽がいた。
「はばたきを耳の奥のみとどめつつ歩み去ること 雲に隠れる――か。雲に隠れるって――やりとりをもうやめようってこと?」
おれの手首が源に強く握られていた。逃げられない。
「榊原は、俺を翻弄するのが本当に上手だね。どうすれば俺の気が引けるのか、よく知ってる」
甘さがぐんと増した声。――いや、甘くなるところなど微塵もないはずだが。
「な、なんのことだよ……?」
「わかっているだろ? 『詠み人知らず』。榊原のことだよ」
「いや知らねえなぁ……」
――気づかれていたのか。
それでもおれは一縷の望みに縋って否定した。
「とぼけても無駄だよ。俺はちゃんと気付いてる。わかりにくいけど、君ははじめからきちんと名乗っていただろ?」
源は朗々とそらんじたのは。
桜にも心はありて薄明に散るか否かを決めかねる枝
はじめて源に送った短歌だった。
「クラスでの自己紹介での返歌のつもりで送ったのならば、あれと同じく、名前が紛れ込んでもおかしくないと思った。その短歌なら「桜」と「枝」。木偏がふたつある。同じクラスの中で、木偏がふたつ持つ名前は、榊原樹、君だけじゃないか」
源に掴まれた手首。まだ離してくれそうにない。
すると源は少し思案したのちに、こう詠んだ。
「うすぎぬに透けていた影 今こそは陽を浴びる樹へ――出てくれないか」
おれの短歌「はばたきを耳の奥のみとどめつつ歩み去ること 雲に隠れる」の返歌だ。嘘だろ、さっき読んだばかりでもう返歌を作れるのか。化け物か!
しかもばっちりお互いの名前を意識して入れている。詠みぶりはかなりストレート。少なくとも、おれが得意とするものではない。
だが、なんだか。
目の前をぱっと陽の光が差してきたような心地がした。
――なんだ、ちゃんとわかっていたのか。
短歌に込めた思いはしっかり掬い取られていたわけだ。
おれは驚くほど肩の力が抜けていくのを感じた。
「いつから気付いてた?」
「すぐじゃない。榊原が赤兎馬の短歌を寄越した時だよ。君との短歌を記録につけはじめて、何度も読み返すようになってから」
「あぁ、なるほど」
「なるほどってなに?」
源は顔をくしゃくしゃにした。本人でも笑いたいのか、泣きたいのかわかっていないみたいだ。
「同い年で短歌をやってるやつがこんなに身近にいて、短歌でやりとりすることが、俺にとってとても特別なことだったのに。――なんでそんなに反応が薄いかなぁ」
「いや、悪い」
おれは素直に告げた。
「おれも自分の感情に追いついてない。……で、さ。その手離してくれねぇ?」
源は目を丸くして、掴まれたおれの手首を見つめていたのだが、首を傾げる。
「それはできない気がする」
「気がする!?」
「雲隠れされては困る」
「同じクラスじゃねえか!」
「でも、歌人『詠み人知らず』がいなくなるかもしれない。……そうだ、俺は君の短歌について言いたいことがあるんだった」
「なんだよ」
あちこち話が飛ぶやつだと思っていると。
「俺は榊原の短歌が好きなんだ。それを言いたかったんだった」
一拍、おれと源に変な間があった。いや、一方的に度肝を抜かれたのはおれのほうだった。
榊原の短歌が好き。
おれの人生において、真正面から言われたことなどない。あまりにもストレートな感想で、聞いたおれのほうがびくついてしまう。
「お、おう、ありがとう……。お、おまえも、まあ、よかった気がする……」
「そうかな。ありがとう。実は自分でもちょっとイケてると思ってる。短歌好きのじいちゃんの遺伝かな」
なんだろう、また腹が立ってきた。
「おれ、今日はもう帰るわ」
「なら俺も帰るよ」
「忘れ物はいいのかよ」
「見つかったからいい。これからマック寄ろう。今日はまだ帰したくない」
クラスの王子さまというやつは、周囲を誤解させる物言いをしたがるものだろうか。
「今回はやめとく。今日は本屋に寄ってから帰るから」
「じゃあついていくことにするよ」
「迂遠に断っているんだけど」
「でも、短歌の本の好みとか話せたら楽しくないか」
たしかに、とうっかり言いかけたが、思い直した。
「それなら腕を離してくれるな?」
「そうだね」
おれは解放された手首をぶらぶらさせて血行を改善した。
互いにスニーカーを履き、自転車置き場を経由してから夕暮れの中歩く。
おれは自転車通学だが、源は電車と徒歩通学だ。
「榊原」
「なんだよ」
「返歌はいつくれる?」
源の短歌にまたおれからの返歌を作ってほしいとオーダーだ。簡単に言いやがる。こっちは毎回必死に頭を巡らせているのに。
「まあ、気が向いたらやるわ」
「気が向いたら、ね」
やめろそんな目で見るな、源がそんなタイプだとは思わなかった。
「俺は、めちゃくちゃ楽しみにしてる」
「……努力する」
俺のひく自転車のタイヤがチャリチャリと音を立てて二人の間でBGMとなっていた。
――この光景も、短歌になりそうだな。
「これも短歌になりそうかな」
同じことを源が口にした。
「え、もう作れたのかよ」
「いや? 作れそうな気がするだけ。俺も毎回、即興で詠めるわけじゃないし」
「さっきは詠めていたのに」
「あれは必死だったから」
何気ない会話を楽しく思う自分がいた。
たかがショッピングセンターの本屋へ遠回りして寄るだけなのに。
日常の色が少し塗り変わったような感覚を覚えながら、おれはいつもと違う家路を辿ったのだった。
自転車の影は長く昼夜の交差点 ちゃりりちゃりりとふたりの歩み