第二章:正解を、まだ選ばない人たち
「綾瀬。……ちょい、廊下」
昼休みの終わり際。
教室のドアがコン、と軽くノックされたかと思うと、そこにいたのは柴山だった。
——1年B組担任。物理教師。だらしないシャツと気だるげな目がデフォルトの人間だ。
相変わらずのシャツのシワ。カーディガンの裾は片方だけ捲れていて、
手には書類のようなもの——と、何故かボールペンを2本。
「別に、説教とかじゃないから」
言いながら、廊下に出ると同時にボールペンをくるっと回した。
無意味なタイミングで“だけ”リズムが合ってて、なんか腹立つ。
「で?」
「いや、最近の若者は“前置き短めで核心から言え派”なんでしょ?」
「ちがう。“意味のない演出するくらいなら黙ってて”派なだけ」
「辛辣でよろしい。……さて」
柴山は、さして緊張もなくポケットから紙の束を取り出す。
週明けから始まるという“読書発表”の実施要項だった。
「でね、これ。グループ内の“進行役”ってのが一応あってさ。
あくまで“進行役”。リーダーじゃない。威張る必要も、仕切るのは他に任せる。……ただ、“火がつきそうなとこを黙って火消しする”くらいの役割」
「俺が?」
「そう。“何となく空気を見てそうなやつ枠”として、ノミネートされました」
「推薦者は?」
「ノーコメント。まあ、俺じゃないけど、俺も否定はしてない」
「……適当すぎるだろ」
「“適当さ”って、現場での応用力だから」
柴山は真顔でそう言いながら、今度はもう1本のボールペンを回し始めた。
どうでもいいところだけ、やたら器用。
「別にさ、期待してるとかじゃないよ。“観察してるな”っていう感じが、ちょっと気になっただけ」
「それ、褒めてんの?」
「うんにゃ。“他人に興味ないくせに、反応だけは速い”ってやつは、場の“歪み”を察知できるから」
「……そんな高性能なもん、俺に搭載されてた覚えないけど」
「自己申告ってさ、“信頼性ゼロ”なのよ。特に、自覚あるやつのほうが信用ならない」
柴山は俺を見た。
どこまでも力の入ってない目で、でも、絶対に外してこない視線だった。
「で? 断る?」
「……誰と組まされんの?」
「そこ気にするんだね。……ほい、これ」
柴山は紙をくるりと裏返し、俺の視線の前に差し出した。
「ご指名リスト、発表しまーす」
その一番下に、見覚えのある名前が——
一ノ瀬乙葉。
そして、知らない2人の名前。
俺は小さく息を吐いた。
「……じゃあもう、断るとか聞く意味なかったろ」
「いや、心理的抵抗を下げるためのプロセス。“選ばせた気分にさせる”だけで納得感が生まれるから」
「クソ教師だな」
「よく言われる。でも、生徒に言われたのは今が初」
柴山はふっと笑って、背中を向けた。
「じゃ、よろしく。俺はあくまで“観察者”だから。ま、困ったら勝手にメモっとくんで。“傾向と対策”ね」
「は?」
「俺、趣味で“生徒の癖”収集してんの。筆跡とか、言い回しとか」
「それ普通に気持ち悪いって自覚しろよ」
「うん。でも許されるのが教師の特権」
——そして彼は、そのままふらっと職員室のほうへ消えていった。
教室に戻ると、すでに席の何人かがざわついていた。
担任の柴山——“しばっち”が、いつのまにかグループ分けの紙を黒板横に貼っていた。
綾瀬以外の進行役に個別の説明があった様子はない。どうやら、俺だけ“ちょっと話された”らしい。
「進行役……とかマジかよ」
……前の席のあいつだった。自己紹介で“盛りすぎ”って笑われてたあの男子。
その彼が「進行役……とかマジかよ」って言ったとき、ちょっとだけ笑いそうになった。
あんな晒され方した直後で、よく引き受けたな。……いや、引き受けてねぇのかも。
少し離れたところでは、「うち○○いた!ウケる!」と盛り上がる女子グループの声がする。
そこに混ざる気もないので、俺は無言で自分の席へ戻った。
「ねえ、綾瀬くんだっけ? よろしくね~!」
いきなり、視界にまぶしすぎるものが入る。
俺の机に身を乗り出してきたのは──神林 彩花。
明るめの茶髪に、ゆる巻き。どこか「高校デビュー」のにおいがする。
「なんか“リーダー的なやつ”任されたっぽいんだけど、私ひとりだと事故る未来しか見えなくてさ。綾瀬くんいて助かったわ~!」
「……得意じゃないけどやらされてるってこと?」
「そうそう。“お前、声でかいから”って」
苦笑いしながら、前髪をくるくるいじる仕草。
テンプレ的な“リア充系”ってやつだ。
でも妙に、嫌味がない。というより、“自分の役割”をちゃんと自覚してる感じがある。
「進行役って、なんかさ、あれだよね。“発言ゼロの空気”をどうすっかってとこだよね」
「……いや、それ放棄したらただの事故だろ」
「それなー! だから、私ひとりだと事故率80%なんで、綾瀬くんは“保険”ね?」
なんというか——ペースが強引だけど、妙に打算的じゃない。
たぶん、“明るさ”で調整して生きてきた人間なのかもしれない。
「で、他に誰がいるんだっけ?」
「えーと……一ノ瀬さんと、志野くん?」
俺は無言で頷いた。
神林も「あー」って顔をしたが、すぐに口を閉じる。
「……ま、頑張ろっか。全員、テンション違いすぎてカオスだけど」
「それが“グループ”ってやつだろ」
「名言っぽいなにか出た~」
神林は軽く笑って、自分の席に戻っていった。
残された俺は、そっと斜め後ろの席を見る。
そこにいるのが、一ノ瀬 乙葉だ。
彼女は窓際で、ノートを開いたまま俯いていた。
教科書のページすらめくっていないのに、姿勢だけはまっすぐだった。
周囲の雑音を完全に遮断しているような、その“孤立のしかた”は、妙に完成されていた。
——気にしてないフリ、してるわけじゃない。
たぶんあれは、“気にすることに疲れた”って顔だ。
次の休み時間、俺はふと思い立って、彼女の隣の席に歩いた。
「……一ノ瀬。お前、進行役じゃないの?」
「違うよ。綾瀬くんでしょ?」
「いや、それは知ってる。“進行される側”としての心構えを聞いてんの」
「そんなの、言う人、初めて見た」
乙葉はそう言って、小さく笑った。
その笑いは、“愛想笑い”とも“戸惑い”ともつかない、微妙な角度だった。
「でも……ありがと。そういう確認って、少し安心する」
「……お前、話すと意外に普通だな」
「逆も同じ」
彼女の目は、相変わらず澄んでいたけれど、
その言葉のニュアンスは、どこか人間味があった。
この“空気の濃い”教室のなかで、
たぶん俺たちは、まだ“水の中”にいる。
浮かんでもいないし、沈みもしていない。
でも、会話という名の“酸素”を、少しだけ交換できた気がした——
放課後。
下校のチャイムが鳴ったあとも、クラスのあちこちで、ざわめきは続いていた。
「じゃあ明日、初ミーティングってことで!」
神林が、明るく、そしてほとんど確認を取らないままに宣言する。
彼女の口調はあくまで軽く、でも「これに反論できる空気じゃないよね?」という空気ごと引き連れている。
それは“明るさ”というより、“牽引力”だった。
俺と乙葉は、顔を見合わせることなく頷いた。
そして、最後のメンバー——志野の存在を、誰もまだ知らなかった。
「……あの」
空気の隙間を縫うような、けれど不自然なく入り込んできた声。
「俺、志野です。同じグループ……だよね?」
立っていたのは、教室の一番後ろ、掲示板の影にいた男子。
髪はやや長めで、制服は整っているけど、ボタンの留め方に無頓着さがある。
全体として、“教室の輪郭に溶け込む術”に長けている人間だった。
「うわ、ごめん! 気づいてなかった! 名前しか見てなかった~!」
神林はあっけらかんと謝る。
そしてすぐに、「じゃ、また明日ね~!」とその場を後にした。
——ああいう明るさは、逆に“空気を見ていない”ことに対する免罪符になるのかもしれない。
志野は小さく笑って、「大丈夫です」とだけ言った。
その声は、明らかに“慣れている”感じだった。
名前を呼ばれないことにも、視線をもらえないことにも。
「……じゃ、明日。昼休みにでも、空いてるとこで」
俺がそう言うと、志野はまた、同じ強さの笑みで頷いた。
その表情はまるで“湿気のない返事”だった。
それぞれの距離感。
それぞれの沈黙。
同じクラスで、同じ空間にいるはずなのに、
その“内側の濃度”は、まったく異なっていた。
——これは、やばいくらい、バラバラだ。
そう思った直後、乙葉が隣でぽつりと呟いた。
「きっと、みんな、別の理由で“黙ってる”んだろうね」
「……は?」
「声を出す勇気がない人。
空気を壊したくない人。
壊すと何かが止まりそうな人」
彼女の言葉には、説明のようでいて、“自分への注釈”のような響きがあった。
「……で、君は?」
「私は……“言うことが多すぎて、何から言えばいいかわからない人”」
ほんの一瞬だけ、視線がぶつかって、
それから、また静かに離れた。
彼女の“まっすぐさ”は、たぶん誰かのためにあるんじゃない。
ただ、それが“正しいと思ってしまった”だけなんだ。
——まったく。面倒な奴らばかりだ。
でも、そういうバラバラな奴らのなかにいる今の方が、
俺はなぜか、“息がしやすい”気がした。
グループワーク。
このどうしようもない組み合わせの中で、
きっと、何かが始まろうとしている。
それが“前向き”かどうかはわからない。
ただ、避けられなかったという事実だけが、静かに残った。