第4話 壜《びん》をあふれて
広野が立てば周囲の雰囲気が塗りかわった。
大林たちからからかいの色が消えた。
「な、なんだよ、いいじゃん、別に……」
怯えた小動物みたいになる大林。顔が引き攣っていた。
広野は彼らの間にずかずかと割って入り、短歌ノートを取り返す。
「こ、広野。あの、これは、冗談だって」
「冗談にしろ、やりすぎだ。おまえだって、大事な野球のことをばかにされたら怒るだろう。人の気持ちを考えろ。俺は人の気持ちを考えられないやつがきらいだ」
「う……」
「大林。今のうちにさっさと福永に謝ったほうがいい……ほら」
広野の勢いにおされた大林は、ここでやっと、騒動を遠巻きに見るしかなかった、亀山さん含めたクラスメートたちの冷たい視線に気づき、ごくりと唾を飲み込んだようだった。
大林たちは目配せし合いながら、僕の前に立ち、申し訳程度に頭を下げた。
「ごめん」
「悪かった」
それでも、大林たちも悪ノリをしたことには気づいたようで、僕も許すことにした。
「いや……わかってくれたら、いいよ。受け入れる」
「すまん」
クラスの雰囲気がようやく緩む。授業合間のおしゃべりが再開したところで、広野は僕を廊下に手招きし、短歌ノートを手渡した。
「広野、ありがとう。助かった」
僕はやっと広野にお礼を言えた。ほっとして、短歌ノートを抱きしめる。
「いや、いい。あれは俺がむかついただけだ。あんな……本人の許可もなく人目にさらすような真似はするべきじゃない」
「そう。本当にありがとう」
「……俺は、福永の短歌が好きだから」
広野はぽつぽつと続けた。
「あんなふうに扱われるのが耐えられなかったんだとおもう」
「そうなんだ。……広野は、かっこいいやつだな」
僕は半分本心、半分恋心を隠しながら告げた。
「やめてくれ。そこまでかっこよくもない」
広野はポケットからスマホを取り出した。
広野の待ち受け画面の画像には、
「神さま」に気づかれた時 透明で見返されない壁がほしくて
僕の短歌が、広野の文字で書いてあった。僕とは違う癖のある――かくついた文字だ。
広野が頬を少しかきながら小声でいう。
「実は……こっそりと覚えていたから。悪いな」
「い、いや……いいんだけどさ」
わざわざ自分の字で書いたものを撮影して待ち受けとしてもっていたという。
たしかに先日も僕が紙を書いた短歌がほしいと言っていたが……広野がちゃんと本気だったことに気づく。
広野は、本当に僕の短歌を読む時間を楽しみにしていたのだ。
――それはめちゃくちゃうれしいな。
僕にとっても、その時間はとても重いものだったから。
もうどうなっても構わない。
――このひとに、僕の短歌を読んでほしい。
たとえ最後に、恋心があらわにされたとしても。
「だからさ、福永。また福永の短歌を読みたい」
「……わかったよ」
僕は肩を下げて笑った。
「僕も本当はみてほしかったから」
「なら今日の放課後に」
「いいよ」
僕と広野はたわいもない約束をしたのだった。
かくついた形のひとつひとつにぬくもりがあって忘れかけた息
放課後。僕はできたばかりの短歌を広野に見せた。
教室にはまだ他の生徒もいたが、僕たちに注意を払うことはなく、その声は遠ざかっていく。
広野はノートに書きつけてある短歌にじっと目を落としていた。
まるで永遠のように感じる時間だった。
広野がみじろぎするたび、僕は息がとまりそうになる。
今見せている短歌は僕が気持ちを自覚して初めて作った短歌だ。
「かくついた形」とは、広野が見せてくれたスマホの待ち受け画面で見た広野の字の形を指している。
広野のことを想ってつくった短歌を、広野によって読まれる。恥ずかしさと喜び……気持ちがばれないかという恐れがあった。
「かくついた形のひとつひとつにぬくもりがあって忘れかけた息……か」
ふいに広野が短歌を読む。
「福永の短歌は、やさしいな。つぶやきたくなる」
「そうかな。ありがとう」
僕は照れ臭くなって、体を縮こまらせた。
「写真に撮ってもいいか。お守りにする」
「いいよ」
パシャリ。広野のスマホが僕の字ごと短歌を撮影する。
「もっときれいな紙に書けばよかったね」
「これが、いいんだ」
広野はふっ、と気の抜けた微笑みを浮かべた。
――広野は、そんなやさしい顔もするのか。
「さて」
広野はノートをもう一度手に取り、シャーペンを持つ。
いつものように僕の短歌にコメントを添えようとしたが……その手はとまった。
「広野?」
広野は動かない。やがてふたつの目だけが、視界にいる僕を捉えた。
なんの前触れもなく、広野は立ち上がった。ギッ、と椅子が派手に動く。
「すまない。……今回は、コメントが難しい」
「そうなんだ……」
そう言われ、僕の気も抜けた。
広野のコメントは、強制でもなんでもない。仕方のないことだ。
「まとまらなくてな……すまない」
「いいよ、別に」
僕はぎこちなく笑った。残念がっているのを悟られたくなくて。
「今日はもう帰ろうか」
「……あぁ」
二人連れ立って、玄関に行く。
外は雨で、そろそろ暗くなるころだった。
僕は、傘を持たずに玄関から出ようとしている広野に声をかけた。
「広野、傘は?」
「忘れた。雨の予報だったのにな」
さすがに僕も予備の傘まで持っていなかった。
「僕の傘に入ってく? 駅までだろ?」
思い切って申し出てみたが、広野は首を振る。
「それは悪いから。走っていく」
「そっか……」
広野は雨に濡れないぎりぎりの位置まで前に出る。
夏服の白いシャツがいやにまぶしく、大きく見えた。
「福永に聞きたいことがある」
「なに?」
「さっきの短歌は、俺に向けてのものか?」
「あ……」
ぐっ、と心臓が押し潰されたような感覚。指先がじん、と熱くなり、動きを忘れる。
僕は、広野が振り向いていたことさえ、気づかなかった。
知らぬうちに、広野は僕を見下ろしていた。
その片手が僕のほうへ伸ばされそうになり……やめた、ようにみえた。
「いや、いい。きっと、気のせいだ」
自ら言い聞かせるように呟くと、広野は雨の中を風のように走っていった。
僕はいまだに魔法が解けないで立ち尽くしていた。
――ばれた、のか?
今までではじめて「コメントできない」と告げた広野。
僕が気持ちを自覚したから、伝わったのだろうか。
傘に入るかという申し出もわざわざ断り、
『さっきの短歌は、俺に向けてのものか?』
そう、問うてきた広野。
「そうだよ」
僕の呟きは雨に溶かされて消えていく。
――ずっと、おまえに向けてつくっていたんだよ。
面と向かって問われたのに、僕は素直に告げられなかった。
――告げたところで、どうなるんだろう。
同じ気持ちを広野から返してもらえるなんて、思えないのに。
今の関係が壊れ、広野へ短歌を読んでもらえなくなるのは、いやだった。
雨足がさらに強くなる。
僕は傘を差して、雨の中を歩き出した。
雨 ふたり分けあう傘はなくひとりとひとり 滴でけむる背中
近ごろの俺はどこかおかしい。
『今回は、コメントが難しい』
どうして福永にあんなことを言ったのか、自分でもよくわからなかった。
今までそうしていたように短くとも、よかった、と書いてしまえばよかったのに。
福永は傷ついたような顔をしていた。罪悪感を覚えた。
いつもそうだ。
言いたいことは心で渦巻いているのに、うまく言えない。適切な言葉が出てこない。
俺は口下手なんだと思う。言葉が足りていないのだ、と親からも言われてきた。
かくついた形のひとつひとつにぬくもりがあって忘れかけた息
この短歌を読んだ時。ふと別のときに、俺が書き込むコメントをながめながら福永が何の気なしに言った言葉を思い出す。
『広野の字体ってさ……少しかくついているんだな』
「かくついた形」。……この短歌は、俺のことだろうか。
それだけでなくて、今まで読んできた福永の短歌たちを……ただ語句の流れがきれいだと追ってきた短歌のほとんどが、別の意味を帯びているように思えてきて。
福永は親切なやつだ。そういうやつだからこそ、あんなにやさしい短歌をつくれるのだと思う。
『僕の傘に入ってく? 駅までだろ?』
俺が傘を忘れたといえば、そう返した福永はいいやつだった。
福永から短歌を見せてもらうようになって三ヶ月ほどになる。福永からの好感はずっと感じていた。
普段なら、勧められるがまま傘に入っていたかもしれない。だがあの時は……どうしてか、断っていた。
そしてさらには。
『さっきの短歌は、俺に向けてのものか?』
そんなわけないのに、尋ねてしまった。
福永は呆気に取られていた。無理もなかった。俺が考えなしに指摘したのだから、当たるはずもない。
福永には福永の交友関係があるし、クラス内でも俺と接点があるのは短歌の時だけだ。
福永は俺の知らないところで、知らない感情と出会い、日々短歌を詠んでいる。
今までそこまで意識してこなかったことが急に近くに感じられ、俺は。
……俺は、体中がびしょ濡れになって駅に着く。
考えながら走ったせいか、息が荒くなっていた。
こんな大雨の中、傘も差さずに走ったのだから当然だ。
電子蛍光板で発車時刻を確認してから改札をくぐる。
電車は定刻通りに出発し、俺はドア近くの角に体を預けた。
雨に濡れていた手も、今は乾いている。
――俺はこの手で、どうしたかったのだろうな。
無意識に福永へ伸びていた手。
理由が自分でもわからないで、引っ込めた手。
全部が衝動で動いていた。
福永のことは、いい友人、だと思っている。だからこそ大切にしなければならなかった。
あんなにきれいな言葉を紡げる人間なのだから、自分のように粗忽なところのある人間は、より慎重でいなければならない。
以前の大林たちがやったように、デリカシーのなさが、福永を傷つけることだって……。
――そこは、俺が、守ってやらないと。
あれほど、深く傷つけられた顔は見ていられなかった。
大きな目がさらに見開かれて、唇がふるふると震えて。普段はそこまで小柄でもないのに、体が小さく見えた。
あまりにも気の毒で、思い返すたびに、大林たちへの怒りがぶり返し、思わず拳を握る力が強くなる。
福永は、短歌のことになると、饒舌で、よく笑顔になっていた。早口になるのも、本当に自分の趣味を好んでいるからだろう。
俺は、福永のそんな話を聞く時間も好きだったのに。
だが、福永を大事にしたい俺が、福永を傷つけてしまっては元も子もない。
がたがたと震える車両の中、俺は目を瞑って深呼吸をした。
――俺は、ただの、福永の短歌を読みたいだけの、ファンだ。
ファン。そんな言葉が、一番しっくりきた。
福永の短歌は新聞にも掲載されたことがあるらしい。本人は初心者のラッキーだとも謙遜していたが、もしかしたら将来、歌人として結果を残すかもしれない。
そうなれば俺はその過程にいた、ただのファンなのだ。
福永はすごい人になる。
俺はそんな予感がしていた。
「ファン、か」
――ファンならば、きちんとした距離で接したほうが、いい。
だから福永と同じ傘に入らなかったのは正解だ。同じ傘の中にいたら、距離が近すぎる。
福永のためにもなるだろう。
――本当に?
ふいに心のざらつきが立ち上がった気がするも、俺は無理やり自分を納得させた。
電車の扉には大きな雨粒が叩きつけられ、横に流れていていたのだった。