Prologue:遷りゆく春に、風は吹かない
「人間は、世界に投げ出された存在である」
そんなことを言った哲学者がいた。
サルトルだったか、ハイデガーだったか。
名前は忘れたし、覚える気もなかった。
ただ、その一節が“真理っぽく”語られるたびに、
胸の奥で何かが引っかかったのを覚えている。
投げ出された?
違う。
そんな劇的な感じじゃない。
俺は、ただ“滑り落ちた”だけだ。
知らないうちに、望んだ覚えもない場所にいて、
「おめでとう」と言われて始まった人生が、
いつのまにか“自己責任”という名前の樹海に変わっていた。
たぶん、生きてるという事実だけなら、確かに“存在”はしている。
でも、“意味があるか”と聞かれたら、それは知らない。
窓の外を、風が流れていった。
何も語らず、ただ透明な刃物みたいに、空気だけを切り裂いていく。
四月の朝だった。
まだ少し寒いのに、陽光だけがやけに張り切っていて、
薄い雲が、空をまるで“覆いきれなかった何か”のように浮かんでいた。
駅のホームには新しい制服の集団。
同じ形のリュック。
同じような顔。
ネクタイを直しながら、スマホの黒い画面を覗き込む。
そこに映っていたのは──眉間にしわを寄せた自分の顔。
まるでこれから出会う全員が敵でもあるかのような、構えた表情だった。
「……何やってんだか」
小さくつぶやいた声は、自分の喉奥で終わる。
誰かに届けるつもりもなかったし、
誰かが聞きたいと思うようなものでもなかった。
電車が滑り込んでくる。
ドアが開く。
俺の中の、どこか他人みたいな部分が「行け」と命じた。
俺はその命令に従って、
量産型の高校一年生のふりをしたまま足を踏み出す。
新しい学校。
新しいクラス。
新しい人間関係。
世間はそれを「出会い」と呼ぶらしい。
でも俺は知っている。
出会いなんてものは、すべて“選ばれた人間”の話だ。
俺のように、“選ばれなかった側”の人間にとっては──
交わりも、奇跡も、劇的な瞬間も訪れない。
ただ、淡々とズレていく。
何も起こらず、何も残さず。
春は、そんな自分をもう一段“世界から遠ざける季節”だった。
世間が華やかに騒げば騒ぐほど、
自分の沈黙だけが輪郭を持ち始める。
だから俺は、祈る。
今日も何も起こりませんように。
誰かと関わるような面倒が起きませんように。
期待しなければ、傷つかなくて済む。
それが、俺に残された、唯一の生存戦略だった。