第2話 千里をかけて
自分でも馬鹿だなあと思う。
源の返歌が気になって、また源の下駄箱をこっそり覗き込むタイミングを見計らっていた。
自習室で勉強しながら、時計を確認する。
……そろそろだ。
暗くなりかけた廊下を歩く。周囲に知り合いがいないのを見つつ、自分の下駄箱を見るように、源の下駄箱のふたをすばやく持ち上げた。
源の下足はなくなっていた。まだ部活中か、帰ったか。この際どうでもいいが……おれは薄闇の中に白っぽいものが見えた気がして、手を伸ばす。かさり、と音が立ち、手に感触があった。
抜く。はずみで下駄箱のフタが閉じて、ぱたんと音を立てたが、おれは気にしないことにした。下駄箱にあったものをズボンのポケットにつっこみ、そのまま外に出た。
そして、源と出会った。
「あ、榊原か。おつかれ」
「! おつかれ」
一瞬、びっくりした顔になったかもしれないが、ばれていないはずだ。おれは、顔を合わせて二日目のクラスメートが自分の顔と名前を覚えられていたために驚いた体を装っただけなのだ。
源とはそのまますれ違い、自転車置き場へ向かった。だれもいない自転車置き場には古臭い蛍光灯の光が心細げに灯っていた。
その下で、おれは、四つ折りに折りたたまれていたノートの切れ端を広げた。
よみびとに顔はなくともその声は千里を駆けて 力あるなら
ハッ、と声が出た。
――ふざけている。
おれの詠んだ短歌の最後につけた作者名の『詠み人知らず』から初句を持ってきたのだろうが。
またしても即興で詠んだような短歌だ。さらに、おれへの挑戦でもあった。
力があるなら、おまえの短歌はいくらでも有名になるさ。――力があるならな?
そんな、源の声が聞こえてきそうだ。
源はおれの短歌に対し、うまくいなしてみせたのである。
――これじゃあ、まったく、源をねじ伏せられていない!
源が書いた整った字が憎たらしく見えた。
おれは鼻息荒く源からの返歌をカバンにしまい込み、猛然と自転車を走らせた。
――もっと、すごい短歌を作ってやる……!
今度こそ、源をぎゃふんと言わせるのだ。
おれの闘志はさらに燃え上がった。
幸いにも今日は金曜日。今週は土日ともに休みだ。
この土日に、なんとしてでも返歌の返歌を作って、源の顔面(実際は下駄箱)に叩きつけてやろうではないか。
そうして、土日にうんうん悩んでつくったのはこの一首だ。
赤兎馬を乗りこなす吾は教室の関羽となりて春風立てる
どうだろう。かっこいいだろう。
源が作った短歌にあった「千里を駆けて」から導いたのが、赤兎馬だ。これは一日に千里を駆けたという話がある。そして、赤兎馬といえば飼い主となった関羽も有名なので入れ込んでみた。
さらに馬といえば速さがあるので結句で「春風」を入れた。壮大な三国志世界から現実の高校まで飛躍する大胆な短歌になった。
おれは寝ぼけ眼を擦りながら、最後に「詠み人知らず」と万年筆で書き込み、一筆箋を折りたたんで結んだ。
朝、人が途切れた時間を狙い、また源の下駄箱に忍ばせた。
ふう、と自分の席で息を吐く。
しばらくして源が教室に入ってきて、着席した。他のクラスメートたちと話しているのを聞く限り、特に変わった様子はない。
源は下駄箱に置いたアレに気づいただろうか。
変に眺めていても怪しまれるだけだなと視線を外しかけた時。
――あ。見てる。
源はさりげなくおれの書いた結び文を開いて読んでいた。
源の席はおおよそおれの斜め前。嫌味なほどにすっきりした横顔が少し動き。
――ん? 笑った?
口元が緩んでいた。少なくともおれにはそう見えたのである。
これは思っていた反応とは違う。どういう感情なんだ?
――まさか、まだあれでラブレターと思っているとか?
いくらなんでも、「教室の関羽」を名乗るような人物がラブレターとして短歌を送るとも思わないだろう。勇ましすぎる。
おれが戸惑っている間にも源は、おれからの短歌の手紙を丁寧に広げて、透明のクリアファイルに入れてカバンにしまった。大事なものを扱っているみたいだ。
――もしかしたらまた放課後に返歌が届いているかもしれないな。
そんな予感がした。
「赤兎馬を〜」の一首はおれの自信作だった。
なので、それを読んだ人物がどのように短歌を返すのか、興味がある。ただ、それだけのことなのだ。
謎の歌人「詠み人知らず」として正体を隠しているおれは、こそこそとまた源の下駄箱をのぞきこんだ。
案の定、返歌が入っていた。
おれは逸る気持ちを抑えつけ、自転車で家路を爆走した。帰宅してすぐに自室にこもって、返歌を確認する。
折りたたまれたそれはノートの切れ端ではなく、品のいい植物の透かしが入った一筆箋のようだった。おれが使っている無地のものより高そうだ。
果たして、源からの返歌の内容は。
風下に立ち君の背をみる 桃園の誓いを待ってポカリを掲げ
前の一首は「赤兎馬を乗りこなす吾は教室の関羽となりて春風立てる」だった。
春風立てる、と結んだおれに対し、源は「風下」という語を初句に持ってきた。
つまり、源は風下でおれの後ろに立っているということだ。これは謙虚に自らをへりくだって言っているのだろう。それはまあいい。
だが次の「桃園の誓い」と「ポカリ」はどうだ。
おれが三国志から関羽を引っ張ってきたのに対し、源が引用してきたのも三国志の名場面「桃園の誓い」である。
これは劉備、張飛、関羽が義兄弟の盃を交わす場面だ。もちろん盃なので、中身は酒のはず。
だがここで源は「ポカリ」と表現したのだ。おれの一首と同じく三国志世界から現代へ華麗に跳躍させ、しかも青春のさわやかさまでプラス。軽くておかしみのある一首になっている。
しかも桃園の誓いを待つ、と来た。この文脈でいえば、待つ相手は「詠み人知らず」――おれを指す。
源は、おれの短歌をきれいに受けただけでなく、自分の色を混ぜながら、おれを待つ、と挑発してきたわけである。
「なんだよ、それ」
学習机を前に思わず声が出た。
源が作歌にかけた時間はおれによりもはるかに短かったはずだ。なのに、このクオリティ。
こんな短歌は、おれの頭から出てこない。
――おれには短歌の才能がないのか……。
おれはひとつに固執し、苦しんでいるのに、源には天は一物どころか二物以上も与えるのか。
……いや、弱気なことを考えるな。
おれは歯を剥き出しにしながら机にかじりついた。
次だ。次こそは。
おれは目を皿にして、源の字を何度も追った。
考えるのだ。次の一首を。至高の作品を。
――そうしたら源のやつも。
おれを無視できないに違いない。
翌日の朝。おれはあくびをこらえながら登校した。
いつもより登校時間が遅かったためか、下駄箱のエリアにはクラスメートたちが何人かいた。
――またタイミングを見て、返歌を放り込んでおくか。
こればかりは正体を隠し続けるためには仕方あるまい。
おれは朝の「提出」を諦めた。
教室には一足先に源が机に座っており、藤井たちクラスメートと話していた。
教壇前を横切ると、声がかかる。
「榊原、おはよう」
「お、おう。おはよう」
「ねむそうだな」
「まぁそんなところ。……じゃ」
――なんで視線も合わなかったのにわざわざ挨拶してくるかな。
すぐそばを通っていたわけでもないのに。
毒づきながら席につく。
おれもクラスにいる友人には挨拶をするが、テリトリーの違う人間にわざわざ声をかけることはしない。
陽キャの陽キャたる所以を見た。
短歌は運良く昼休みの隙間に源の下駄箱へ入れることができた。そのためにおれは昼休みに外で散歩する体を装う必要があったわけだが、そこは割愛しておく。
5限目は体育だった。
体育は複数クラスの男女別で行う。男子は陸上競技をすることになっていた。
おれは運動全般が苦手なので、のろのろと着替え、ゆっくりと準備体操をした。基本的には体育教師のいうことを聞けばいいのだと自分に言い聞かせる。
「じゃ、まずハードル走の手本な〜。このクラスの陸上部は……お、源か。ちょっとやってみてくれ」
「わかりました」
教師に指示された源は、タタッとすぐにスタート位置に着くと、ホイッスルの音と同時に飛び出した。
さすが陸上部。慣れたもので、源の足はカモシカのようにハードルをすばやく越えていく。
タイムを測っていた体育教師が顔を上げた。
「よし、まあまあか。じゃ、お手本を見せたところで今の解説な。みんなにもこれからやってもらうぞ〜。くれぐれも怪我には気をつけろよ」
教師の説明の後、グラウンドに準備されたハードル走のコースをひとりひとりタイムを測りながら走っていく。
おれは男子の列でも後方にいた。変に目立ちたくなかったためだ。
待っていると、変にあくびが出てきた。
「おい、榊原も寝不足か?」
おれの肘を友人の飯田がつついてきた。
「そんなとこだ。おまえのほうは?」
「昨日は夜遅くまでゲーム配信を見ていたんだよ」
オタク気質の飯田とはなんとなくウマが合うので、そんな話をだらだらと続けた。
「はい、次の人、準備しろ〜」
「あ、やべ、おれだ」
おれはスタート位置に行く。
そこにはホイッスルを持った源がいた。陸上部ということで手伝わされたのだろう。
「榊原、もう少し前に出なよ」
「わかった」
最近では短歌のやりとり云々のために、おれは一方的に普段の源に対して気まずく思っていた。
陸上競技なんて、もろにあいつのテリトリーだし。
おれは源を見ないようにしながら、一歩前に出てからスタートの構えを取った。
横から源の視線を感じる。
「位置について」
源の声が響く。高くもないが、低すぎるわけでもない声。聞き取りやすい良い声だ。緊張感をはらむとその良さがさらに際立つ。
「よーい……」
いや、なんでこんなことを考えていたのだったか。
今はハードル走だ。すばやくハードルを飛び越える、それだけだ。関羽だって赤兎馬に乗りながらバンバン飛べたのだから、「教室の関羽」もやるときはやる。
――ビィーー!
ホイッスルの音が、遠くから聞こえた。あ、やばい、反応が遅れた。
おれは必死で足を動かした。そして、最初に現れたハードルをぴょん、ぴょん、と……。
――眠い。
ぐらり、と体が傾いだ。
ガシャンッ!
「榊原!」
気づけば、おれの視界には真っ青な空があった。
どうやらハードル一つ目で派手にひっかかり、ハードルを巻き込みながら転倒したらしい。うわ、情けねぇ。
「あ〜いてぇ……」
起きあがろうとすると、体の節々が痛い。よくみれば右の膝からしっかり血が滲んでいた。
痛みをこらえながら、おれはだれかの肩を借りて、立ち上がる。
「大丈夫?」
「すまん、ありがと、う……?」
おれが無意識に肩を借りていた相手は……源であった。
――え、なんで?
おれが目を白黒しているうちに、体育教師と源が話を進める。
「先生、榊原を保健室に連れていきます」
「わかった。榊原、先に流水で血を流しておけよ」
「それも俺が連れていきます」
「そうだな。あと、榊原。今日は無理しなくていいから。何かあればまた呼んでくれ」
源が怪我したおれを保健室に連れて行く流れが出来上がっていた。
源、いくら近くで怪我人が出たからといって、そこまで「王子さま」をしなくていいだろ。
「いや、源。さすがに悪いし、おれひとりで保健室ぐらい行くからさ」
「いや、腕ならともかく、足だろ。心配だからついていく」
源の言い分ももっともなことだ。膝はいまだにじくじく痛む。縫うような怪我でないといいが。
「ほら、俺の肩に腕回して。……そう、そんな感じで」
「あぁ」
膝が痛い分、少し歩きにくい。
源に支えられつつ、保健室の前に外の水道で膝に水を当てる。
水を膝に当てるために、靴下やスニーカーまでべちゃべちゃに濡れてしまったが、こればかりは仕方ない。
「よかった。まだ傷は小さそうだよ」
たしかに、流血は派手だったのに、その下から現れた傷は驚くほど小さい。それには安堵した。
「榊原、ほかに怪我したところはないか?」
そう言って、大きな手を伸ばしてきたので、おれはびっくりして、身を引いた。
「いや! たぶん、ほかにはないから! 膝だけだと思う!」
「そうか」
源は手を引っ込めて、小さく笑う。
「そうだ。ハンカチは持ってる? 足元かなり濡れただろ」
「いや……持ってない」
「なら貸すよ」
「いや、いいって」
「いいから」
源は、紺地のハンカチをポケットから出すと、おれへ跪くような姿勢で傷に触れないように脛から下を拭く。
おれからは源の頭頂部が動いているのが見えて、心がざわついた。
「よし」
源が確認するようにおれを見上げてきた。ばちりと視線が交錯する。
おれは、この時、初めて源とまともに顔を合わせた気がした。
源はおれの目の奥に何かを見ただろうか。源の瞳孔が一際大きくなる。
「……ハンカチ、悪いな」
沈黙に耐えきれず、おれは呟いた。
自分の足を源のハンカチが優しく滑っていく感覚が、まだ残っていた。
「気にするなよ。クラスメートだしな、これぐらい」
「そうだな」
源はなおも何か言いたげな顔をしながらも、おれを保健室に連れていった。
「あれ、先生いないな。……探しにいってくるよ」
おれを椅子に座らせた源はすぐに廊下へ出て行こうとした。
さすがにおれにも、源の親切心が身に染みていた。
――源は、本当にいいやつなんだろう。
それに対して、あれこれひがんだりしていたのは、自分の方だ。
卑屈で根暗な榊原樹の見ていた世界こそが歪んでいたのだ。
「源!」
出て行こうとした源が振り返る気配がした。
「まじで助かった、ありがとう。同じクラスになったばかりなのに、迷惑かけてすまん。いいやつだな、おまえは」
いいやつだ、と言った途端、ふと源の顔に陰が差した。
「榊原……俺はそんなにいいやつでもないよ」
それは予想外の反応だったが。
まぁ、本人からしたらそんなものか、と考え直す。
なにせ、おれはどちらかといえば性悪説を支持している。
「ま、それでもいいんじゃね? いいやつだけだったらつまらんだろ。人間、アクがあってナンボだ。ひねくれていこうぜ」
大真面目に言ったつもりだが、源は腹を抱えて笑い出す。
「榊原って、教室の隅で読書しているような孤高なタイプかと思っていたのに、突然、面白いことを言い出すね」
「……いや。ウケ狙いじゃないんだけど」
「じゃ、天然ってことかぁ」
源はさらに満面の笑みを浮かべた。擬態語は「きらんきらん」だ。さすがクラスの王子と呼ばれているだけのことはある。
「いいことを知れたよ。そろそろ養護の先生を探しに行かないと。待ってて」
源はひらひらと手を振りながら保健室を出ていった。
――なんなんだ、あいつは。
なんか変に気に入られたような気もする。……気持ちだけかもしれないが。
なにせ相手は人気者だ。おれのような小者に興味を持つとも思いにくい。一時の気の迷いの可能性も捨てきれない。
――ま、たしかにああいうタイプの友達がいたら楽しいかもしれん。そこは否定しない。
源はおれが昼休みに放り込んだ返歌を読んだだろうか。
桃源の夢は胡蝶の 御簾は境目に垂れて微風もなし知る者も
思い出すと、心がしんと冷えていく心地がした。
おれと源には、断絶が横たわっている。
『詠み人知らず』としてひそかに源と短歌を交わしているおれを知れば、源の反応も変わるはずだ。
源が酌み交わしたいとしたポカリも、胡蝶の夢みたいなものだろう。
――なんなのだろう、この気持ちは。
短歌になりきらない曖昧模糊とした何かが俺の心に渦巻いていたのだった。