第224話 悪夢の世界
『はぁ……っ、はぁ……っ!』
荒い呼吸を繰り返すヴィオレットは、恐怖とも哀しみとも受け取れる表情で視線を彷徨わせる。
先程デュプリケーターを掴むべく開いた右手も、今は身体の震えを抑えるように左腕を掴んでおり、明らかにまともな精神状態ではない事が画面越しにも伝わって来た。
そして時折『大丈夫、大丈夫……これは幻覚。現実じゃない……』と、自らに言い聞かせるように呟いている彼女の尋常ならざる様子に、配信でそれを見るリスナー達の中にも『最悪の展開が待っているのではないか』と言う不安が湧き上がっていた。
〔ヴィオレットちゃん!?〕
〔凄い冷や汗…〕
〔なんか様子おかしいぞ!?〕
二歩、三歩と虚ろな目で後退る彼女の背後からは、闇の魔力に苛まれた左肩を一度自切し、再生を済ませた悪魔が歩み寄ってきているが、ヴィオレットはその接近に気付く素振りも無い。
〔また回りが悪魔に見えているだけじゃないっぽいよな…〕
〔何が見えてんだ〕
〔逃げて!〕
〔早く撤退!〕
リスナー達は必死でコメントを送るが、彼女の眼にはもうドローンカメラも映っていない。
その間に悠々とヴィオレットに歩み寄った悪魔はその腕を広げ──
『ふふ、つーかまえた……!』
『ひ……ッ!?』
ヴィオレットを背後から抱き留めるように捕らえてしまった。
◇
城門と私の間には多くの人影が立っていた。
彼等の顔には見覚えがある。彼等は過去に私が一度は親しくなり、そして最終的には拒絶された面々だった。
「裏切り者め!」
「スパイだ!」
「人間の敵」
「私達を騙してたのね」
いくつもの冷たい視線が突き刺さる。
彼等は私を口々に非難し、街に近付けまいと武器を手に立ちはだかっていた。
「ち、違う……私は……!」
景色が切り替わる前の事を思い返せば、彼等の正体はアビスミノタウロスの筈だ。
魔力のソナーで輪郭の把握さえできれば、簡単にその正体を看破できる。しかし──
(自分の魔力が感知できない……!)
今まさに五感が狂わされているように、魔力感知も出来なくなっている。
こんな状況、すぐに撤退するべきだと解っているのだが……視界に映る私の左手には腕輪が見当たらない。
何度見返してもローブドレスの袖から覗くのは魔族の青白い腕であり、普段の感覚で腕輪のある筈の場所を掴んでも金属特有の冷たさすら感じられなかった。
……いや、果たして私は本当にあの腕輪を身につけていたのだろうか。
(まさか、こっちが現実……?)
もしかしたら、今までの配信や活躍の方が都合の良い夢や妄想だったのではないか。
もう一人の自分に出会った事も、その家に住まわせて貰えた事も、多くのリスナーに受け入れられた事も全部本当は無かった事なのではないか……そんな最悪な考えが脳裏に過る。
地球へ向かう方法を模索し、頭の中でシミュレートを続ける内にいつしか現実と想像が入れ替わって──
「違う……っ! 大丈夫、大丈夫……これは幻覚。現実じゃない……!」
そう自分に言い聞かせる。
腕輪に触れる感覚が無いのも五感が狂わされているからで、実際には腕輪を掴んでいる筈だ。後はいつものようにキーワードを唱えれば、腕輪の機能は発動するはずだと。
しかし、『ムーブ・オン ”渋谷ダンジョン”』。その一言をいざ発しようとする度に私の歯はガチガチと震え、言葉が出なくなってしまう。
──怖いのだ。
もしもその言葉を唱えて何も起こらなかったら……そう思うだけで足元が崩れるような、深い喪失感が心臓を包むような感覚に襲われる。
『日本に帰った事が妄想だと突きつけられたくない』。『この光景が現実だと認めたくない』。
そんな思いに捕らわれた私の脚は、私を非難する群衆から離れようと一人でに後退を始める。しかし、そんな私の背後から突然見覚えのある腕が伸びて、私の身体を抱き留めた。
「ふふ、つーかまえた……!」
「ひ……ッ!?」
その声は私と全く同じだった。
いや、声だけじゃない。私を離すまいと身体に回された腕も、声を掛けられた際に肩の後ろから乗り出した顔立ちも全て、魔族の私と同じ顔だった。
「お? その様子だと楽しんでくれてるみたいだね。どう? 『トラウマの世界』は」
「と、トラウマの世界……?」
「そう。ここはキミのトラウマの中。ボクにはキミがどんな光景を見ているのかは分からないけど、今キミが見ているのはキミ自身の記憶。その中でもキミが特別忌避する『最悪の集合体』だよ」
「私の……記憶……──ッ!」
彼女の言葉をぐちゃぐちゃの思考で何とか整理すると、今のこの状況は撃ち込まれた術式によって記憶を掘り出され、当時の場所や状況に置かれていると強く錯覚させる術式のようだ。
こんな事を説明できる知識に加えて『ボク』と言う一人称から、この『私』の正体があの悪魔であると理解した私は彼女の拘束から抜け出すべくもがこうとするが……
「あ、抵抗しようとしても無駄だよ? 当時の感情も再現されてるからね。今のキミは足が竦んで碌に動けもしないでしょ? これからたっぷりいたぶってあげるよ──キミの心をね」
「はぁ……、はぁ……ッ!」
駄目だ。彼女の言う様に力が入らない。
心に無力感を植え付けられたように、脚から止め処なく力が抜けていく気分だった。
「──さぁ、廃人直行トラウマツアーと行こうじゃないか」
「く……、ぅあ……っ!」
後ろから前に回された彼女の手が私の顔に添えられ、身動きを封じられたまま目を強制的に開けさせられた。
──そして世界がまた切り替わる。
『燃やされた宿』『夜闇に列を作る松明の火』『投げられる石』『枕に突き刺さった槍』『武装した兵士たち』……
異世界で味わった千年間の孤独、拒絶、侮蔑、裏切り……そんな記憶が、当時の感情と共に次々と襲って来た。
「あ……っ、──アアアアアァァッ!!」
◇
うるさいな……。
そう思いながらも人間の身体の拘束を解くつもりは無い。
面倒くさがりなボクだけど、一度やると決めた事はやるのがポリシーだ。心をいたぶって鬱憤を晴らすと決めた以上は徹底的にやる。例え廃人になったとしても。
とは言え──
(この苦しみっぷりは異常じゃないか……?)
人間は外見から大体の生きて来た年数が分かる生き物だと聞いている。
この見た目からすると精々十年かそこらだろうと予想はつくが……その程度の年数でここまでのトラウマを抱え込むものだろうか。
(『廃人直行』はちょっとした脅しのつもりだったんだけど……ホントに廃人になりかねないな。コレ)
まぁ止めないんだけど。
でもこれ廃人になっちゃったら後で怒られそうだなぁ……多分、あの方も何か目的があってこの人間を放置してるんだろうしなぁ……。
(ん~……ま、何とかなるか。上手い事ギリギリ堪えてくれれば良いや)
喉が裂けるんじゃないかと言う絶叫が響き渡る中、そんなのんきな事を考えていたボクだったんだけど……
「──おっと?」
ほぼ真上から飛来した雷を纏う剣を、人間を拘束したまま最低限の動きで回避。
すぐに最初の崩落で天井に開けられた大穴から上の階層を見上げると、そこに一つの人影があった。
「珍しいね、こんな所に二人目のお客さんなんて。でも生憎取り込み中でね……今なら見逃してあげるから、さっさと帰りなよ」
「アァ!? 何言っとるのか、よぉ聞こえんなァ! 人のダチにこない悲鳴上げさせよって、覚悟出来とるんやろなァ!」
そう妙な言葉遣いでボクに啖呵を切ったのは、今拘束してる人間よりも小柄な人間の女だった。




