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第2章 魔王城の保育室、開設!?


 魔王城の一夜はあまりに長かった。


 赤ちゃんの魔王をあやしているうちに、いつのまにか私も床に腰を落としてしまい、そのまま軽くうたた寝をしてしまったようだ。気づけば、窓の外に仄暗い黎明(れいめい)の色が差し始めている。

 私の膝の上で、魔王の赤ちゃんは小さく寝息を立てたまま。さすがに腕の力が限界で、しびれがきている。でも、泣き疲れたのか熟睡状態だから、起こさずにそっとしておきたい。


「……うぅ、首が痛い……」


 気の抜けた声でぼやいたとき、ドアがノックされ、ギゼルが姿を現した。彼は徹夜で修復作業に当たっていたらしく、やや疲れの色が見えるものの、その美形顔は相変わらず整然としている。


「おはようございます、羽鳥 心殿」

「お、おはようございます……って、徹夜ですか?」

「ええ、外壁の補修と結界の再展開に相当な時間を要しました。ですが、あなたが魔王様をあのまま寝かしつけてくださったおかげで、被害は最小限で食い止められましたよ」


 そう言って、ギゼルは深く頭を下げる。魔王城の筆頭側近という偉い立場の人が、私にそんな態度を取るなんて……。


「い、いえ、そんな……私こそ何をすればいいのか手探り状態で」

「羽鳥 心殿、もしよろしければ、そちらをお預けいただけますか?」


 ギゼルが申し訳なさそうに言う。どうやら、私が長時間抱っこしたままでいることを気遣ってくれているようだ。私はそっと赤ちゃんを抱き直し、ギゼルの差し出した腕に渡した。ところが——。


「ふぎゃぁっ!」


 途端に魔王の赤ちゃんが目を覚まし、私の胸を両手でつかもうと必死にもがき始めた。抱っこが替わったことに驚いたのか、嫌がったのか……。再び大きな声で泣きだして、耳をつんざくような泣き声が廊下に響き渡る。


「わ、わわわ! ちょっと、どうしよう!」

「お、落ち着いてください……!」

 ギゼルが慌てて抱き方を変えてみるが、どんどん声は大きくなるばかり。夜が明けきらない廊下にも、びりっとした魔力の震動が漂い始める。これはまずい。


「あ、あの、貸してください! やっぱり私が抱きます!」


 咄嗟に抱き直すと、赤ちゃんは一瞬こちらの顔を見て、また大きく声をあげそうになる。でも私は素早く縦抱きにして、あやすように体を揺らした。さらに自分の肩ごしに視線が行くようにして、「大丈夫だよ、ここにいるよ」と小声でささやく。


「ぅ、ふ……ひっく……」

 ぎゃんぎゃん泣き続けるわけでもなく、ただ赤ちゃんはしゃくり上げるように声を出しつつ、私の肩口に顔を埋めると、次第に泣き止んでいった。まだ完全に安心したわけではないけれど、先ほどのような勢いはない。


「……こ、これが保育士の技……なのか……?」

 ギゼルは目を丸くしてつぶやいた。実際、保育士にとっては当たり前といえば当たり前のスキルなんだけど、魔族にとっては“未知の秘術”に見えるのかもしれない。

 確かにこの世界に来てすぐ実感したのは、“泣く赤ん坊を安全にあやす”という文化がどうやら魔族社会にはあまり根付いていないらしいということだ。


「やっぱり、この子はまだ私から離されると不安になっちゃうみたいですね。しばらくは側にいたほうがいいかも」

「そ、そうですか……。大変、申し訳ありません」


 ギゼルが気まずそうな顔をする。私は別に怒ってるわけじゃない。むしろ私自身、この子が安心できるなら、ずっと抱きしめていてあげたい。でも、さすがにこのままでは私が保育園で仕事していたとき以上の重労働だ。


「でも、これからのことを考えると……私一人じゃ限界があると思うんです。まずはこの子が安全に過ごせる部屋とか、そういう設備を整えないと」

「設備、ですか……?」

「ミルクの準備とかおむつ替えとか、赤ちゃんのお世話には細かい道具が必要なんです。抱いて歩き回るだけじゃダメですよ」


 ギゼルは目を伏せ、しばし考え込むようだった。それから意を決したように私を見つめる。


「わかりました。では魔王城の一角に、あなたの指示に従った環境を整えましょう。人間の文化がどれだけ通用するかは未知数ですが、試す価値はあるかと」

「ありがとうございます! 助かります!」


 こうして、私の“異世界育児”が本格的に始まることになった。


■城の一角に新生“保育室”を


 場所は魔王城の中でも比較的広い一室。以前は書庫として使われていたらしいが、余分な棚や古い書物をどければ、十分なスペースが確保できそうだった。幸い、この世界には便利な魔法技術がいくつもあるらしく、力持ちの魔族が数人かり出されて、あっという間に部屋の片づけが進んでいく。


「心殿、この箱には書物が山ほど入っていますが、どうしましょう?」

「えっと……とりあえず別の場所に保管してもらえますか? 赤ちゃんがぐちゃぐちゃにしないように……」

「は、はい……。なぜか私が手伝わされるとは……とほほ」


 普段は兵士なのか、恨めしそうな顔をしながらも動いてくれる魔族もいる。ギゼルの命令だから逆らえないわけだが、それでも嫌々ではなく、それなりに興味を持って手伝っているように見えた。やはり魔王に関わる大事なことだから、という認識があるのかもしれない。


 一方、私は赤ちゃんを片腕で抱きながら、どう配置したらいいか指示を出す。

 ——といっても、私もこの世界の素材や道具についてほとんど知らない。仕方がないので、保育園の環境整備を思い出しながら、簡易的なベビーサークルの位置を決めたり、抱っこしながら休めるソファの設置を提案したりしていく。


「魔王様のベビーサークル……実現するとは思いませんでしたぞ……」

「でも、必要なんです。ハイハイが始まったら、危ないものからは離してあげないと、怪我しますから」

「怪我……ですか。魔王様が怪我など……いや、そうか。たしかにまだ赤子のうちは身体能力も成長途上……」


 彼らが何やら感心した様子でうなずいている。どうやら、赤ちゃんが“魔王”だという先入観が強すぎて、普通の子育てという発想がなかったようだ。


「そういえば、この子のミルクはどうするんでしょう? 母乳じゃないなら、何か代わりのものが必要だけど……人間界でいう粉ミルクみたいなの、あるのかな」

 私はギゼルに尋ねる。すると、少し考えてから答えが返ってきた。


「魔族の乳を分けてもらう習慣はありますが……この子の力が強すぎて、近づく女性がいないのです。昔は“乳母役”がいたのですが、魔王様の魔力に当てられて倒れてしまって……。それで今は蒸留した動物のミルクを与えようと試みましたが、なかなか受け付けず……」

「ああ、なるほど。子育て自体が危険すぎるから、基本みんな距離を置いてきたんですね」


 それもあって、“魔王様は勝手に成長する”みたいな認識があったのだろう。でも、実際は私が抱いていれば泣き止むし、ミルクにも工夫が必要。そう考えると、今までは赤ちゃんの魔王がずっと過酷な環境に放置されていたことになる。


「……ごめんね、寂しかったよね」

 抱っこしたまま赤ちゃんのほっぺをそっと撫でると、その小さな瞳がパチパチと瞬いて私を見ている。普段からこんなに不安定な魔力を帯びていたら、誰も近寄れなかったのも分かる。でもこの子が一番辛かったはずだ。泣いても誰もちゃんとあやしてくれないなんて……。


「ですので、羽鳥 心殿が来てくださったのは、まさに救いとも言えましょう。何を準備すれば良いのか、私どももわからず手探りなのです。ぜひご指導いただきたい」

「もちろん、私でよければ。保育士として、赤ちゃんのお世話なら任せてください」


 保育園で学んだ知識が、こんな形で活かされるとは考えもしなかったけれど、やるからには全力を尽くしたい。そう思いながら、私は改めて“保育室”となるこの部屋を見渡した。まだ殺風景で寒々しい。窓から差し込む光も弱く、石床が硬そうで冷たい。


「まずは床にクッションになるようなマットとか、ラグを敷き詰めたいですね。赤ちゃんは転んだり、寝返りを打つときに頭をぶつけることがありますから」

「なるほど。では、魔獣の毛皮が手に入るので、それを敷き詰めてみましょうか」

「いいですね。ただ、あまり固かったりゴワゴワしてるものだと皮膚に悪いので、柔らかい素材を選んでくださいね」


 私の指示で、早速ギゼルが城の倉庫に指示を出し、魔族の兵たちが次々と毛皮の敷物を運んでくる。さらに厚みのある布やクッション素材らしきものもいくつか見つかった。魔物の繭から織り出した布だとか、聞き慣れない素材ばかりで興味深い。


「結構ふわふわ……こんなに肌触りのいい素材があるんだ」

「はい、希少な魔繭です。もともと高位の魔族しか扱えませんが、赤ちゃんが使うなら惜しむわけにはいきません」

「なんだかすごいな……!」


 この城の壮大なスケールを改めて実感する。これだけの素材をサッと用意できるのは、やはり“魔王の居城”だからなのだろう。


■ミルクタイムと周囲の視線


 そんなこんなで午後に差し掛かる頃、部屋の片づけや簡単なインテリア設置がひと段落し、最低限の“保育スペース”ができあがった。魔繭ラグとクッションで床はだいぶ柔らかくなったし、カーテン代わりに薄手の布をかけると、部屋全体が落ち着いた雰囲気になった。


「すごい……なんだか、保育園の一角みたい」

「保育園、とは?」

「あ、いえ、私の元いた世界にある子どもを預かる施設で……。こういうスペース作りをよくやるんですよ」


 私は懐かしさを覚えながら、部屋の中央に用意したソファに腰かける。眠っては起きてを繰り返していた魔王の赤ちゃんも、ようやく安定したのか、お腹が空いていそうな雰囲気。ぐずり始めている。


「ギゼルさん、お願いしていた動物のミルク、準備できますか?」

「はい、すでに配下の者が温めたものを持ってきます。ただ、味にクセがあるので、そのままでは飲まないかもしれません」

「こっちで何か工夫できるかもしれないですね……」


 そうして運ばれてきたのは、ヤギのような魔獣のミルクらしい。匂いを嗅ぐと、ちょっとくさみが強い。でも、少しお湯で薄めれば赤ちゃんにも飲みやすくなるかもしれない。


「それと、昔の乳母の方が使っていたという道具も持ってきました。魔獣の角を加工した哺乳瓶のようなものです」

「わ、面白い形。でも使えそうですね。熱湯消毒とか、なんとかできるかな……?」


 私は懸命に温度を調整しながら、魔王の赤ちゃんの口もとにそっと哺乳瓶の先端を当ててみた。最初は嫌がるかと思ったが、鼻をヒクヒクさせながら、ちゅぱちゅぱと吸ってみようとする。


「ちゃんと飲んでる……! いい子だね。おいしい?」

「ほ、本当に飲んでいる……」

 周囲にいた魔族たちが目を丸くしている。私はその様子を眺めつつ、赤ちゃんが吐き出さないように、少しずつ角度を変えながら飲ませる。


「大丈夫だ、落ち着いて飲んで。焦らなくてもいいよ……」


 哺乳瓶の中身が半分ほど減ったところで、一旦休憩。赤ちゃんはちょっと苦しそうに顔をしかめるので、さっと抱き上げて背中をさする。いわゆるゲップを促す姿勢だ。


「ゲップを出してあげるんです。飲んだミルクが胃に溜まって、空気と一緒に出てくるから」

「おお……! すごい音だ……!」


 赤ちゃんがげふっと音を立てると、周りの魔族たちが微妙に後ずさりする。思わぬ方向で驚いているが、私にとってはごく日常的な光景だ。


「それじゃ、後半も飲もうね」

 続きのミルクを与えると、赤ちゃんは最終的に哺乳瓶の中身を全部飲み干した。満足げに小さくしゃくり上げて、ぽってりと眠そうな顔。私は再び背中をさすり、ゲップをうながしてから、魔繭ラグの上に敷いた柔らかな布の上で横にしてあげた。


「こんなに上手にミルクを飲めるんですね。誰も教えてくれないから、ずっとお腹すいてたんじゃないかな……」

「まさか魔王様の“食事”を人間の女性が与えるとは……信じがたい光景ですが、効果は絶大ですね」

「そう……なのかな。あ、でも赤ちゃんは飲んだ後に吐いちゃったりすることもあるから、しばらく様子見ないと」


 これだけのことで、魔族たちが総出で驚くとは思わなかった。赤ちゃんの育児は、この世界ではほとんど認識されていないんだろうか? 魔王だから特殊なのか、それとも魔族全体が子育て文化を持たないのか……。興味は尽きない。


■初めての“保育室”完成


 こうして私は魔王城での短時間のうちに、ある程度の“保育室”を形にすることに成功した。もちろん人間界の保育園のようにはいかないが、最低限の安全性と、赤ちゃんをあやすスペースは整ったと思う。


 広い城の中でたった一室だけ“赤ちゃん仕様”になっているのは、なんとも不思議な光景だ。魔物の毛皮や魔繭クッションをふんだんに使った豪華仕様は、ある意味で人間界よりも贅沢かもしれない。


「手探りではありますが、これで魔王様も少しは快適に過ごせるでしょう。羽鳥 心殿、ありがとうございました」

「こちらこそ。私も手伝ってくれた皆さんに感謝しています。なんか急にすごいこと頼んじゃって……」

「いえ、私どもも驚いていますが、こうして実際に成果が見えると心強いのです。何より魔王様が安定されるのは、この城全体の利益にも繋がりますから」


 そう言ってギゼルは静かに微笑んだ。昨夜会ったときは冷徹な印象が強かったが、やはり彼も安堵しているのだろう。先ほどまで大きく泣いていた赤ちゃんが、今はラグの上ですやすやと寝息を立てているから。


「……ところで、この子の名前って、何か呼び名があるんですか?」

 不意に気になって私は尋ねてみた。するとギゼルは一瞬きょとんとし、言いにくそうに口を開く。


「名……ですか?」

「ええ、赤ちゃんなんだから、さすがに“魔王様”だけじゃ呼びづらいでしょ? 普通の子みたいに名前を呼んであげたほうがいいと思うんですけど」

「たしかに、歴代魔王は即位の際に正式名を与えられますが……この方はまだ“魔王の生まれ変わり”としてしか扱われていなくて。きちんとした名は未定のままなのです」


 つまり、今はただの“魔王”としか呼ばれていないんだ。私はそっと魔王の寝顔を見やる。名前がないまま、こんなところにぽつんと……。それはあんまりじゃないだろうか。


「ギゼルさん、悪いけど今後ちゃんと名前を考えてあげてくれませんか? 私が勝手に決めるわけにはいかないでしょうし……」

「……仰る通りですね。早急に魔族の慣習や儀礼を含め、選定しなければなりません。私一人では決められないので、参謀たちと協議します」

「うん、お願いします」


 赤ちゃんが大きなあくびをして、ちょっとだけ目を開いた。光を嫌うのか、またすぐ瞼を閉じて、もぞもぞと寝返り……は打てないけど、手足をゆらしている。私はその小さな手のひらを軽くつつきながら思う。

 この子は魔王かもしれないけれど、ちゃんと名前で呼んであげたい。そうすれば、もっと身近に感じられるはず。


 そうこうしているうちに、ギゼルの部下が慌ただしい足音で部屋に入ってきた。


「ギゼル様、報告です! 先ほど、地上の方で奇妙な魔物の目撃情報がありまして……どうやら“人間側”も動きがあるとのこと……」

「……やはり人間は魔王誕生の報を嗅ぎつけたか。厄介ですね」

 ギゼルは難しい表情をしてうなずく。どうやら城の外では一筋縄ではいかない問題が動いているらしい。


「羽鳥 心殿、私たちは少し外部の対策に当たらなければなりません。あなたには引き続きここで、我が主の安全と安眠をお願いできますか?」

「はい、わかりました。やれることをやってみますね」


 そう返事をすると、ギゼルはわずかに笑みを浮かべ、部下とともに部屋を出て行った。ドアが閉まると、部屋はまたしんと静まり返る。

 魔王の赤ちゃんは、少しグズったけれど、私が背中をトントンするとすぐ落ち着いて再び眠りの中へ。人間界の保育園のような賑やかさとはまるで違うけど、ここには確かな“温もり”が生まれつつある。


「よし、なんとか形になってきたね」


 私は静かにため息をついた。転生早々、こんな大それた場所で保育室を整えることになるとは思わなかったけれど、少しでもこの子が穏やかに過ごせるなら、それでいい。

 昨夜は正直、自分がこの世界でどう生きていけばいいのか、不安しかなかった。でも、やっぱり私がやるべきことは一つしかない。赤ちゃんを安心させる——私ができる最大の仕事は、ここにある。


 遠くで金属音や怒声が聞こえる。外は何やらきな臭い様相だ。でも、この部屋だけは平和な時間が流れてほしい。そんな願いを抱きながら、私は魔王の寝顔を見守るのだった。


 ——こうして魔王城の一角に“小さな保育室”が誕生し、私と魔王の赤ちゃんの奇妙な同居生活が、本格的にスタートする。


 次なる問題は、お世話に必要な「おむつ」と「お風呂」。そして、あの“人間界”からの勇者一行の動き……。まだまだ波乱が待ち受けているのだと、このときの私は知る由もなかった。

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