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01_OLの最期

感想をお待ちしております。

 深夜0時53分。


 無人のオフィスに蛍光灯の白い光が無機質に降り注いでいる。

 パソコンのモニターが机を淡く照らし、静かに響くのはキーボードを叩く音だけ。


 伊藤美織、27歳。

 広告代理店に勤めて5年目。いま、企画書の最終ページを打ち終えたところだった。


「……やっと完成」


 力なく漏れた呟きは誰に届くでもなく、空気の中に消える。


 周囲のデスクは真っ暗。コピー機すら電源が落ち、社内に残っているのは彼女ひとりだった。


「また、こんな時間になっちゃった……」


 頼っていた先輩は産休に入り、後輩は精神を病んで休職中。

 そのツケが全部、自分にのしかかってくる。気づけば三人分の仕事を三週間、丸ごとこなしていた。


 月末進行、新規企画、販促物の制作に、無茶な修正の山。


「さすがに厳しいなぁ……」


 過労、睡眠不足、空腹。

 思考がかすれ、現実感が剥がれていく。


(私、何のために生きてるんだっけ……?)


 問いは浮かんだが、答えはどこにもなかった。


 彼氏はいない。友達とも疎遠。休みの日は泥のように眠るだけ。

 仕事中はメールの山。電話の嵐。将来なんて考える余裕もない。


(こんな人生で、本当に良かったの……?)


 重いノートPCをバッグに詰め、ようやく退勤。時計は深夜1時を回っていた。


 ふらつく足取りでエレベーターホールへ。

 そこで、決定打を食らう。


『本日、エレベーター点検中のため使用不可』


「……うそ、でしょ」


 干からびた声が漏れた。


 この世のすべてが自分の敵に思えてくる。


 ヒールの足元はやけに重い。昼もろくに食べてないせいで、少し目が回る。


「……階段で行くしかないか。ここ六階だけど」


 冷たい非常階段の扉を開けると、無人の廃墟のような静けさが押し寄せた。


 足を踏み出した、その瞬間──


 ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。


 一段目を降りた途端、視界が揺れた。


 脳の奥がズキリと痛む。空間が歪む。


 ──ガクン。


 足を踏み外した。


「……あっ」


 ヒールのかかとが引っかかり、踏ん張る足に力が入らない。


 重力が容赦なく体を引きずり込む。


 女性社員はヒールの着用が義務となっていた。


 ──そもそも誰のために、こんなヒールを履かされていたんだっけ?


 会社の規則。意味のない慣習。


 そのすべてが今、悲劇となって美織に襲い掛かる。


 次の瞬間、全身に衝撃が走る。

 世界は音もなく、闇に沈んだ。


 ◇


「ん……」


 重いまぶたがゆっくりと開く。


 見えたのは照明の切れかけた非常階段の天井。明滅する蛍光灯。


 その下に、倒れている『自分』がいた。


 スーツは乱れ、顔からは血。床は黒く染まり──


「これ、私……?」


 かすれた声。だけど、どこか他人のもののように聞こえる。


 手すりに手を伸ばす。すり抜ける。触れない。


 音もしない。気配もない。


 美織の意識は、身体を離れていた。


(私……死んだの……?)


 恐怖がこみ上げる。震える。心臓は動いていないはずなのに、胸の奥だけがざわついていた。


 そのときだった。


 カァン……。


 空気を震わせずに鳴った、澄んだ音。


 見上げた先に光が差し込む。


 まるで太陽が夜の天井を突き破ったかのような、まばゆい光。


 そこから──誰かが降りてきた。


 白い衣。金の髪。虹色の粒子をまとい、浮かぶように美織へと近づいてくる、美しい女性。


「伊藤美織さん」


 声が直接頭の中に響いた。柔らかく、けれど絶対的な力を宿した声。


「だ、誰……?」


 女性は静かに歩み寄ってきた。その足は地面に触れているようで、まるで浮いているようにも見える。彼女が一歩踏み出すたび、光の波紋が床を這う。


「あなたはこの世界での命を終えました」

 

「え……?」


「ですが、望みがあるなら──別の世界で、人生をやり直す機会を与えましょう」


 美織は呆然としたまま言葉を失った。


 命を終えた。その意味は目の前の「自分」の姿が証明している。冷たくなった身体。動かない胸。これは夢でも悪い冗談でもない。


「どうして私が死ななきゃならないの……?」


 唇が震える。残業続きで、ろくに眠れなかった。誰も代わってくれなかった。


「こんな死に方、納得できない……!」


 女神のような女性は微笑みを崩さずに静かに言う。


「あなたはとても真面目で、誰かのために自分を犠牲にして生きてきました。ですが、残念ながら無念の死を遂げてしまいました。私は哀れな最期を迎えたあなたを救済したいのです」


「……救済?」


「はい。次の人生では、一つだけあなたの望みを無条件で叶えて差し上げましょう。あなたの魂には、それだけの価値があります」


 女神の言葉が優しい音楽のように胸に染み込んだ。


 いつの間にか美織は涙を流していた。


「あなたの望みは何ですか?」


 望み。そう言われても、すぐには何も浮かばない。けれど、気づけば口が動いていた。


「結婚して、温かい家庭を持ちたい……」


 ぽつりとこぼれたのは、幼い頃から夢見ていた未来。


 誰かと支え合い、平凡でも穏やかに暮らす人生。


 いつか手に入ると信じて疑わなかった、ありふれた生活。


「幸せに……愛する人と……」


 言葉は途切れ途切れだったが、それは間違いなく美織の本心だった。


 女神はそっと微笑む。


「かしこまりました。では、あなたにふさわしい世界を授けましょう。女神の加護とともに」


 まばゆい光が、美織の身体を包み込む。


 すべてが白に染まり、彼女の意識は深い、けれどどこか温かな闇の中へと落ちていった。


 ◇


 目を覚ました瞬間、耳を突くのは甲高い泣き声。


「おぎゃあ! おぎゃあ!」


 それが自分の声だと気づくまで、少しかかった。


(え、赤ちゃん……?)


 視界はぼやけ、身体は動かない。なのに、不思議と恐怖はなかった。


 天井には見たことのない美しい装飾。周囲の人々は、異国の民族衣装のような服を着ていた。


 その中心でひときわ目を引く若い女性がいた。長い銀髪を揺らし、宝石のような青い瞳に涙を浮かべている。彼女は優しく美織を──いや、生まれたばかりの赤子を、その腕に抱きかかえていた。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


 彼女はそう言って、震える声で微笑んだ。まるで宝物を見つけた子どものような、純粋な喜びがその顔に満ちていた。


 その声の温かさが胸の奥まで染みこんでくる。


(私、生まれ変わったんだ……)


 やがて、誰かが名前を告げた。


「エリシア・アーデルハイト。この子は我が家の誇り」


 美織は新たな世界で生を受けた。

 温かな声に包まれ、真っ白な人生を、もう一度歩き始める。



お読みいただきありがとうございます。

感想をお待ちしております。

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