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第一章:誰にも選ばれない日々

教室の空気には、まだ“誰のものでもない”匂いがあった。

新築の家のように、あるいは印刷されたばかりの教科書のように。

均質で、人工的で、どこにも属さない。

それは裏を返せば、「本物の気配がない」ということでもある。

脚を引きずるように教室に入った俺── 綾瀬あやせ めぐるは、窓側の後方にある席を見つけた。

一番目立たず、誰にも干渉されないその席。

当然のように空いていた。たぶん、“なんとなく避けられている”場所なのだろう。

そういう場所は、俺にとってちょうどいい。

机の上には、名札とプリントが数枚。

そして、誰の指紋もまだついていない“このクラスの空気”があった。

「綾瀬……廻」

担任が読み上げたときの発音は、どこか頼りなかった。

初見で読まれないことには慣れている。

他人にとって、俺の名前は“発音しづらいラベル”でしかない。

それは、俺自身にも言えることだ。扱いづらいラベル。

着席する。

机の表面には、無数の薄い傷があった。

丁寧に扱われた痕跡。でも、“誰かがいたことの証拠”にはなっていない。

優等生だったのかもしれない。だけど印象には残っていない、そんな人物の影。

「……ま、そうなるよな」

誰に向けるでもない声が、喉をすべって漏れた。

クラスメイトたちは、すでに小さな群れを形成し始めていた。

笑い声、名前の呼び合い、近すぎる距離。

そこには焦燥感のようなものが混じっている。

“この空間で孤立しないために”という動機が透けて見えた。

「え、○○中? マジ? 近っ!」

「え、じゃああの噂知ってる?」「待って、そのプリントどこ?」

語尾は跳ね、声は高く、テンポは速い。

まるで、会話という名のジェンガを積み上げているようだった。

不安定な塔に手を伸ばしながら、それでも笑ってみせるのが“適応”なのだとしたら、

俺にはちょっと、向いていないゲームだ。

だから俺は、空気が薄い席に逃げ込んだ。

「──でさ、先生、いきなり“自己紹介カード”書かせるんだよ!」


昼休み。

後方の机を寄せ合っていた男子の声が響く。

俺はパンをかじりながら、その声だけを聞いていた。

机に突っ伏すでもなく、姿勢を崩すでもなく、

ただ黙っている“存在感のない人間”を演じる。

この教室における“最小干渉”としての在り方だ。

ふと、背後で椅子が引かれる音がした。

瞬間的に、肩がわずかにこわばる。

このタイミングで話しかけてくる人間は、たいてい二種類に分かれる。

「話しかける相手がいない」か、「いじれそうなやつを探している」か。

いずれにせよ、ろくな結末にはならない。

「……隣、いい?」

その声は、どちらにも属していなかった。

静かで、けれど芯のあるトーン。

教室という騒がしいノイズの中で、確実に耳に残る周波数。

顔を上げると、そこにいたのは── 一ノ瀬 乙葉(いちのせ おとは)だった。

整った顔立ち、澄んだ目。

均整のとれた髪型、きちんと着こなされた制服。

その見た目からは、“話しかけるタイプ”には見えなかった。

けれど彼女は、当たり前のように俺の隣の椅子を引いた。

「……どうぞ」

俺の声は、誰に向けたものでもなかった。

興味がないふりをするのは、もう習慣のようなものだ。

乙葉は、それ以上何も言わなかった。

そして、俺の隣の席に、静かに座った。

──ただ、それだけだった。

その日、最初に話しかけてきたのは彼女だった。 でもそれは、言葉を交わすことじゃなく、“沈黙を共有すること”だった。

そして俺は、それがこの教室で唯一“本物に近い行為”に思えた──


昼休みの終わり。

チャイムが鳴る直前、教室の後方で浮ついた声が飛んだ。

「ねえねえ、これ誰が書いたの!? うっそ、マジやばっ……!」

その声に、クラスの空気が一瞬だけざわついた。

椅子が引かれ、笑い声が広がり、視線が一点に集まっていく。

中心にいたのは、俺の前の席の男子。名前はまだ覚えていない。

彼の机から、クシャッと折れた“自己紹介カード”が出てきたらしい。

「“週3ジム通い”って、どこの世界線だよ」

「しかも“趣味: 筋トレ、読書、投資”って……」

笑い声は次第に高まり、

内容の茶化しから、本人の“見た目”や“態度”へとズレ始めていた。

「あー、わかる。“盛ってる感”出てるもんな」

「“俺ウケるでしょ”って思ってるやつの書き方じゃん、これ」

「そういう奴に限って、SNSで『リア充』アピールすんだよね」

たわいもないいじり。

でも、それが“本気で刺さる人間”もいる。

そして今日の彼は、どうやらそのタイプだった。

ふと目が合った。

その男子の、伏せられた視線がわずかにこちらをかすめた。

助けてほしい、なんて言っていない。

けれど、その瞳に宿っていたのは、「誰も笑ってないと知りたい」という願いだった。

俺はため息をつく。

──面倒くさい。でも、見過ごせるほど冷たくもない。

「“ウケると思ってる”って言葉、使ってる時点でズレてるんだよな」

静かに、だが確実に教室に届く声でそう言った。

「え……?」

数人がこちらを見る。俺は視線を机に落としたまま続けた。

「笑わせるんじゃなく、笑われてるって自覚できない奴の方がよっぽどヤバい。

 あと、“他人の盛り”に笑ってるやつの方が、よっぽど不自然だよな。

 だって自分も盛ってるくせにさ」

空気が、少しだけ引き締まった。

「なに、急に? 正義感?」

「いや。ただの“空気悪くする係”だよ」

ようやく顔を上げ、淡々とそう返した。

誰かが口を開きかけたが、結局何も言えなかった。

不思議と、それで“自己紹介カード”の話は終わった。

笑いも止まり、元の雑談に戻っていった。

空気を切った俺に向けて、背後から視線を感じた。

隣の席の乙葉だった。

彼女は静かに、俺を見ていた。


放課後──

帰り支度をしていた俺に、乙葉が近づいてくる。

「……さっきの、言葉。なんで言ったの?」

「どの話?」

「“空気悪くする係”ってやつ」

「ああ、それ」

肩をすくめる。

「言いたかったんじゃなくて、言わなかったら気持ち悪くなりそうだった。それだけ」

「……“言いたいから言う”より、ずるいね」

「まあな。俺はだいたい、ずるいよ」

「でも、あの子、少し楽になったかも」

乙葉の言葉には、確信はなかった。

だけどその声は、少しだけ柔らかかった。

そして俺は思った。

この子はたぶん、「言葉で伝えよう」としてくる人なんだと。

俺と違って、ちゃんと届けようとする人。

それが羨ましいとか、尊いとかではなく──

ただ、“少しだけまぶしかった”。


翌朝。

教室の空気は、まだ“誰のものでもない”状態を保っていた。

席に着いた俺は、何の目的もないまま窓の外を見ていた。

雲は低く、陽射しはまだらで、まるで世界そのものが“定義を迷っている”ようだった。

そのとき、隣から小さな声。

「……おはよう」

一ノ瀬乙葉。

昨日と同じ整った制服。癖のない髪。

変わらないようで、どこか“様子を伺っている”気配があった。

「……ああ」

俺は短く返した。

それだけで彼女の眉が、ほんのわずか緩む。

何かが、少しずつ始まりかけていた。

 

午前の授業。

先生の声はBGMのように流れていく。

黒板に書かれた公式も、誰かの筆記音も、ただの背景だ。

ふと、視界の端に気配を感じた。

横目で見ると、乙葉がちらりと俺のノートを見た後、わずかに眉をひそめた。

そのまま、そっと自分のノートを俺の方へ傾けてくる。

「──ここ、間違えてるよ」

言葉には出さなかったが、ペン先が小さく一ヶ所をなぞっていた。

俺は頷き、ボールペンで静かに訂正する。

声はなかった。

でも、そこには確かに“会話未満の何か”が存在していた。


休み時間。

前の席の男子が、俺に話しかけてきた。

「……昨日、サンキュな。助かった」

「別に助けたつもりないけど?」

「でも、ああでも言ってくれて、正直……救われたっていうか」

「……ふーん」

話はそれだけだった。

でも、彼の声には、昨日よりもいくらか“色”が戻っていた気がした──


放課後。

教室を出ようとしたとき、乙葉が立ち止まり、言った。

「綾瀬くんってさ、“誰の味方でもない”って顔してるけど、

 ほんとは、誰にもなれないことを、ずっと気にしてるでしょ」

思わず足が止まった。

「……なんだよ、急に」

「別に。ただ、ちょっと思っただけ」

「……まあ、そう思っておけば?」

「うん。でも、そういう人の方が信用できる気がする」

乙葉はそれだけ言って、先に廊下へ出ていった。

俺はしばらくその背中を見つめていた。

教室には、もう誰もいなかった。

カーテンが揺れている。

窓の向こうで、西陽がゆっくりと傾きかけている。

名前も、役割も、何者かであることも求められない場所。

そんな居場所を探していたはずの俺が──

気づけば、“誰かに見られること”を受け入れ始めている気がした。

それは、変化というには些細すぎるし、

成長というには他人に見せられるものじゃない。

でも確かに、ほんの少しだけ、何かが動いた。

この教室という“濃度の高い群れ”の中で、

俺は、誰にも選ばれないことを、

ほんの少しだけ、怖がらなくなっていた。

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