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第5章 互いの正義と、芽生える母性


 勇者たちが魔王城を後にしてから、数日が経過した。

 あの夜の緊張は、いまだ城内にしこりを残している。突然の侵入を許したことに加え、“魔王”が赤子の姿だったという事実は、魔族側に戸惑いを与えた。その気になれば自分たちの手で討伐できるかもしれない“勇者”を、あえて追撃しなかったギゼルの対応に首をかしげる者もいる。

 当然ながら、人間――とりわけ“勇者”という存在を忌み嫌う魔族たちの声は根強い。

 しかし、筆頭側近であるギゼルが「主を泣かせないためには無用な争いを避けるのが得策」と厳かに言い切り、他の重臣たちも渋々従う形になっていた。


 一方、私は相変わらず保育室で魔王の赤ちゃんと向き合う毎日。勇者たちが去った後、赤ちゃんの様子はどこか不安げに見えたけれど、私がそばにいる限りは大きく泣くことも少なく、穏やかに過ごせていた。

 ただ……最近になって私は、胸の奥にある“感情”の正体をどう扱えばいいのか、わからなくなっていた。それは、まるで子どもを抱く“母親”が持つような、強くて優しい気持ち。


■保育室で芽生える違和感

 ある朝、私はいつものように魔王の赤ちゃんをあやしながら、ミルクの温度を確かめていた。哺乳瓶代わりの角製容器に動物のミルクを入れ、少しぬるめにして口元へ。赤ちゃんは慣れた手つきでちゅぱちゅぱと吸い、満足そうに目を細める。

 その表情が可愛すぎて、思わず頬が緩んだ。


「最近、ほんとに上手に飲めるようになったね。エライ、エライ」


 そっと背をなでてゲップを促すと、上機嫌なまま赤ちゃんが腕を伸ばしてきた。やわらかな小さな手が、私の指をぎゅっと握りしめる。その感触は温かくて、何ものにも代えがたい愛おしさだった。


 ふと、胸がきゅっと締めつけられるような思いがする。

 ——この子がいつか魔王として、世界と敵対する未来が来るのかもしれない。そう考えるだけで、息苦しさに襲われた。


「ねえ、あなたは……本当に“魔王”なのかな」


 赤ちゃんに問いかけても、もちろん答えなんて返ってこない。ただ“あー”“うー”と小さな声を出しながら、私の指をいじくり回している。そこに悪意などあるわけがない。ごく普通の赤ちゃんの仕草だ。

 私は、昨日ギゼルから聞いた話を思い出す。どうやら人間界でも「勇者アデル」が王都へ戻ったとの情報があり、近いうちに正式な討伐令が発動されるかもしれないという。いずれ大軍が押し寄せる可能性もある、と……。


「……そんなの、私が嫌だって思っても止められないのかな……」


 思わず独り言がこぼれる。城の外では、確かにこの子を排除しようとする人間たちがいる。けれど私が見ている限り、“赤ちゃん”でしかない。やっぱりどこか納得がいかない。


■揺れる魔族たち、そしてギゼルの葛藤

 おむつ替えを済ませ、赤ちゃんがひとしきり遊んだ後、私たちは保育室を出て、城の廊下へ。少し気分転換でもしようと思って。

 すると、通りかかった魔族兵たちが、不審げにこちらを見ては頭を下げる。彼らにとって赤ちゃんは絶対的な“魔王様”だけど、私が抱っこしている姿にまだ慣れきっていないようだ。


「ギゼルさん、今はいないのかな」


 いつものように廊下を案内してくれる彼の姿が見当たらず、兵士に尋ねてみると、「執務室にこもって会議中です」との答えが返ってきた。最近、とにかく城内の意見をまとめるのが大変らしい。

 人間をこのまま城に置いていいのか、魔王が赤子のままだと外敵に狙われる危険が高いのではないか……。周囲からはいろいろと反発や提案が飛び交っているとか。


「……子育てって、そんな単純じゃないんだけど」


 私はぎゅっと赤ちゃんを抱きしめる。兵士が申し訳なさそうな顔で言うには、「今まで魔王様のお世話という概念がなかったから、どう扱うべきか皆わからないんです」とのこと。

 理解はできる。だが、たとえ魔王でも、ひとりの命を育てるのに“効率”や“戦略”を持ち込むのは、どこか違和感がある。赤ちゃんには赤ちゃんのペースがあって、私はそこに寄り添いたいと思うのに……。


■魔王の赤ちゃんをかばう理由

 保育室へ戻ると、ちょうどギゼルが訪ねてきた。書類を片手に、疲れた様子で深いため息をついている。


「羽鳥 心殿。お散歩していたのですか。あまり城内をうろつくと危険ですよ。万が一、人間嫌いの兵士に襲われる可能性もあります」

「そうですね……すみません。でも、部屋に閉じこもってばかりじゃ、この子も退屈しちゃうかと思って」


 赤ちゃんは私の腕の中でにこにこしているが、ギゼルの姿を見るや、ちょっとだけ不思議そうな顔をした。戦闘服で身を固めたギゼルは、やや威圧感があるし、私ほど馴染みがないのだろう。

 ギゼルはその瞳をすっと細めて、赤ちゃんの様子を見守る。少し前までは堅い表情ばかりだったが、最近はこうして柔らかい眼差しも見せるようになった。


「おかしなものです。私も、こんなにも“魔王様”が赤子らしく成長される姿を見守ることになるとは思わなかった。最初はただ、暴走を抑えていただけるならそれでいい、と思っていたのですが」

「……ギゼルさんも、最初は私のこと疑ってましたもんね」

「ええ、今も完全に信用しきっているわけではありません。ですが、あなたがいないと、この子が心安らかに過ごせないのも事実。城の結界への負担は激減し、被害もほぼない。おかげで私が会議に時間を割けるようになりましたよ」


 そう言ってギゼルは疲れたように笑う。魔王城を支える筆頭側近として、彼がどれほど多くの業務を抱えているのか、想像するだけでも目が回りそうだ。それでも、時折こうして保育室に来て、赤ちゃんの様子をチェックしているのは、彼なりにこの子を大事に思っているからなのだろう。


「ねえ、ギゼルさんは、もしこの子が人間と共存する方法があるとしたら、どう思います?」

 私はずっと胸にわだかまっていた疑問を口にした。人間と魔族の歴史は深い。長い戦乱の末に、魔王という存在を“排除すべき悪”と考える人間側は多いし、逆に“人間など信用できない”と憎む魔族も少なくない。

 ギゼルは少しだけ黙り込み、それから静かに答える。


「絵空事だと感じています。ですが、もしあなたがこの子を“善なる存在”に育て上げ、人間界からの脅威を受けずに済むというなら、それに越したことはない……。本心を言うなら、私たちも無用な戦いは避けたいのです」

「……そう、ですよね」


 争いを好んでいるわけじゃない。むしろ魔王城としては、赤ちゃんの暴走や無謀な戦乱が減れば、それに越したことはない——私にはそう聞こえた。

 問題は、長年の憎悪や偏見、そして“魔王”という強大な力がもたらす恐怖にどう折り合いをつけるか、だ。


■勇者と魔王のはざまで

 翌日、ギゼルから私のもとへ「人間界の動向に新たな動きがあった」と報せが入った。どうやら王国の内部では、魔王討伐について意見が割れているという。

 一派は「勇者アデルを中心とした迅速な討伐を」と主張し、もう一派は「赤子なら交渉の余地があるかもしれない」と慎重な姿勢を見せているらしい。勇者アデル自身が、赤ちゃんを実際に目にしたことで迷いを抱えているという噂もある。


「アデルさん、やっぱり迷ってくれてるんだ……」


 私は少しだけ胸をなでおろした。簡単に割り切れる問題じゃないけれど、少なくとも“すぐに討伐”とはならず、議論の余地があるのは救いだ。

 しかし、その一方で、事態を混乱へと誘う声もある。“闇の教団”なる不穏な組織が噂に上り、彼らが人間界と魔族界の争いを焚きつけているという情報が飛び交い始めた。目的は世界の混沌と破滅、そして魔王の力の悪用……ということらしい。


「もしこの子が闇の教団に狙われでもしたら……」


 思わず赤ちゃんを抱きしめる。ほんの少し前まで普通の保育士だった私が、ここまで血なまぐさい話に巻き込まれるなんて、想像もしていなかった。


■育児の中にある“母親の感情”

 さらに数日が過ぎたある夜。保育室で赤ちゃんの夜泣きに付き合っていると、不意に込み上げてくる想いがあった。

 ——私はこの子を、守りたい。

 それは保育士としての職業意識に加え、もっと強い、母親に近いような気持ち。目がまだ腫れて泣いている赤ちゃんの頬を、そっと撫でる。


「あなたは、何も悪くないんだよ……。みんなが勝手に“魔王”って言うけど、私にとってはただの大事な赤ちゃん。どんな力があっても、あなたが笑って育ってくれたらそれでいいのに……」


 赤ちゃんはまだ言葉を理解していない。だけど、その瞳は私をまっすぐ見つめ、安心したように泣き声を弱めていく。抱きしめたときの体温が、私の心まで温めてくれるようだ。


 今まで私は“子ども”が好きで保育士になった。仕事として子どもを預かり、成長を支える役割を担うのが誇りだった。でも、今、私はこの子の“母親”ではないのに、それに近い強い愛情を抱き始めていることを自覚した。


「母親……ね。私なんかが母親、名乗っちゃっていいのかな……」


 そっと赤ちゃんの背中をさすりながら、自嘲気味に笑う。けれど、この想いは嘘じゃない。日々お世話を続けるうちに、どんどん愛おしくなっているのだ。

 眠りについた赤ちゃんをそっとベッド代わりのラグに寝かせ、私は肩に落ちた髪をかき上げる。これから先、どんな運命が待ち受けているかわからない。でも、何があっても、この子を守りたいと——それだけははっきり言える。


■互いの正義と、訪れる転機

 翌朝、保育室に顔を出したギゼルが、深刻な面持ちで私を呼んだ。「話がある」と。

 廊下には、表情を強張らせた魔族の兵士が数名待機している。空気の重さに、胸がざわつく。


「羽鳥 心殿、実は今、王国側から“対話”の使節が送られてきたという報せがあったのです。ですが……」

「えっ、対話……? じゃあ、すぐにでも話し合いができるの?」

「表向きはそうでしょう。だが、裏では“勇者一行が再び出撃の準備を整えている”という確かな情報もある」


 要するに、王国は一部の勢力が「和平」を、もう一方は「討伐」を主張しているわけだ。魔族側もこのままでは分裂してしまうかもしれない。

 しかし、このギリギリの状況はある意味“交渉のチャンス”でもある。私が想い描いていた、「まずは話し合ってほしい」という願いが実現するかもしれないのだ。


「……人間も魔族も、“自分が正しい”と思って行動している。勇者さんも、国や民を守るために必死なんだろうし……」

「それが“互いの正義”というやつでしょう。だが、どちらも一歩も引かなければ、結局は衝突する。力と力のぶつかり合いになる」


 ギゼルが淡々と語る言葉の裏に、深い疲労がにじむ。彼もまた筆頭側近として長らく“魔王”を支え、数々の戦いを潜り抜けてきた。だが、今回ばかりは相手が“赤子”だということが、まったく新しい局面を生み出している。

 私はきゅっと唇を噛みしめ、「その赤子がどんな子に育つか」がすべてを決めるかもしれないと思った。


「……絶対に守りたい。私がこの子を幸せに育てる。それが世界を救うかどうかは、わからない。でも、勇者さんにも伝えたいんです。戦う前に見てほしい、この子の笑顔を……」


 ギゼルは微かに目を見開き、それから小さくうなずく。私の強い想いに、打たれたような顔をしていた。


「本当に、あなたは普通の“ただの人間”とは思えない。……わかりました。とにかく、私たちもこれから来る使節と協議し、状況を探ってみます。あなたが人間としてなすべき役割は大きいでしょう」

「はい。何でも手伝います。何かあったら、声をかけてくださいね」


■新たな一歩へ

 そうして、私は赤ちゃんをそっと抱き上げ、保育室の窓を開けた。そこから見下ろす城下は、まだ不穏な空気が漂っている。人間と魔族の対立、闇の教団の暗躍、そして勇者の決意……。

 けれど、私の腕の中にいる赤ちゃんはそんな世の中を知らず、小さな手を窓の外へ伸ばしている。まるで「光がほしい」とでも言うように。


「大丈夫。いつか、あなただけじゃなく、みんなが笑い合えるといいよね」


 その小さな手にそっと自分の手を重ねる。

 まるで母親のように、私はこの子を抱きしめた。どんな形でもいい、この子の未来が戦いと血に染まらないように……と、心から祈りながら。


 ——そう、今はまだ道半ば。

 だが、この“異世界育児”は私にとって、そして魔王の赤ちゃんにとって、かけがえのない一歩一歩なのだ。母性にも似た思いが胸を熱くするなか、新たな運命の歯車が音を立てて回り始めるのを感じていた。


 外の世界では既に、“和平”と“討伐”の双方の策が動きつつある。いったい何が正しくて、何が間違っているのか。誰も簡単には答えを出せないだろう。

 それでも、私は保育士として、この子を守る——。

 その決意が強く根を張り、私の中で“母親の愛情”の芽が静かに育ちつつあった。


 次に世界が動くとき、それは魔王の赤ちゃんが見せる“初めての笑顔”なのか、それとも——。

 まだ見ぬ未来の景色を胸に思い描きながら、私は赤ちゃんの手を優しく握り返すのだった。

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