呼ぶ声
誰かのささやきで目がさめた。「なに?」と聞いても答えはなく「ねえねえ、ねえねえ」と、こちらの都合はお構いなしに話しかけてくる。仕方なく時計を見ると朝の五時だった。空がまだ白い。
一人暮らしの恵を起こす者はいない。一体誰が? と顔をしかめながら見下ろした街は静まりかえっていて、遠くから近づいてくる新聞配達のバイクの音がよく聞こえた。ゴミ回収の日だというのにまだ山はできておらず、昨夜から出ている二、三個のゴミ袋があるだけだ。
「せっかく休みだったのに」
部屋に戻ろうとすると、急に朝の冷たい空気が忍びこんできて、身を縮こまらせた。つま先から伝わるじんわりとした布団の暖かさは、あっという間に恵を二度寝に飲みこんだ。
休みなく動く時計は、普段どおり七時に恵を起こした。風呂の残り湯をバケツにくんで、ベランダへ運ぶ。空は一変していた。青く澄みわたり、バケツの色が染みこんだような色をしていた。
バケツからはねた飛沫が灰色のコンクリートを黒く変える。せまいベランダのプランターには、パセリ、ニンジン、アスパラガスにまじって、アゲハチョウが黄色い卵を生んでいったミカンの鉢植えがある。羽化が見たくてそのままにしていたら、食欲旺盛な幼虫たちが葉を食べつくしてしまった。
「蝶々になるときは教えてね」
いつものようにアゲハチョウの子にそう呼びかけていると、ミカンの枝にぶらさがったさなぎの様子がおかしいことに気付いた。全体が白く、背中が裂けていて、中が空洞になっている。
まさか今朝の声は。
恵は目を丸くして、空になったさなぎをそっとなでた。
(2004.11.19)