2-2 変な夢
◇
(きっと俺は、変な夢を見ているんだ)
もはや考えることは放棄し、ただ黙って三日月と名乗る男の後をついて歩きながらあたりを見渡す。
お台場には似つかわしくない古めかしい木枠窓、軋む音さえ高級感溢れる漆塗の床、べんがらを使用した紅い壁、ところどころに煌々と灯る行燈、先ほどから延々と続いている迷路のように入り組んだ吹き抜けのエントランスロビー、見上げれば星空が覗いているが、相変わらず月だけは朧雲に覆われていて見ることが叶わない。
不思議だと思うのはこれだけ豪壮な作りの宿だというのに、人はおろか従業員にさえ遭遇することがない。
まさしく今この空間は、俺と俺の目の前を歩く『三日月』のためだけに存在しているといっても過言ではなかった。
「こういった雰囲気の宿はお嫌いですか?」
「え? いや、どちらかというと好きですけど……」
「そうですか、それはよかった。いえね、前回のお客様が中国出身の方でいらして。故郷のお話を伺っているうちにこういう宿も良いのではと思いまして」
「は、はぁ……」
「よろしければ悠真さんのご趣味である小説のネタにも自由に使ってくださいね。まぁ、明日になっても覚えていれば、の話ですけど」
こちらを振り返り、ふふ、と意味深に妖しげな笑みを浮かべる三日月。
な、なんだこいつ。なんで俺が小説を書いていることを知ってるんだよ。
狐につままれたような気持ちになるが、そもそも全てが理解不能な状況下、今さら何を考えても無駄だと思い至る。
「さて、食堂に着きましたよ。まずはこちらで宴といきましょう」
そう言って三日月が俺を案内した場所は、人が五十人はゆうに入れそうなほど広い大広間。左右は壁がなくぶち抜きになっており、右には小さな滝と竹藪が揺れる庭園、左には風流な紅い橋と涼やかに広がる池泉が見える。
所々に揺れている灯籠がとにかく幻想的で、俺には贅沢すぎるほどの空間だった。
「すご……」
とても小説を書いてる人間とは思えない語彙力でその感動を表現していると、
「遅いぞお前ら。早く座れ」
中央の座敷にちょこんと腰掛けていた彩雲が俺に向かって手招きをした。
酌でもしてくれるつもりなのか、瓢箪とおちょこが手元に添えられている。
「ご苦労様、彩雲。短時間の割になかなかの仕上がりですね」
「これくらいわけもない。あと二十分だぞ」
「もう十分くらいなんとかなりませんか」
「無理」
「かき氷に練乳をつけましょう」
「十分延長、承知した」
何やらまたしても人と異生物の調和が成り立っている。
三日月は微笑んだまま頷き、俺の背中をそっと押す。
「どうぞお座りください。私は厨房でご馳走の準備をして参りますので」
「あ、いや、夕飯はさっき食ったばかりなん……」
言いかけた途中でぐう、と腹の虫が鳴る。
お、おかしいぞ。さっき激安チェーン店でがっつり飯を食ったばかりなのに、どういうわけかすでに腹が減っている。
三日月は俺の空腹感を予見でもしていたかのように満足そうに頷くと、「では、すぐに戻りますのでしばしお待ちを」と言って一人静かに広間の奥へ消えていった。
◇
「よしお前、飲め」
「え、いやでも……」
彩雲の隣に腰をかけると、すぐさまツイと酒を突き出された。美女も酒も嫌いではないが、べろべろに酔わされて高い金でもとられやしないかと、そんな不安が頭を過ぎる。
「心配しないでも、お金はいただきませんよ」
「うっわびっくりした」
座ってくつろぐまもなく、背後から声をかけられてまたしても心臓を飛び出しかける。
先ほど厨房に向かったばかりの三日月が、いつの間にか割烹着姿で俺の背後にいた。彼が手にしている膳の上には銀色のクロッシュがのっている。
「はは。驚いてる驚いてる」
「そりゃ驚きますよ! 戻るの早すぎないっすか⁉︎」
「なにぶん時間がないもので」
「時間がないって……って、そんなことより金はとらないってどういうことですか?」
「言葉の通りです。厳密にはお金は一切いただきませんが、対価はいただくつもりです」
にっこり笑う三日月。なんだかますます訳がわからなくなってきた。
「対価? ま、まさか臓器とか……」
「いいえ。臓器も必要ありません。私にとっての一番の報酬は、『今宵、私の話し相手になっていただくこと』と、『貴方の身の上話』を垣間見させてもらうことです」
「俺の身の上話……?」
三日月は「ええそうです」と、なんてことはない顔で頷いているが、やばい、俺には奴の言ってる意味がさっぱりわからない。
「私は三日月の晩にしか人の子と会うことができませんから。限られた時間で楽しくお話をしたり、それぞれの悩みや人間ドラマを拝見させてもらって、人の子の世界をもっと身近に感じたいだけなんですよ」
「は、はぁ……」
だめだ、やはり言っている意味がよくわからない。そもそもさっきから『人の子、人の子』って言うけど、自分も人間なんじゃないのか?
疑問は増えるばかりだが、三日月はそれ以上の説明をする気はないらしく「さて」と一息ついてから持っていた膳を机のど真ん中に置き、なおかつ割烹着のポケットから練乳がかかったイチゴのかき氷を取り出して彩雲の前に置くと、何食わぬ顔で俺の目の前の席に座った。
「私の話はそれぐらいにして。では、早速ですがささやかな宴といきましょう。ここで話したことは絶対に他人に漏れるようなことはありませんから、好きに愚痴ったり悩みを吐露したりハメを外していいですよ。特に悩みなんてものは、人に話すだけでもスッキリするものですからね」
微笑みながら杯を上げる三日月。彩雲はすでに好物らしいかき氷を銀色のスプーンでシャクシャクと頬張っており、なんだかここで杯を上げなかったらものすごく損する気分になってきた。
「い、いや、でも……」
いやしかし、赤の他人だし相手の言うことを簡単に鵜呑みにすべきでは……と、警戒心を働かせていたところで横からおちょこが飛んできた。
「いいから飲め」
「ゴフッ」
彩雲の仕業だ。驚いた勢いで思わず一気におちょこの中身を呷ってしまったのだが……。
「なんだこの酒、うめぇ」
強い酒の割に飲み口が優しく、品の良いアルコールの深い味わいが爽やかに喉ごしを駆け抜けていく。
「ふふ。そうでしょう? お酒だけじゃありませんよ。今宵の肴は特製揚げ出し豆腐と煮魚です」
「……」
銀色のクロッシュが開かれる。その下にあったご馳走はどちらも俺の大好物で、俺にとってこれ以上にない贅沢品だった。
喉が自然にごくりと鳴る。
「さあどうします? お口に合いそうになければ無理に召し上がらなくても……」
「いただきます」
――もうどうにでもなれ。
アルコールを口にしたせいもあって脆くも崩れ去る警戒心。俺は掠め取るように箸を掴み上げると、やんわり黄金色に光る揚げ出し豆腐を一思いに口の中へ放り込んだ。




