02_再出発
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「エリシア様は……本当に、恐ろしいほどに優秀です」
稽古が終わった後、教育係のハンナは静かにそう告げ、アーデルハイト公爵夫妻に深く頭を下げた。
「やはり君もそう思うか。あの子は、まるで吸い込むように物事を覚えていくからな」
父オーランドは、窓の外にいる娘の姿を目で追いながら、口元に穏やかな笑みを浮かべる。細められた瞳には、娘への揺るぎない信頼が宿っていた。
「好奇心旺盛で、勉強熱心……あの子を見ていると、将来が楽しみで仕方ないわ」
母マルグレーテは庭先で読書に耽る娘に目を向けながら、声に柔らかな温もりを滲ませた。陽の光を浴びて金糸のような髪がきらめき、風に揺れる草花の中で、まるで絵画の一部のようにエリシアは静かに本を読んでいる。
「旦那様、奥様……もはや、私ごときが教えられることは、何もないのかもしれません」
ハンナの言葉に、嘘やお世辞の気配は微塵もなかった。それは驚愕と敬意の入り混じった、心からの本音だった。
◇
ラザリオ王国でも屈指の名門――アーデルハイト公爵家。その一人娘、エリシア・アーデルハイトは、まだ四歳。
けれど彼女はすでに貴族令嬢としての基礎教育――読み書き、礼儀作法、歴史、地理、すべてにおいて完璧な成績を収めていた。
エリシアにとって日々の「お稽古」は知識を詰め込む場ではなく、すでに理解した内容を確認するだけの作業に過ぎなかった。
(この世界の言語、文法構造は日本語とほとんど同じ……やっぱり、私の推測は正しかった)
彼女の正体は、この世界に転生した存在。
前世――日本という国で、大人の女性として生きていた記憶をそのまま保持したまま、この世界に生まれ落ちたのだ。その記憶と知識を駆使し、生まれ変わった人生を、彼女は軽やかに、そして貪欲に歩んでいた。
そんなエリシアが、いま最も心惹かれているのが――魔術。
(「魔法」じゃなくて「魔術」なのよね。その言い方だけで、ずいぶん印象が違うわ)
この世界では、魔術は日常生活に根付いた技術であり、誰もがそれを当然のものとして受け入れていた。
しかしエリシアにとって、それはまさに前世で夢見た「ファンタジー」の世界そのもの。漫画やゲームでしか見たことのない力が現実に存在するという事実は、彼女の探究心に火をつけた。
だが――
(呪文詠唱って、本当に必要なのかしら?)
人々は魔術を使う際に決まって詠唱を行う。誰も疑問を持たないその「常識」に彼女は違和感を覚えた。
屋敷の図書室にある魔術書を片っ端から読み漁るうちに、彼女はある仮説に辿り着いた。
(詠唱が魔術を起動するスイッチだというのなら、そのスイッチを自分の脳に直接組み込めばいいだけ)
前世でプログラミングに親しみ、記憶術や論理的思考を身につけていた彼女は、魔術の構造を分析し始める。
マナ、術式、イメージ。
この三つさえ揃えば、魔術は動く。そう確信したエリシアは、言葉を介さずに発動するための「ショートカット」を自らの脳内に作り上げた。
魔力の流れを思考でシミュレーションし、何度も何度も構築を繰り返す。そして、それを無意識に近いレベルまで落とし込んでいった。
そして、ある日――
【ウィンド・エッジ】
声に出さず、ただ心の中で発動をイメージした瞬間。
空気がざわめき、小さな風の刃が宙に生まれる。
シュッ――。
静かな音を立てて、庭の植木の枝が一筋に切り落とされた。
それは無詠唱魔術の完成を意味していた。
「今……呪文を詠唱されていませんでしたよね……?」
驚愕に目を見開いたハンナが、わなわなと肩を震わせながら声を漏らす。彼女もまた、かつては魔術師として訓練を受けた者だった。だからこそ、この光景の意味が誰よりも理解できてしまった。
「ええ。必要ありませんの。全部、頭の中でやっていますから」
微笑みながらそう答えるエリシア。
「ま、まさか……そんな理屈が通るなら、魔術の歴史そのものが変わってしまいます!」
「でも、ちゃんと動くでしょう?」
そう言って、彼女は手を軽くかざす。
風、水、炎、光――。
詠唱なしに次々と展開される多属性魔術。精神集中の気配すらなく、ただ意図するだけで現実をねじ曲げる力が発動されていく。
「……天才……そんな言葉じゃ、とても足りない……」
ハンナは震える声でつぶやいた。
四歳の少女が、大人でも到達できない領域を、当然のように踏み越えていく。
しかも――
「マナ切れの気配も、まったくない……?」
彼女は一体、何者なのか。
ハンナは答えを求めるように、無意識にエリシアを見つめていた。
だが、その問いの答えは、誰にもわからない。
唯一の真実は――彼女が、かつて一度「死んだ人間」だということ。
(今度こそ、私は自分のために生きる。やりたいことをやって、幸せになるんだから)
その決意の火は、誰にも消せない。
魔術は、そのための武器。
彼女が新たな人生で掴み取る、自由への鍵であった。
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