第78話 巣の主
「……」
「……」
互いに一切言葉を発する事無く、慎重に歩を進める。
つい数分前までは確かにあった気楽なノリや、スキルとエンチャントの検証の事は既に私達やリスナーの脳裏には存在せず……ただただ、緊張感が配信を支配していた。
(この足場、思ったよりも厄介かもしれない……)
踏みしめる地面は隙間もなく白い糸に幾重にも覆われており、意識せずとも足音は消されてしまう。
問題なく歩けている事から、おそらくは蜘蛛の巣で言う『縦糸』と同じ物なのだろうが……足を取られない代わりに強く地を蹴ったり、或いは踏ん張ったりと言った動作の際に滑る可能性が高い。
加えて厄介なの事がもう一つ。
「──クリムさん」
「! ……っ!」
私の目配せに無言の首肯で応じたクリムさんが私から少し距離をとったのを確認し、私は迷宮の壁を覆う糸に手を添える。そして──
「──【エンチャント・ヒート】」
と、炎の性質を付与するが……エンチャントの対象となった糸が炎を纏っただけで、それ以上の変化は起こらない。
(やっぱり駄目か……)
「……はい、もう大丈夫ですよ」
「はい……──やっぱり、燃やす事は出来ないんですね。この糸……」
そう。この糸に炎の性質を付与する事は出来た。だが……燃え移らないのだ。周囲の糸に。
この通路に足を踏み入れる前にも検証してみたが、この通路全体を覆うように張り巡らされた糸は火を受け付けない。
恐らくその原因は、この糸の一本一本を保護するように包み込んでいる『魔力』だろう。
通路の奥から漏れて来る巨大な魔力と同質の力が糸の表面を覆っていて、外部からの干渉を妨げているように感じた。
(一応剣や槍で切る事が出来るのは確認してるものの、その刃自体が糸で覆われてしまった場合に焼き切れないのはかなりの脅威だな……)
トラップスパイダーもデッドエンドスパイダーも、腕輪や武器を糸で包もうとする共通の行動が確認されている。
ここまであからさまな共通点を、この先で待っているだろう魔物が備えていないとは考えにくい。
武器に続いて腕輪も封じられれば、スキルの使用も撤退の機能も使えなくなり──私達の生存率は大幅に減少する事になる。
(せめて腕輪の機能だけでも守る事が出来れば……そうだ!)
「クリムさん、少し待ってもらっていいですか? ──【ストレージ】」
「? ヴィオレットさん、それって確か……」
ふとした思い付きから私が腕輪から取り出した物を見て、クリムが首を傾げる。
私が取り出した物……それは、ダイバーが良く使うロープだ。
彼女も当然これについては知っている筈だが、この状況下で取り出した意図が解らないといった様子だった。
しかし、万が一の時にコレが文字通り私達の命綱になる……その理由を伝えると、彼女は納得したように頷いた。
──それから少しばかり。時間にすればほんの数分程度歩いた先に、急に開けた空間が現れた。
部屋全体の形は中層の特徴である迷宮と同じで正方形に近く、幅も奥行きもおよそ30m弱と言ったところ。しかし高さはそれらに比べてもさらに高く、50m以上はあるだろう。その天井は糸で覆われている為か、或いは元々がそういう形だったのかドーム状になっているようだ。
部屋へと続く道は一本の直線となっており、今私達は直前の曲がり角から身を乗り出すようにして部屋の様子を観察しているところだった。
と言うのも……壁に並んだ燭台の明かりでも薄暗くなっている部屋の中心部に、圧倒的な存在感を放つ一匹の魔物が居たからだ。
「……ッ! なんて大きさ……!」
「間違いありませんね。……アレが蜘蛛型魔物達の親玉です」
それは巨大な白い蜘蛛だ。
トラップスパイダーやデッドエンドスパイダーと同じ真っ白な巨体を、部屋を覆う糸のクッションに深々と沈めながら……まさに『伏せ』のような姿勢でその八つの赤い目をこちらに向けていた。
体高は胴体だけで5mはある。足を延ばした全長については考えるのも馬鹿らしくなる巨大さだ。
(この存在感……本来なら下層の中でもトップクラスの魔物だ。中層のような薄い魔力では本来の力が出せないはず。なのに、こいつが未だにこれだけの魔力を持つ事が出来ているのは……デッドエンドスパイダーの張った巣のおかげ、か……)
デッドエンドスパイダーが境界から裏・中層全体に流れていく魔力を堰き止めていたのは、一種のダムのようなものを作る為だったのだと私は考えている。
通路をぴっちりと覆う巣を幾つも張る事で、さながらダムが水を貯めるように内部の魔力の濃度を高め、この巨大蜘蛛に適した環境を維持していたのだ。
或いは、そうやって魔力を一匹の蜘蛛に集中させたことであの巨大蜘蛛が生まれたのかもしれないが……どちらにせよ、この巨大蜘蛛が下層の中でも上位に君臨できるだけの力を持っているのは間違いない。
そんな相手に腕輪の機能を制限した状態で挑まなければならないのだから、その緊張感はとんでもないものなのだろう。クリムはやや不安気に自身と私の腕輪をぐるぐる巻きにしているロープに目をやっていた。
このロープがある内は、ロープが邪魔となってアイテムの収納と取り出しが出来なくなる。いくつか隙間は開けてあるのでスキルの発動や転送は出来るものの、万全の状態ではないと言う事に間違いはない。……だが、最悪の状態を想定すれば、これが最善なのだ。
「……すみません。戦闘に集中する為、一度コメントを非表示にします」
「あ、私も同じくです」
〔了解〕
〔二人とも気を付けて!〕
〔ヤバくなったら撤退してね!〕
一切の油断が許されない相手であると判断し、コメントを非表示に切り替える。
最後にチラリと見えたエールの言葉に少しだけ力を貰い、改めて巨大蜘蛛を観察する。
糸のクッションに沈む身体はデッドエンドスパイダーや巨大ダンジョンワームのような装甲に覆われており、レイピアによる攻撃が通用しないだろう事が一目で解る。
(弱点と言える部分があるとすれば腹だろうけど……あの体勢では狙う事も出来ないな……)
流石に移動や攻撃の際には体も持ち上がるだろうし、そうなればあの巨体の下に潜り込む事も難しくはないだろうが……
「──動く気配は、ないですね……?」
「ええ……こちらの動きを待っていると言った感じでしょうか」
完全に目が合っている事から、私達の存在に気付いていないという訳ではないだろう。
まして眠っていたり、死んでいる訳でもない。奴自身の放つ威圧感がそんな可能性を考えさせない。
(蜘蛛……か……)
奴は今まさに、獲物が巣にかかる瞬間を待つ蜘蛛なのだ──そんな直感があった。
「──クリムさん、ここは先ず私が一人で挑んでみます。奴の動きを見て、無理と判断した場合は撤退してください」
「!? でも、それじゃあヴィオレットさんが……!」
「大丈夫です。ある程度の攻撃であれば捌ける自信がありますから」
あの部屋は全体が奴の巣だ。何をしてくるか解ったものではない。
だから先ず私が敵の出方を見て、情報を共有する……クリムもそれが最善だと頭では理解できているのだろう。
「……でしたら、せめて私の武器に炎のエンチャントをしてからお願いします。戦えそうだと判断した時、直ぐに加勢に入れるように」
「……わかりました。──【エンチャント・ヒート】」
少しだけ迷ったが……懇願するような視線に負け、私は彼女の槍にエンチャントを使用する。
戦う力を与えた事で彼女が無茶をする可能性は考えたが……彼女の場合、状況次第では私がエンチャントをしなかったとしても無茶をしそうだ。そんな危うさがあった。
彼女の槍の穂先が赤熱し、炎を纏っている事を確認した私は──
「──【エンチャント・ゲイル】。……行きます!」
曲がり角から身を乗り出し、風を纏う靴による加速を受けて巨大蜘蛛へと一直線にひた走る。
姿を見せた私に対して、巨大蜘蛛は……
(動かない……? 私の武器ではあの装甲を貫けないと踏んでいるのか?)
確かに蜘蛛の全身を覆う甲殻は見るからに分厚く、レイピアの刺突では傷もつかないだろう。ああして『伏せ』の姿勢を維持していれば、やわらかい腹部を攻撃される事もない……だが、いつかのダンジョンワームと違い、巨大蜘蛛には明確な弱点部位がある。
(──それならば、その目にレイピアを突き入れるのみ!)
伏せていれば当然頭部の位置は低くなり、八つの眼もレイピアの射程に入る。
正面から攻撃する事にはなるが、エンチャント・ゲイルによって機動力を上げた今の私なら大抵の攻撃は躱せるはずだ。
踏みしめにくい糸の地面を無視し、空中を蹴る事で急接近。そしてレイピアを握る右腕を引き絞り、跳躍。
「──【エンチャント・ダーク】、【ラッシュピアッサー】!!」
その目に向けて放った連続突き。ここでようやく巨大蜘蛛は動きを見せた。
──ギュバッ!
そんな異音と共に奴は前足を持ち上げ、地面を覆っていた糸の絨毯を畳返しでもするように盾にしたのだ。
だが、盾にしたと言っても所詮は糸だ。いくら密集させたとしても、先端の鋭いレイピアであれば、糸の隙間を縫うようにして容易に貫ける。
目の位置が分かりにくくなったのは問題だけど、大体の当たりをつけて何度も突けば一発くらいは当たるだろう。
……そんな私の思惑は、最初の突きを放ったところで驚愕に塗りつぶされた。
(──ッ!? 貫け、ない……!?)
糸の盾を突いたレイピアはその瞬間に重くなり、半ばまで突き入れたところで完全に止められてしまった。……いや、そればかりではない。
「ぐっ……!? 抜けない……!」
連続突きを放つために引き戻そうとしても、レイピアが全く動かないのだ。
そしてその直後、巨大蜘蛛が盾とした糸を手放すと──
「! 引っ張られ……!」
糸の盾はレイピアを取り込んだまま、まるで引き伸ばされたゴムが元に戻るように絨毯へと戻っていく。当然レイピアを握ったままの私も地面へと引っ張られ……
(──なんだ……!? 何か解らないけど、マズい気がする!!)
「く……!」
直感に従い何とか空中で姿勢を正す事で、私は糸のクッションに両足で着地する事は出来た。だが──
「──ッ! 足が……!?」
(これは……『横糸』ッ!?)
蜘蛛の巣が粘性の無い代わりに頑丈な『縦糸』と、獲物を捕らえる為に粘性のある『横糸』でできているのは有名な話だが……私が足を付けたのはまさに後者──『獲物を捕らえる横糸』だった。
糸の盾に突き入れたレイピアが抜けないのも道理だ。レイピアは無数の糸に絡めとられていたのだから……
(ここまでの行動が誘導されていた……! クリムさんに近付かないように伝えなくては!)
「クリムさん! この周囲の地面は『横糸』です! 近付くのは危険で……」
「──違います! ヴィオレットさん! 『変わった』んです! 私の足元の糸も今、急に『横糸』になってて……!」
「なんですって……!?」
振り向けば、確かにクリムの足もまた糸に引っ付いてしまっており、動く事が出来ないようだった。
(これはまさか……今この部屋と通路を覆っている糸が全て縦糸から横糸に切り替わっている!? 体外に出した後でも糸の性質を変えられるのか!?)
絨毯に取り込まれたレイピアは抜けず、足も離れない。
攻撃手段も回避の為の機動力も奪われた私の前に、巨大蜘蛛の持ち上げられた前足が突き出された。
今の私はまさに、蜘蛛の巣に捕らわれた獲物なのだと理解した。