第143話 人鬼戦争⑧
『黒い傷痕』。
その正体は、傷口から魔物の魔力が大量に体内に入り込んだ事で起こる『魔物化』の兆候であり……それはかつて、フロントラインの策謀によって命を落としかけた百合原咲を長い事苦しめた、回復魔法では消せない傷痕だ。
百合原咲はダンジョンワームに全身を飲み込まれ、魔物の体内と言う高濃度の魔力が充満した状況下で魔物化の兆候を発症した過去がある。しかし……
(春葉アトに魔物化の兆候!? そんな……魔物化はゴブリンに噛まれた程度で起こる現象では……──ッ! そうか……ゴブリンキングの影響か!)
魔物化が起こる原因は魔物の魔力による人体の変質だ。
しかし人体に流れている本人の魔力によって本来その影響は最小限に留められ、余程の濃度の魔力が流れ込まなければ人体の変質には至らない。
ゴブリンに噛まれただけでは起こりえないその現象を引き起こしたのは、彼女を噛んだゴブリンがゴブリンキングの影響下で強化されていた事が大きな原因だろうと推測できる。
「これって確か、前に咲ちゃんにもあった傷だよね? 治したのって確か……」
「う、うん……」
自分の脚に刻まれた傷が、かつて親友の全身に付けられたのと同じ物だと直ぐに察する春葉アト。
……そうだ。あの時、百合原咲の傷を治した方法は『ダンジョン療法』だと言う事にして貰ったのだ。私が化けた『バイオ』と言う何処にも存在しないダイバーの情報が、万が一にも広がらないように。
「──確か『ワックのガウェイン様』だよね?」
「あ……やっぱり気付いてたんだね」
(──『ワックのガウェイン様』って何!? えっ、あの姿の私ってラウンズ内でそう呼ばれてたの!?)
他人の耳を気にするように小声で躱されたやり取りに、思わず我が耳を疑った。
いや、確かに治療を済ませた後、春葉アトと視線が合った一瞬で何か見破られたかもなとは思ってたけども……どうもあの姿は『バイオ』としてではなく、『ワックのガウェイン様』とか言う謎の人物として彼女達の間で知られているらしい。
そう言えば、以前春葉アトが配信で似たようなこと言ってた気もするな……
(でも、呼び名はともかく、傷の治療法がダンジョン療法ではない事がバレているのは不幸中の幸いかもしれない。……あの傷はダンジョン療法──つまり、レベルアップによって悪化する危険すらあるのだから)
魔物化を起こしている周辺は、既に魔物の魔力の影響を強く受けている箇所だ。その変質の原理はレベルアップとほぼ同じであり、魔物化を起こしている状態で多くの魔物を倒していくとレベルアップの変質と魔物化が良くない共鳴をしてしまう。
要するに、魔物化の範囲が広がってしまう可能性があるのだ。
つまり、春葉アトが多くの魔物を倒す前に彼女の魔物化を治療しなければならないのだが……
(この状況はあまりにも魔物化の治療にとって都合が悪すぎる……!)
今はゴブリンとの全面戦争に近い状況であり、魔物を倒すなと言っても無理な話だ。
加えてこっそり姿を変えて治療しようにも周囲には多くのダイバーの姿があり、更にはドローンカメラで配信もされている。
バイオの姿に化けるだけでも非常に困難な状況なのだ。
「……とりあえず、その傷について皆さんに共有しても良いですか? どう見ても普通の怪我ではありませんし……」
「あ、あの、ヴィオレットさん。この傷は……」
「──良いよ。確かに回復魔法でも治せないとなれば特殊な傷だってのは分かるし、注意するに越した事はないと思う」
「ありがとうございます」
傷の共有について百合原咲が一瞬躊躇するような反応を見せたが、春葉アトがそれを制して許可をくれた。
振り返ればもうこの部屋のゴブリンの掃討は完了しつつあるし、境界周辺をダイバー達でガッチリと封鎖してしまえば後続のゴブリンも現れ次第討伐できるだろう。
そう判断した私は彼等がゴブリンの殲滅を終えるのを待ち、頃合いを見計らって情報を共有した。
「──ゴブリンに噛まれると、謎の傷が付けられる……!?」
「はい。現在はアトさんの脚にそれがあり、回復魔法でも消せないようです」
「ちょっと俺、傷を見てきます。リーダーは話を聞いておいてください」
「ああ……」
他にも数名のダイバー達が春葉アトの元へ駆け寄って行き、傷の様子を確認しているようだ。
その後私が注意喚起を済ませた頃に彼等は戻って来て、一様に首を振った。原因の解明と、治療が出来なかったと言うサインだろう。
「そうか……わかった。ゴブリンの牙には気を付けるよう、他のダイバーにも共有しておく」
「お願いします。それと……あまりこの状況で言い出しにくいのですが──」
「……了解した。確かに、タイミングは今しかないか」
「すみません……」
「いや、ついでに補給が必要な者も今の内に済ませるとしよう」
そう言ってKatsu-首領-は周囲のダイバーに呼びかけた。
「皆! 現時点をもって、この渋谷ダンジョン浅層の制圧はほぼ完了した! よって、ここで短時間の休憩を取ろうと思う! 今の内にアイテムの補給やトイレ等、一時的な離脱を要する用事は済ませてくれ! マーキングの座標更新を忘れずにな! 離脱はローテーションを組み、その間他のメンバーで境界から溢れるゴブリンの討伐を継続する!」
「了解~!」
「矢はまだあるが、ついでに補給してくるか……」
「魔力回復ポーションも貰って来よ~っと」
「……さぁ、ヴィオレットさんも今の内に」
「ご配慮、助かります」
Katsu-首領-に頭を下げ、私はリスナー達にカメラを通して呼びかける。
「そう言う訳で一時的な休憩の為、私の配信は待機状態に切り替えます。この休憩中の内に、皆さんもトイレ等は済ませておいてくださいね!」
そう言って私は配信の画面を切り替え、自身のスマホで問題なく待機状態になっている事を確認すると、春葉アトの元へ駆け寄った。
「アトさんは補給やトイレは大丈夫ですか? その傷を診て貰う為に一時的にロビーに戻るのも良いと思いますが……」
「うーん……そうだね。ヴィオレットちゃんの言う通り、ちょっと見て貰ってくるよ」
「アトちゃん、大丈夫?」
「大丈夫! 治らない訳じゃないんだしさ! ──【マーキング】、【ムーブ・オン ”渋谷ダンジョン”】」
そう言って春葉アトは私の助言通り、ロビーへと戻って行った。
(これで良し……私も急がないと!)
「私もちょっとトイレに行ってきますね! ──【マーキング】、【ムーブ・オン ”渋谷ダンジョン”】」
ロビーに到着すると、そこは普段の様子とは様変わりしていた。
大勢のスタッフが一旦戻って来たダイバー達から現在の進行度や状況、必要な物が無いか等の確認をしたり、求められたアイテムの準備等に追われて忙しなくロビーを駆けまわっている姿が見える。
次に目に入ったのは、ロビーに並べられた長椅子が整理され、代わりに負傷者を治療中に寝かせる為だろうベッドや、バイタル確認のための計器が置かれた一角だ。
普段から負傷して帰還したダイバーの治療にあたる医療班が常駐し、急患にも即座に対応できるようにこちらの様子を伺っている。
私よりも一足先に帰って来た春葉アトはそちらに傷の確認を頼みに行っているようだ。
そして受付の周辺には大量のポーションや各種矢等の消耗品が収められた箱がずらりと並べられ、ダイバー達が可能な限りベストなコンディションで戦える為にはあらゆるバックアップを惜しまないと言う、協会の姿勢がうかがえた。ご丁寧に私用と思われるカラーボールまで用意されている辺り、ダイバー個人個人の戦い方までチェックしているのだろう。
(協会のバックアップ……まさかここまでしてくれるとは……)
ここまで期待されているのだと言う証明を見せられた以上、ダイバー達も奮起せざるを得ないだろう。
この渋谷ダンジョンの存続……ひいては日本首都近郊の平穏までかかっているかも知れない戦いなのだから。
(……っと、感心ばかりもしてられない! 先ずはトイレに行かないと!)
「──【エア・レイド】!」
トイレの場所は私が初配信をした一角のすぐ傍だ。
そこに至るまでの道を強化された跳躍力でショートカットする。
『そんなに切羽詰まってるのか……』と言いたげな視線を向けられた自覚はあるが、これも『必要な確認』だと割り切り、そのまま迷う事無く小走りで個室の一つに駆け込み鍵をかける。
これでトイレと言う事情で怪しまれる事なく配信を待機状態に切り替え、そして今私の姿が見当たらなくても問題ない時間が出来た。
(──【変身魔法】!)
化けるのは当然、以前に百合原咲の魔物化を治療した『バイオ』の姿だ。
もっともあの時と違いレンタルの鎧はない為、顔を隠すローブマントの下はシンプルな服装になってしまったが、この際贅沢は言ってられない。
「あー、あー……よし、声も問題ない。後は──【ムーブ・オン ”渋谷ダンジョン”】」
トイレの個室からほんの10mも無いロビーへと、腕輪の機能でワープする。
まさかこんな短い距離で腕輪の機能を使うとも思わない周囲のスタッフの眼には、またダンジョンから一時帰還したダイバーの一人に映った事だろう。……まぁ、格好の怪しさの所為で注目は集めてしまっているようだが。
(春葉アトは……よし、まだ居た!)
視線をベッドの置かれた一角に向けると、やはり治療は出来なかったのか申し訳なさそうに頭を下げるスタッフたちを慰めるように、明るい表情で手を振る春葉アトの様子が見えた。
「──失礼。今、良いかな?」
「ん? 貴女は確か……そっか! 貴女もこの戦いに参加してたんだ!」
「覚えていてくれたようで何よりだ。キミが──」
「あの後咲ちゃんから聞いて話してみたかったんだぁ! ねぇねぇ、フードとって良い!?」
「い、いやそれは困るな……」
何だろう、普段とまるでテンションが違ってやり辛い。
視点も春葉アトより少し高いせいか、ぐいぐい来るアングルが新鮮と言うか……慣れない。
「──話を戻そう。キミの脚の怪我……ボクに治させて欲しいんだ」
「うん! 寧ろこっちからお願いしたかったところだよ」
「えっ、うわゎっ……!」
そう言って私の手を取り、先ほどまで彼女が居たベッドまでぐいぐいと引っ張っていく春葉アト。
常駐するスタッフ達も何事かと目を丸くしていた。
「じゃ、早速お願いね!」
「え、えっと……貴方は?」
ベッドに飛び乗り、脚の装備を外して黒い傷痕を見せる春葉アト。
そこに近寄る私の格好を訝しんだスタッフの男性が確認に来たので、これ幸いとばかりに事情を説明する。
「ボクはまぁ、しがないダイバーだよ。今回の戦いにも参加していてね……彼女の怪我の話を聞いて、治す為に戻って来たんだ」
「! 治せるんですか!? この傷を!?」
「方法が分かれば多分君達にも可能だよ。今後も同じ傷を負って戻って来るダイバーが居るかもしれないから、よく見ておいてくれるかい?」
「は、はい! 皆、一度集まってくれ! 黒い傷の対処法が分かるかもしれない!」
黒い傷……魔物化の治療はシンプルだ。
魔物化が起こっている部位を、一度周辺の組織ごと切除してその全てを強力な回復魔法で一気に治す。
私の場合苦痛を長引かせない為に一人でその役割をほぼ同時に熟しているが、部位が急所でなければ最悪多少の時間がかかっても問題ない為、切除担当と治療担当の二人がかりでやれば基本的に治療は可能なのだ。
「ちょっと痛いと思うけど、我慢してね」
「オッケー。これでも痛みには慣れてるからね!」
そう笑顔を向ける春葉アトに一言告げて、私は手で触れた彼女の傷痕に魔法を放つ。
「──ッ、ぐ、ぅ……ッ!!」
「……よし、終わり」
「……っはぁ……っ! ──あっはは、確かに結構痛いね、コレ……こういう時じゃなければ麻酔して欲しいかも……」
目元に涙を滲ませながらも、気丈に笑顔を作る春葉アトに改めて感心する。
今回の魔物化の範囲はゴブリンの牙が食い込んだ範囲……つまり、皮膚の表面だけに留まらず、脚の筋肉に至る深い範囲を抉り抜く必要があったのだ。
痛みを堪える為に脚を暴れさせてしまう可能性にも備えていたが、それすら全くの杞憂に終わった。
「──強いですね、貴女は」
「ふふ……最強って呼ばれた事もあるんだよ? それに──……いや、何でもない」
「? そうですか。さて……どうでしょう? 今の手順に質問はありますか?」
何か言いかけて取りやめた春葉アトの様子が気になったが、今は医療班に手順の説明をするのが優先だ。
流石に経験豊富な医療班なだけあって今の一連の治療を見ただけで要点は既に理解しており、質問の殆どは抉り抜く傷周辺の範囲、切除の際に使用する魔法の確認や、器具を用いた切除でも代替可能かと言った補足説明だけで問題なかったようだ。
その説明をしている間に装備を整えた春葉アトは、ジェスチャーで『先に戻っておくね』と私に伝えた後、最低限のアイテムの補給を済ませてダンジョンへ戻って行った。
◇
「──【ムーブ・オン ”マーク”】」
「あ! おかえり、アトちゃん! どうだった!?」
私がダンジョンに戻ると、直ぐにゆぅちゃんが私の怪我を案じて駆けよって来てくれた。
彼女の心配を解消する為にも私は笑顔で事の経緯を説明し、傷痕のあった今は白い脚を見せて安心させる。
「咲ちゃん! 最初は原因が分からないって言われて駄目だったんだけどね……あの人がここに来てたから治して貰っちゃった!」
「あの人って……──えぇっ!? ワックのガウェイン様、ここに来てるの!?」
「うん! いやぁ、こんな時じゃなければもっと色々話したかったなぁ……」
「うぅ、私もまた会いたいなー……」
気持ちは同じだけど、それは難しいだろうなと私は考える。なにせ──
「探したい気持ちはわかるけど、この戦いが終わるまでは我慢だよ? 向こうにも迷惑だろうしさ」
「分かってるよー……」
色々と聞きたい事や話したい事も、感謝する事も多い相手だけど、多分余程の事がない限り私達の前にあの人が姿を現す事は無いのだろう。
直接会って、話をして……彼女自身があらゆる追及を拒んでいる事が良く分かった。
だから私も『彼女』を──『バイオ』を無理に探して追及する事はもうしない。
『──強いですね、貴女は』
そう言う彼女の眼を思い出す。
(そうだよ。私は強いんだ。だって……──『貴女の前ではカッコいいおねーさんで通す』って決めたからね)
……でも、いつかは本当の事を教えてくれると嬉しいな。
忘れている方もいると思うので補足です。
百合原咲は本名のように見えますがあくまでもダイバー名であり、本名は井原侑里〈いはらゆうり〉です。
その為、春葉アトは内心やプライベートでは彼女の事を『ゆぅちゃん』と言う本名から取った愛称で呼んでおります。