【連載版始めました!】先輩に退部を命じられて絶望していた僕を励ましてくれたのは、アイドル級美少女の後輩マネージャーだった 〜成り行きで家に上げたら、なぜかその後も入り浸るようになったんだけど〜
お手に取っていただきありがとうございます!
こちらは連載モノの最初の数話分を短編としてまとめたものです。
あとがきに連載版のお知らせがございますので、ぜひそちらもご確認ください!
「一週間後の土曜なんてどうだ?」
「すみません」
(ん……?)
如月巧は足を止めた。
校舎裏から聞き慣れた男女の声が聞こえたからだ。
そっと様子を窺ってみる。
二人の正体も、そして状況も予想通りだった。
「いいじゃねえか。別に彼氏もいねえんだろ? だったら何も気にせず遊べばいい。これまでの男はつまんなかったかもしれねえが、俺は退屈させねえぜ? なんせ、そこらの奴らとは経験がちげえからな」
「直近はちょっと忙しいですし……すみません」
「なら、暇になったときに——」
三年生で、巧も所属しているサッカー部の三軍キャプテンの武岡が、同じくサッカー部の二軍マネージャーである白雪香奈に迫っていた。
言葉遣いからもわかるように香奈は後輩、それも一年生だ。
武岡は180センチメートルを超える大柄な男で、手癖も素行も良くないともっぱら噂だ。
部活の先輩でもある手前、香奈も強く断りずらいだろう。
助け船を出すべきか——。
巧が迷っていると、武岡の言葉が切れたタイミングで香奈が腕時計に目を落とした。あっ、と声を上げた。
「もうすぐ補習の時間なので行きますね。すみません、失礼します!」
香奈は矢継ぎ早にそう告げて頭を下げた。小走りで校舎に向かった。
武岡は不機嫌そうに顔をしかめたが、無理に引き留めようとするそぶりは見せなかった。
(……ま、ひとまずは大丈夫かな)
武岡は確実に機嫌を損ねているだろう。
巧は現在二年生。お互いずっと三軍なので、武岡とは一年以上の付き合いになるが、お世辞にも仲良しとは言えない。
(鉢合わせするの面倒だし、部活に行く前に少しぶらぶらしようか)
巧は武岡とは反対方向に歩き出した。
「あ、先輩ー!」
敷地内を散歩していると、元気な女の子の声が聞こえた。
声とその呼び方で、巧はすぐに自分が呼ばれているとわかった。
彼女がただ「先輩」と呼ぶのは巧だけだ。
予想通り、香奈が満面の笑みで手を振りながら駆け寄ってきていた。
(補習っていうのはキャプテンから逃れるための嘘だったのかな?)
状況を言葉で表すのならば、ただ後輩が先輩のもとに駆け寄っているだけ。
しかし、周囲の男子生徒は一斉に頬を染めていた。
八月とはいえ、全員が熱中症なわけではない。
香奈が学年一の美少女との呼び声高い美貌と、つい五ヶ月ほど前まで中学生だったとは思えない抜群のスタイルの持ち主だからだ。
ショートカットにしている赤髪はこの世にクシなど不要だと思わせるほどサラサラしており、ルビーのような光沢がある。
髪と同色のくりくりとした大きな瞳と白くきめ細かい肌、そして自然な色合いの艶やかな唇は、アイドルがそのまま画面から飛び出してきたような完成度だ。
そして、小柄ながらもメリハリのついた抜群のプロポーションを誇っており、今も大きな二つの丘が、部活指定のポロシャツをゆさゆさと揺らしている。
ちょうど左胸の辺りに刺繍されている「白雪」という文字は、押し上げられてすっかり上を向いてしまっていた。
「お疲れ、白雪さん」
巧は間違っても胸に目がいかないように、香奈の目を真っ直ぐ見ながら挨拶をした。
先程のことは、あえて触れる必要もないだろう。
「お疲れ様ですっ!」
香奈は警察のようにビシッと敬礼をした後、目を細めてえへへ、とイタズラっぽく笑った。
その無邪気な所作に男子生徒は一様に悶絶した——巧以外は。
彼にとって香奈は、学校一の美少女である以前に大事な後輩だった。
そのため、破壊力抜群の笑みを向けられても、可愛いなぁとは思っても赤面はしない。
ただ、その笑顔により元気付けられているのは事実だった。
女の子の笑顔は正義、なんて言葉をよく聞く。本当にそうだな、と巧は思った。
「先輩はこれから部活ですか?」
「うん、練習試合。白雪さんはどうしたの? 二軍は今日オフじゃなかった?」
巧たちの学校——咲麗高校のサッカー部は部員数が百を超え、一軍から三軍まで存在する全国常連の強豪校だ。
一週間ほど前まで行われていたインターハイでも、全国ベスト八までいった。
巧は三軍なので学校で練習試合だが、香奈は一年生ながら、入部して二ヶ月ほどで二軍のマネージャーに異例の抜擢をされている。
一軍と二軍は昨日まで合宿を行なっていたため、今日は部活はないはずだ。
「今日と明日、補習なんですよ。テスト悪かったから」
面倒くさいですー、と香奈がぶー垂れた。
なるほど、本当に補習はあったのか。時間はまだあるようだが。
「どんまい。夜中までサッカー見てないで、最低限はやっておきなよ」
「む〜、先輩までお母さんみたいなことを言う……」
香奈が不満そうに頬を膨らませた。
周囲の男子たちが再び悶える。そのことに気が付いていないのは、クリティカルを繰り出した張本人のみだ。
「原因は明らかだからね」
「まあまあそんなことはさておき、急に呼び止めちゃいましたけど、時間は大丈夫ですか?」
「うん。早く来すぎたくらいだから、ちょっと時間でも潰そうと思ってぶらぶらしてたんだ」
本当は機嫌の悪い武岡と顔を合わせたくないからだが、時間が余っているのも事実だった。
「本当ですかっ? じゃあ、少しお話ししましょう! 私も補習までもう少しありますからっ」
香奈が巧の腕を掴み、校舎により日陰ができているところまでグイグイ引っ張っていく。
彼女の無自覚範囲攻撃から回復した男子生徒たちが、巧に鋭い視線を送ってきた。
まず間違いなく、何でお前なんかが学校のアイドルと親しくしているんだ、という嫉妬の視線だ。
(うん、気持ちはわかる)
先程の武岡への対応を見てもわかる通り、香奈はガードが堅い。
基本的に愛想はいいのでよく告白されているが、全て断っているらしい。
しかし、なぜか巧には懐いているのだ。それも、結構入学当初から。
会えばこうして話しかけてくるし、向こうから誘われて駅まで一緒に帰ったことも何回もある。
しかし、二人の間で話題に上るのはもっぱらサッカーであり、甘酸っぱさは皆無だ。
今だって、香奈は昨日やっていた海外サッカーの試合について熱弁を振るっている。
女子高生にしては珍しいほどのサッカー馬鹿である彼女にとって、巧は気兼ねなくサッカーの話ができる人という程度の認識なのだろう。
それなのに嫉妬の視線を向けられるのは困る、というのが巧の偽らざる本音だった。
これまでのところ実害はないので、そこまで気にしてはいないが。
「あっ、やばっ。そろそろ時間だ」
夢中で喋っていた香奈が、ふと腕時計に目を向けて、焦った声を出した。
今度は本当に時間が迫っているらしい。
「じゃあ先輩。私、そろそろ行きますね!」
「頑張って。寝ないようにね」
「努力しますっ、先輩も部活頑張ってください!」
「……うん、ありがとう」
ニコっと笑って、香奈が小走りで去っていく。
巧も歩き出したところで、「水分補給忘れちゃダメですよ!」という声が飛んできた。片手を上げて答えておく。
少し経ってから振り返る。香奈の姿はもうない。
「はぁ……」
巧は大きく息を吐いた。
別に、香奈と喋っていて疲れたわけではない。
「頑張らないとな……本当に」
自分自身にそう言い聞かせて、巧はわざと大股で歩き出した。
香奈としゃべっているときは当然周囲への注意はおろそかになるし、このときの巧の脳内は部活のことで埋め尽くされていた。
だから、彼は気づけなかった。
自分を鬼の形相で睨みつける、一人の男の存在に。
「少し話が合うからって調子に乗るなよ、如月……!」
男——武岡はそう吐き捨てたが、すぐに思い直した。
「いや……あれはただ警戒されていねえだけだ。香奈も男として見てねえからこそ、ああやって無防備に近づいているんだろう。その点、俺は男として見られているからこそ警戒されている。そうだ。あんなナヨナヨしたやつ、俺の敵じゃねえ」
武岡は自分の胸筋や腹筋を触り、満足そうにうなずいた。
「ただまあ、目障りではあるな……念のため、消しておくとするか。ちょうどいい機会でもあるしな」
武岡は下卑た笑いを浮かべ、巧の後を追うようにゆっくりと足を進めた。
◇ ◇ ◇
高校サッカーの練習試合の時間は、公式戦と同様に前後半合計で八十分だ。
前半の四十分間を、巧はベンチで過ごした。
ハーフタイムに入ったところで一対〇とリードはしていたものの、決して内容が良いとは言えなかった。
「巧、いくぞ」
「はいっ」
後半十分、巧に出番が訪れた。左ウイング——前線の左サイド——での出場だ。
今日こそはやってやる——。
そう意気込んで、巧はピッチに足を踏み入れた。
そしてチームは、一対二の逆転負けを喫した。
相手チームが歓声を上げる中、巧にチームメイトからの険しい視線が突き刺さる。
香奈と一緒にいる時に向けられる嫉妬のものとは、性質が違った。
憤怒や軽蔑、非難を伴ったそれらは体の表面を突き破り、巧の心を容赦なくえぐった。
比喩ではなく本当に刃を突き立てられているような感覚がして、息が苦しくなった。
仲の良い友人や可愛がってくれている先輩マネージャーは、負けたのは巧のせいじゃないと言ってくれた。
励ましでしかないことはわかった。二失点とも、巧のミス絡みのものだ。
どちらの場面でも、巧は完璧に状況を把握していた。
全員が彼の想像通りのプレーをした——巧本人を除いて。
脳内にはっきりと映し出されていた映像に、彼の体だけがついていけなかった。
初めての経験ではなかった。
その後のチームとしての対応も良くなかった。
しかし、自分が敗因であることは、巧自身が一番よくわかっていた。
グラウンドの整備や片付けが終わると、最後に三軍監督の川畑からの総括があった。
「失点シーンの対応は良くなかった。各自反省するように」
川畑はそれだけを言うと、解散を告げた。
彼は本当に最低限しか言わない。
言えないのではなく、自分で考えて次のプレーで答えを示せということだ。
「如月、ちょっと来い」
川畑やコーチの姿が完全になくなってから、巧は三軍キャプテンの武岡に呼ばれた。
今朝、香奈に絡んでいた男だ。
大柄で粗暴な三年生で、練習中も試合中もだいたい怒鳴っている。
それに耐えかねてやめてしまった部員やマネージャーも何人かいた。
失点に直結したミスについて怒られるのだろう。いつものことだ。
さらなる着火剤を与えないよう、巧は重い足を必死に回して駆け寄った。
「如月」
武岡の声は、いつもより静かだった。
巧は嫌な予感を覚えた。
「お前、もう辞めろよ」
「……はっ?」
巧は何を言われているのか理解できなかった。
「あ、あの、やめろとは……?」
「はっきり言わなきゃわからねえか? ——サッカー部を辞めろって言ってんだよ」
「っ……!」
紡がれた衝撃的な言葉、そして武岡の憎しみすらこもった瞳を前に、巧は言葉を失った。
「今日だけじゃねえ。お前が目立つのは、ミスをして失点に絡んだ時だけだ。百害あって一利なし、まさにお前のためにあるような言葉だよ。お前のせいで負けて俺らの評価まで下がる」
いい迷惑だ、と武岡が吐き捨てた。
「頑張ればいつかは……なんて思ってねえだろうな。はっきり言ってやるよ。如月、お前は選ばれていない側の人間だ。咲麗じゃなくても、他の中堅校でだって試合に出れねえだろう——俺と違ってな」
絶句している巧に向かって、武岡は口の端を吊り上げて続ける。
「俺は二軍の監督に嫌われてるから三軍にいるだけだ。三軍でも足手まといのお前とじゃ格が違う。努力じゃ決して埋まらねえ、才能の差があるんだよ。いつか限界感じて自分で辞めんじゃねえかって期待してたが、もうこっちが限界だわ。命令だ。即刻退部しろ」
——二度とグラウンドに足を踏み入れるな。
そう吐き捨てて、武岡は去っていった。
武岡以外にも、何人かの部員はまだグラウンドに残っていた。
その中には呆然としている巧を気遣わしげに見る者もいたが、一人、また一人と声をかけないままグラウンドを去っていく。
今日は副キャプテンの三葉が欠席していることもあり、誰も武岡に逆らえないのだ。
グラウンドから人の姿がなくなるまで、巧はその場に立ち尽くしていた。
「……帰ろう」
エナメルバッグを肩にかける。
水筒も弁当も空になっているはずなのに、家を出た時よりも重い気がした。
とても、大股で歩く気分にはなれなかった。
◇ ◇ ◇
エナメルバッグを家に放り込んだ後、巧の足は自然と近所の公園に向いていた。
帰宅後すぐにユニフォームを洗濯しなかったのは、初めてのことだった。
公園の入り口のすぐ近くに、生い茂る木々を背にして縮こまるベンチがある。
腰掛けると、キィと音が鳴った。
項垂れる首筋に、冷たい感触。
初めはポツポツと地面にまだらなシミを作っていた雨は徐々に強くなり、やがて本降りになった。
雨に打たれ続けるのが良くないことは当然わかっていたが、巧はその場を動く気になれなかった。
「もう、諦めるべきなのかな……」
声に出したのは初めてだが、ここ最近ずっと考えていたことだった。
巧が目立つのはミスをして失点に絡んだ時だけ——。
武岡の言葉は、誇張でもなんでもなかった。
何をすべきかはわかるのに、体と技術が追いついてこない。
周囲の何倍も練習しているのに、置いていかれるばかり。
武岡の言う、努力ではどうにもならない才能の差。
それを一番実感していたのは、他ならぬ巧自身だった。
いつからだろう。部活の準備をしている時に、ため息を漏らしてしまうようになったのは。
いつまでだろうか。部活前に「今日もサッカーができる」と屈託のない笑みを浮かべていられたのは。
咲麗高校のサッカー部に入りたいと、父にわがままを言って受験させてもらった手前、簡単に辞めるわけにはいかないと思って頑張ってきた。
でも、楽しむことも成長することもできない今の部活を、果たして続ける意味などあるのだろうか。
「——先輩?」
不意に、背後から声をかけられた。
巧はノロノロと怠慢な動きで振り返った。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、柄物の可愛らしい傘だった。
その下には、灰色に染まった世界をバックになびく赤毛があった。
ルビーを彷彿とさせる、妖艶さすらも漂わせるその髪色を持つ人物など、巧は一人しか知らなかった。
「白雪さん……」
「やっぱり先輩だ! ちょ、びしょ濡れじゃないですかっ、風邪引いちゃいますよ⁉︎」
髪の毛からポタポタと水滴を垂らす巧を見て、香奈がわたわたしつつも彼の腕を引っ張る。
しかし、巧はとても動く気にはなれなかった。
「……いいよ別に」
「えっ? ……何か、あったんですか?」
香奈が形の良い眉をひそめた。
「君には関係のないことだよ。大丈夫だから、放っておいて」
「放っておけるわけないじゃないですかっ。風邪ひいたら先輩の大好きなサッカーだってできなくなっちゃいますよ? あっ、私折りたたみ持ってるので、これ使ってください!」
香奈が傘を差し出してくる。
巧は手のひらで制した。
「いらない」
「でも——」
「いらないって言ってるでしょ」
「っ……」
巧の底冷えする声に、香奈が息を詰まらせた。
「風邪を引いたって、サッカーができなくなったっていいよ。だってもう、サッカーは辞めるつもりだから」
気づけば、巧はそう言っていた。
先程まで悩んでいたはずなのに、立て板を滑り落ちていく水のようにつっかえることなく、退部すると口走っていた。
「や、辞めるって……えっ? はっ? えっ?」
「大丈夫? 混乱しすぎじゃない?」
巧は苦笑した。
「えっ、いや、だって、先輩、あんなにサッカー大好きだったじゃないですか!」
「安心して。今でも好きだよ」
「なら何で!」
「白雪さんだって、少しは三軍にいたからわかってるでしょ? 僕に選手としての才能はないって」
「っ——」
香奈が息を呑んだ。
「身長は低いし、特段身体能力が高いわけでもない。ドリブルで相手を抜けるわけでもない。シュートが上手いわけでもない。守備で貢献できるわけでもない。全てが平凡以下。それが僕だ」
「で、でも、ダイレクトプレーとか空間把握能力とか、先輩にしか持ち合わせていない武器だってあるじゃないですか!」
「そうだね。けど、それだけじゃ武器にはなり得ない……って、ごめんね。せっかく励ましてくれているのに、否定ばっかりしちゃって」
巧は、自分への劣等感を香奈にぶつけてしまっていることに気づいて頭を下げた。
濡れて顔に張り付いていた髪が、何本か剥がれ落ちた。
「い、いえ、それは全然……」
香奈の言葉は続かない。
すっかり諦めてしまった様子の巧を見て、かける言葉が見つからないようだった。
「とにかく、もう決めたことだから。白雪さんは僕なんかに構ってないで、二軍で頑張って。色々言われることはあるかもしれないけど、君は紛れもなくマネージャーとしての実力で二軍の座を勝ち取ったんだから」
巧は立ち上がった。
香奈はその場に固まっていた。
「もう遅いし、白雪さんも早く帰ったほうがいいよ」
風邪を引かれても寝覚が悪いと思って巧が声をかけると、香奈が弾かれたように駆け出した——巧に向かって。
タタタ、と駆け寄ってきた彼女は、目を白黒させている巧に傘を押し付ける。
「えっと……白雪さん?」
「部活のことを抜きにしても、先輩に風邪を引いてもらいたくはないので。先輩が傘を受け取って自宅に帰るまで、離れるつもりはありませんから」
「そ、それは悪いよ。白雪さんも早く帰ったほうがいいだろうし——」
「私のことを心配してくださるのなら、早く帰ってください」
有無を言わせない口調に、巧は説得を諦めた。
ありがとう、と傘に対するお礼を言って歩き出す。
香奈は半歩後ろを同じペースで着いてきた。
◇ ◇ ◇
公園から三分ほど歩いて馴染みのコンビニの前を通り過ぎれば、巧の住んでいるマンションはすぐそこだ。
「ここまででいいよ」
「えっ……?」
香奈が口をあんぐりと開けて固まっていた。
「どうしたの? 白雪さん」
「あの、私もここに住んでます」
「……えっ?」
今度は巧が驚く番だった。
「……白雪さんって、電車通学じゃなかったっけ?」
たまに一緒に帰る時は、いつも駅で別れていたはずだが。
「二週間前に引っ越してきたんです。家族全員にとって都合が良かったので」
「そうなんだ。何階?」
「三階です。先輩は?」
「二階」
二週間前ということは、ちょうど夏休みに入ったくらいか。
同じサッカー部とはいえ、香奈は二軍で巧は三軍。
スケジュールも練習場所も違うし、昨日まで彼女は一軍と二軍合同の二泊三日の合宿だった。
それでいて階も違うのなら、鉢合わせしてなかったのもうなずける。
同じマンションなので、当然一緒に入る。
エレベーターに乗り込んでまず最初に二番を押して、続いて三番を押そうとした巧の手を香奈が掴んだ。
「白雪さん?」
意図がわからずに、巧は困惑した。
香奈は何度かためらうように口を開閉させた後、様子を窺うように上目遣いでおずおずと切り出した。
「あの、差し出がましいのはわかっているんですけど……少しだけ先輩のお家にお邪魔させてもらえませんか?」
「……えっ?」
(何を言ってるんだ、この子は)
巧は目を瞬かせた。
しかし、すぐに彼女の狙いに思い当たる。
「いや、さすがにちゃんと風呂は入るよ」
「いえ、そうではなくてっ。それもありますけど、その……実は、鍵を忘れてしまいまして。両親は夜まで帰ってこないんです」
香奈が照れたように頬をかいた。
「あぁ、そういうこと……構わないけど、さんはいいの? 僕、一人暮らしだよ?」
「えっ、そうなんですか?」
香奈が驚いたところで、エレベーターが二階に到着した。
彼女も一緒に降りる。
「うん。親は単身赴任なんだ。だから、彼氏でもない男の家に上がり込むのは——」
「私は気にしません。先輩はそんな不埒なことをする人じゃないですし」
「まあ、そうだけど……」
「……やっぱり、ご迷惑でしたか?」
香奈の表情が曇る。
巧が渋っているのを、遠回しの拒否と判断したらしい。
「わがままを言ってすみませんでした。やっぱりどこかで適当に——」
「いや、全然迷惑とかじゃないよ」
この土砂降りの中だ。
家の前で待つにせよ、どこかお店で時間を潰すにせよ、香奈にとって楽な選択でないことは間違いない。
彼女さえ構わないなら、巧が拒否るす理由はなかった。
「白雪さんがいいなら上がっちゃって」
「本当ですかっ? ありがとうございます!」
暗い表情から一転、香奈は花が咲いたように笑った。
もし普通の高校男児が見ていたら、間違いなく頬を染めて悶絶していただろう。
しかし、巧はわずかに頬を緩めてうなずくのみだった。
「本当に迷惑とかそう言うんじゃないんだけどさ」
巧はそう前置きをしてから、ふと疑問に思ったことを尋ねてみた。
「白雪さんは、なんでそんなに僕のことを信頼してくれてるの?」
「んー、入学当初、サッカー部まで案内してくれた時も優しかったですし、それ以降もずっと温かく接してくれてるじゃないですか。だから信頼してます」
「……そっか」
巧は視線を逸らして、小さく呟いた。
香奈からの信頼が、あくまで部活の後輩から先輩に対するものでしかないことはわかっている。
少し好意的な言葉を向けられたからといって、すぐに男女の仲に結びつけるのは失礼だ。
視線を逸らしたのは、彼女が自分のことを異性として好きなのかも、などという勘違いをしたからではなかった。
巧の部屋はエレベーターを降りてから四件目、二〇四号室だ。
鍵を開けて扉を引く。
「どうぞ」
「お邪魔しまーす! ……えっ」
どこかワクワクした表情で足を踏み入れた香奈は、すぐに頬を引きつらせた。
「どうしたの——あっ」
後ろから覗き込んですぐ、巧は気づいた。
(そういえば僕の家、汚部屋だったな)
色々なことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。
「上がらせてもらう身なので文句は言えませんけど……汚いですね」
「ごめん。ちょっと片すね」
「い、いえっ、それよりも先輩はお風呂に入ってください! 足の踏み場がない、というほどではありませんからっ」
「うん、寒いしそうさせてもらうよ」
巧は素直に甘えることにした。
汚い部屋に上がらせるのは抵抗があるが、片付けを優先して風邪を引くほうが彼女の負担になってしまうだろう。
「あっ、貴重品とかはお風呂場まで持っていってくださいね」
「……わかった」
香奈の人間性は信頼しているので、巧としてはそこまで警戒する必要はないと思っている。
だが、警戒しすぎるくらいのほうが彼女も気を遣わなくて済むだろう。
「ソファーでも椅子でも好きに座って。飲み物とかお菓子とかは自由に飲み食いしちゃっていいし、ゲームとか本とかも好きに漁っていいからね」
「あっ、はい。ありがとうございます」
どこか緊張した面持ちの香奈に、クスッと笑いが漏れる。
「……先輩、今バカにしませんでしたか?」
「まさか」
馬鹿にはしていないが、微笑ましく思ったのは事実だった。
笑って誤魔化し、着替えを準備する。
「あっ、そうだ。トイレの位置は……って、同じ部屋の造りだからわかるか」
「はい。あそこですよね?」
香奈がリビングの扉を開けて、玄関のすぐ近くを指差した。
「そう。あと聞いておきたいことある?」
「いえ、大丈夫です」
「じゃ、入ってくるね」
「はーい」
お風呂場に向かおうとして、巧は思い直したように振り返った。
「あっ、そうだ白雪さん」
「はい?」
「ありがとね。色々と」
「っ……!」
香奈に微笑みかけてから、巧はそそくさとお風呂場に消えた。
改めてお礼を言うのが恥ずかしかったからだ。
だから、彼は気づかなかった。
一人リビングに残された香奈の頬が、たとえ夕陽に照らされていたとしてもごまかせないくらいには、朱に染まっていたことに。
◇ ◇ ◇
「不意打ちはダメですって……!」
巧のいなくなったリビングで、香奈はソファーに顔を埋めて一人悶えていた。
しばらくしてから、自分がまだ手洗いうがいをしていなかったことを思い出し、洗面所に向かう。
風呂とつながっているため、一応ノックをしてみるが、反応はない。
かすかにシャワーの音が聞こえているため聞こえていないのだろうと判断し、香奈は扉を引いた。
「先輩、少しだけ洗面所お借りしまーす」
「はーい」
手を洗っている最中に視界の端に映ったコップから慌てて視線を逸らし、手のひらに水を溜めてうがいをする。
シャワーの音が止んだ。香奈はイタズラを思いついた。
「先輩、ちょっと入りますねー」
「えっ、な、なんでっ?」
「ふふ、冗談です。失礼しました!」
巧の動揺している様子に満足感を覚えつつ、香奈は洗面所を後にした。
(……何やってんだろ、私)
少し時間が経って冷静になると、色々な意味で羞恥心が込み上げてきた。
香奈は頬と頭を冷やすため、手近に積み上げられていた漫画を手に取った。
アカアシという、人気のサッカー漫画だ。
香奈も好きな漫画だったが、彼女はそれを読もうとはしなかった。
どころか、何冊かあったアカアシを全て本の山の下に潜り込ませ、別の漫画を手に取った。
鬼殺の剣という、最近アニメ化もされた人気のバトル漫画だ。
香奈は読んだことはなかったが、人気なだけのことはあり、すぐに世界観に引き込まれてしまった。
いつしか他人様の家にいることを忘れ、ソファーに仰向けになった状態で足をばたつかせつつ、次々とページをめくっていた。
◇ ◇ ◇
「クックック。まったく、最高の気分だぜ。いい反応してくれたなぁ、如月は」
香奈が巧の家に上がり込んでいることなどつゆ知らず、退部を命じたときの巧の顔を思い出して、三軍キャプテンの武岡は自室で悦に浸っていた。
「他の奴らならともかく、俺に言われちゃあの雑魚も辞めるしかねえ。自然と香奈との交流もなくなっていくだろう。そうなれば、あとはじっくり距離を詰めていけばいい。女なんて所詮、好意を伝え続ければ簡単にオトせるからな。あー、早くあの胸を揉みしだきてえ」
自分の手で乱れる香奈を想像して、武岡はさらに笑みを深めた。
「今は少しばかり警戒されているが、それは香奈が俺のことを男として意識しているからだ。案外、強引に手を出されることを望んでいるのかもしれねえな。プランBとして考えておくか」
このときの彼の中では、巧が退部すること、そして香奈がいずれ自分のモノになることは決定事項となっていた。
自分にはそれだけの影響力と魅力が備わっていると、本気で思っていたのだ。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
連載版は7月13日(土)の午前7時から開始します。
その日のうちに本話+αまで公開するので、お楽しみに!
※本話は連載版の四話までの内容になります。新規の内容は午後八時頃に投稿予定です!