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孤月の宿  作者: 三柴 ヲト
第一幕――2.一晩限りの名もなき宿
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2-1 今宵の主役は貴方です

  ◇


 ようやく昂っていた神経が落ち着いた頃、俺はまだお台場にいた。


 正直もう、今はこの小洒落た街がトラウマでしかないが、俺がここを離れられないのには訳があった。


(くそ、ねぇな……)


 つい今さっきまで感情が乱れていて気づかなかったが、どうやらスマホを落としたようだ。


 兄貴と飯を食っていた時は確かに手元にあったはずで、店を飛び出してからも駅に向かう道を調べていたから、そこまでは確実にあったはずだった。


 落としたとすれば、駅までの道順を調べた後、イラつきながらポケットにしまう際に誤って落としたか、大股で荒々しく歩いている最中にポケットから転げ落ちたか。


 どちらにしても最悪な事態には変わりがない。


(ついてねぇ。今何時だろ)


 普段腕時計をつけない俺は、スマホがなければ時間さえ把握できない丸腰野郎だ。


 右も左も分からない馴染みのない街では交番に行くことすらままならず、目の前にあった公園のベンチに腰掛けて空を仰ぐ。先ほどまで藍色の夜空に美しい弧を描いていた三日月が雲に隠れて消えている。


 これでもう、今の俺を慰められる奴はどこにもいない。


 道ゆく人に交番の場所を尋ねるなり、兄貴のいる店に戻って携帯を借りるなりすれば最悪な事態は免れるかもしれなかったが、生憎今はそういう気分になれなかった。


 自暴自棄――。


 兄貴に言わせればそんな単純な言葉さえも冗長表現だとか言いだすんじゃないか……なんて、ひねくれた考えが頭に浮かぶ。


 なんだかもう、家に帰ることも、会社に行くことも、人間として息を吸って吐くことも、唯一の精神的支柱である小説を書くことも……全てやめてしまいたい気分だ。


(疲れた。今すぐ休みたい)


 投げやりな気持ちで溜息を吐いてから顔の向きを元に戻すと、ふと、公園の先……ビルを囲う街灯の合間に、ぼんやりと灯る赤提灯があることに気がつく。


(こんなところに屋台?)


 今まで全然気が付かなかった。しかも目を凝らせば凝らすほど赤い提灯が人の心を誘うように点々と奥の方まで続いていることがよくわかる。


 確かお台場近郊にはいくつかアミューズメント施設や温泉施設があったはず。


 きっとその施設への案内看板みたいなものだろうと思った俺は、腰を上げ、好奇心と軽い気持ちでそちらに足を向ける。建物と建物の隙間にくっきりと浮かんだそれは、近づけば近づくほど奥まったところまで続いていて、いかにも幽玄な空気に包まれている。


 しばらく狐につままれたように赤提灯を追って歩いていると、やがて赤い桟橋が見えてきて、さらにその先にはレトロな雰囲気を纏った豪壮な楼閣が姿を現した。


(すげぇな……。これはアミューズメントパークか?)


 見上げるほど高い木造建築物。看板はどこにもない。料金もずいぶん高そうな気配がするけれど、もともと俺は趣味と言えるようなものが何もないこともあって貯金だけはあった。明日は土曜で非番だし、朝までやってるようならここで時間を潰して陽が上ってからもう一度スマホを探すのもありかもしれない。


 そうと決まればと早速辺りを見渡す。まるで国の登録有形文化財でも目の当たりにしているかのような気持ちで入口を探していると、


「今晩は」


「うっわびっくりした」


 突然背後から声をかけられ心臓を口から飛び出しかける。


 慌てて背後を振り返ると、息を呑むほど端正な顔立ちをした、着流し姿の長身男がにっこり笑って立っていた。


片桐(かたぎり)悠真さんですね。ようこそ我が宿へ」


「え? なんで俺の名前……」


 心臓がバクバクいってるのは突然声をかけられた驚きのせいだけではない。


 陶器のような白い肌、月明かりに輝く漆黒の髪、吸い込まれるような琥珀色の瞳――まるでこの世の生き物とは思えない、天の創造物かのような美麗な生き物がそこにいるからだ。


「細かいことは良いではないですか。さ、こちらへ」


「え、ちょ、まっ……」


 しかも男は、こちらが訝しむ間もなく俺の腕を掴んで楼閣内へ突き進んでいく。


彩雲(さいうん)! どこです彩雲! お客さまですよ、早くおいでなさい」


 しかもさらに男は、爽やかなイケボでなにかを呼び始める。楼閣内に『彩雲』の名が木霊したのも束の間、ぼふんっと音がして、銀色のふっかふっかな猫? みたいな物体が煙幕と共に現れた。


「うおっ! なんか出たっ」


「うるさいモフ。雲遣い荒いぞクソジジイ」


「し、喋った……」


 なんだこのモフモフ。癒し顔とやたら可愛いアニメ声のわりに毒舌がすぎる。


 っていうか、猫? が喋るとかなんなの。モフとか言ってるし、俺、頭イカれたのか?


「まぁまぁそう言わずに。貴女はただでさえいつも隠れっぱなしで私の話し相手にはなってくれないじゃないですか。三日月の晩ぐらい、しっかり働いてくださいよ」


「めんどくさいモフ」


「後で貴女の大好物のかき氷、作って差し上げますから」


「……」


 固まる俺の目の前で繰り広げられる篭絡の一幕。モフモフはジッと考えるような仕草をした後、渋々といったように黒髪の男を見上げる。


「いちご味な?」


「はいはい、わかってますって」


「しょうがないモフ……三十分だけだぞ。好きに命じろ」


「とりあえず、部屋の準備と客人へのおもてなしをお願いします」


「承知」


 人と異生物の調和が成り立ったようだ。モフモフは宙返りをするようにふわりと舞うと、雲が形を変えるように美しい人間の姿へと変貌し、天女のように俺の前へ降り立つ。


「……」


 もはや空いた口が塞がらない。流れるような美しいアッシュグレーのロングヘアに、雪のような白い肌、グレーがかった瞳とさくらんぼのような艶やかな唇。小柄だが楼閣によく合う花魁衣装のようなものを着ていて、可憐なだけじゃないその妖艶さに思わず生唾をごくりと呑み込む。


「おや、今日は着物なんですね」


「この建物には和装だろう。そこのトンチキが好きそうな柄を選んだ」


 語尾のモフがとれている。いや、そんなことより初対面なのに軽くディスられてる気がするんだが、確かに俺好みの衣装であることは否めない。


 モフモフ(今は花魁姿の可憐な美女だが)は得意そうに鼻をならすとスタスタ建物の奥へ進んでいく。


「ああ、驚かせましたね。彼女の本来の姿はあっちなんですよ。ですが彼女曰く人の姿は疲れるそうで……用のない時は狐の姿でだらだらしているんです」


「あれ猫じゃなくて狐だったのか」


 しまった。あまりに非現実的な出来事を目の当たりにしたせいで、そもそもお前は誰なんだという疑問をぶつけそびれた。


「っていうか、これはアミューズメント施設が用意した手品的なイベントか何かですよね? 一体貴方たちは何者なんですか?」


 俺以外に客の気配はないし、こんな夜中にイベントもクソもないだろうが、このままでは得体の知れない状況に気が狂いそうなので思い切ってそう問いただすと、着流しの男はくすりと笑んでからその問いに答える。


「ここは貴方のために私が誂えた、一晩限りの名もなき宿です。私の名前は……そうですね、今までに出会った人の子は、皆、私のことを『三日月(みかづき)』と呼んでいました」


「三日月……?」


「ええ。今宵の主役は貴方ですから、私の話はそのくらいにして。さあこちらです」


 緩慢な口調でのらりくらりとはぐらかし、他人事のように『三日月』と名乗ったその男は、身を翻すと目を瞬く俺をそのままに、緩やかな動きで建物の奥へ進んでいくのだった。



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