終章.名もなき小説家の譚
◇◇◇
・
・
・
鉛のように重たい瞼を持ち上げて、目だけで周囲の状況を確認する。
俺が今いるのはおよそ一畳ほどのスペースに置かれたベッドの上。周りは茶色い壁に囲われ、体の向きを少し変えればヘッドフォンのついたテレビやコンセント穴といった文明の利器が目に映る。
(ええと……)
間違いない。ここはカプセルホテルだ。
壁を見やれば、『【男性専用】簡易個室ベッド 税込三千九百九十円~』と言った張り紙が貼られていて、そういえばチェックインしたような気がしないでもないが、なにせ起き抜けで頭が回らない。
枕元に片手を這わせてスマホを持ち上げ、軽くタップすると時刻は朝の五時十分。
泥のように眠ったらしく、なんだか全身がやたらと重い。って……その前に、スマホをなくしていた気がするんだけどみつかったんだっけか。
あれ、そもそもなくした気がするのも気のせいか……?
「……」
ダメだ、完全に寝ぼけている。
むくりと体を起こし、ボサボサの髪の毛をガシガシかく。大きなあくびを一つこさえてから、脳みそを叩き起こすために今一度、記憶を整理した。
(昨日は……)
――そうそう、有給使ってお台場に小説のネタ探しに来て、偶然兄貴に会ったんだっけ。
そこで虹ファン文庫のコンテストに出していた作品の酷評を受け、居ても立ってもいられず店を出た。
そのあとは確か……駅に向かう途中でスマホを落とし、明るくなってから探そうと場当たり的にこのスパ施設での簡易宿泊を決め、どうせならと心ゆくまで温泉を堪能し、その愉しい雰囲気に呑まれるよう美味い酒を飲んで絶品料理に舌鼓を打っていると、落としていたと思っていたスマホがなぜか長財布の中から出てきて、安堵で急に睡眠欲が湧きそのまま個室に戻って泥のように眠りについたんだっけか。
(そうだった……よな?)
どこか違和感を覚えながらも、酒の名残りかそれしか思い出せず曖昧に結論づける。
とても優しくて温かい、大切な夢を見ていた気がするのに、その内容は朧げではっきりとは思い出せなかった。
伸びを一つして起き上がると、ふと――……自分の左手に小さな鈴が握られていることに気がついた。
「鈴……?」
なぜこんなところに鈴が?
酔っ払ってどこかからかむしりとってきたのか……?
いやでも、鈴があるような場所には足を踏み入れた記憶がないと、怪訝に思い眉を潜める。自転車の鍵やお守りなんかについていそうなお手頃サイズのそれは、俺に何かを訴えかけるよう琥珀色に優しく輝いていた。
何かに導かれるよう眼前に持っていってそろりと揺らせば、『ちりん』と愛らしい音色が響く。
「……」
心が洗われるような鈴の音に、胸が騒ぐ。
なぜだろう。大切なことを忘れている気がする。それなのに、何一つ思い出せない。
襲いかかる寂寥感。
目を閉じて、自分が何に対してそんなに寂しさを抱いているのか今一度熟考するが、辛うじて思い出せたのは夢の中で不思議な宿を訪れ、美女の晩酌で極上の酒をあおりながら、少し変わった宿主と歓談している断片的な映像――ただそれだけだ。
音や会話の内容は全く思い出せないし、それが何を意味しているのかはわからないが、なぜだかそれは、俺にとってとても大事なことであるように強く感じた。
(……帰ろう)
ふいに小説が書きたくなった。
(今日は土曜だったよな)
突然降って湧いたようなその意欲は、俺の体を大きく突き動かす。
ここ最近、スランプに陥ったかのようにネタが湧かず筆も乗らなかったというのに、今はそれをあっさり覆すぐらい書きたい衝動――執筆意欲の波が来ている。
この波が去らないうちにパソコンに向かって指を走らせよう。
熱く騒ぎ始める胸の鼓動をそのままに、俺は着の身着のままで宿泊施設を飛び出し、走り出したばかりのゆりかもめに飛び乗った。
◇
――それから数ヶ月後の三日月の晩。
俺のスマホに兄貴から連絡があったのは、夜の十時を少し回った頃のことだった。
視線をパソコンの画面からスマホに移し、通話をタップして耳に当てる。
『よう悠真。遅くなって悪いな。さっき電話くれたよな?』
「ああ。明日でもよかったのにわざわざかけ直してくれたんだ、悪いな」
『そっちから連絡してくるだなんて珍しいことだしな。お前の気が変わらないうちにかけ直したまでさ』
「おいおい、自分からかけておいて知らん顔するほど俺は薄情じゃないぞ」
『はは。まあ、そういうことにしておいてやるよ。それで、お台場以来だから三ヶ月ぶりか……何かあったのか?』
「ああ、ちょっと相談したいことがあって……」
俺は開いていたワードの文章を保存すると、パソコンデスクの椅子から立ち上がる。
机のすぐそばにある窓辺に立って夜空を見上げながら、俺は兄貴に自分が小説を書いていること、そして、プロを目指していることを打ち明けた。
当然兄貴は驚いたし、前回お台場で酷評を受けた『焔の落胤』の作者が自分だと暴露すれば、声を裏返すほどに衝撃を受けていた。
『お前、そういうことは早く言えよ……! 何も知らずに全力で酷評しちゃったじゃないか』
「それは編集者として当然の意見だろ。あの時は堪えたけど、今はもう立ち直ってるしちゃんと真摯な意見として受け止めてるよ」
『それならいいが……。それで、俺にどうしろと?』
「もちろん、身内だからって特別に何かして欲しいわけじゃない。次回のコンテストや公募に向けて純粋に作品へのアドバイスが欲しいんだ。忙しい兄貴にこんなこと頼むのは胃が縮むくらい気が引けるんだけど……今の自分を変えるには、どうしても兄貴の力が必要なんだ」
『ふむ……』
「どうかお願いします」
電話越しに心から頭を下げる。兄貴から連絡があるまではどう切り出そうかと散々頭を悩ませていたのに、いざ、声を聞いたら驚くほどすらすら言葉が出てきた。
最初は半信半疑だった兄貴も、俺の真剣な声色にそれなりの心づもりを感じ取ったようで、やがて毅然とした口調で言う。
『人に干渉されるのが嫌いなお前がわざわざ頭下げてまで頼み込んでくるだなんて、相応の覚悟ができてるって解釈でいいんだな?』
「ああ」
『……わかった。最初に言っておくがプロの世界は厳しいぞ。今は書き手が飽和していて一度や二度賞をとったくらいじゃ簡単には生き残れないような時代だからな。それでも戦い抜こうとする固い決意があるなら、家族としてではなく一編集者としてバシバシ赤入れてやるから、俺のパソコンのメールアドレスに書いた作品送ってこいよ。来週の大型連休中には送り返せると思うから、すぐに改稿に取り掛かれば今募集中の虹ファン文庫の公募締め切りにも間に合うと思うぞ。審査はガチだから一次に通るかどうかは実力次第だけどな』
「わかってる。助かるよ……ありがとう」
力強い兄貴の一言に、ぐっと胸が熱くなる。
不思議だ。つい数ヶ月前までは兄貴のマウンティングが苦手でしょうがなかったのに、今ではえも言われぬ頼もしさしか感じられない。
「兄貴」
「……ん?」
「本当に……ありがとう。思い切って打ち明けてよかった」
『なんだよ改まって』
「ちゃんと言っておこうと思っただけ。……それじゃあ、今書いてる作品があとタイトルをつけるだけで終わるから、仕上がり次第送るよ」
『ああ、わかった。楽しみに待ってる』
「あまり期待されると恥ずかしいし、兄貴はただでさえ忙しいんだからそこまで張り切らなくても……」
『今さら照れるなって。ずっと避けられてると思ってた弟から急に頼られたんだ。ここで張り切らなくていつ張り切るんだよ』
珍しく声を弾ませている兄貴。なんだかこれまでの自分の態度を申し訳なく思うと同時に、今日、思い切って兄貴に電話して、頼って、本当によかったと思う。
心の底から礼を述べて電話を切る。
ふいに実家の両親はどうしてるかな、なんて、気まぐれなことを思った。
電話をかければ、どうせまた『仕事は? 彼女は? 結婚は?』と捲し立てられて、まともな会話もできずに通話が終了してしまうだろうから、次の休みに直接会いに行こうと決心する。
「……よし」
窓を開けて夜空を仰ぐと、白く、孤高の輝きを放つ三日月が、虹色の雲を纏って今日も俺を見下ろしていた。
「今日も三日月は綺麗だな」
柄にもないお世辞を口にすれば、なぜたか月が微笑んだような気がして、自然と頬が緩む。
俺は再び席に腰をかけると、書きかけの小説に予め決めていたタイトルをつけ、その脇にいつものペンネームを添えて物語を完成させた。
" 孤月の宿 " PN:悠真 白
――それは、ある月の神様と美しい天女の、人と妖をつなぐ優しいお宿物語り。
いつかこの小説が真白の元まで届きますように……と、そう願いを込めながら、俺は出来立ての物語を兄貴に託すべく、メールの送信ボタンを押した。
ー 第一幕:名もなき小説家の譚/完 ー
お読みいただきありがとうございました。
これにて第一幕は完結です。今のところ続きを書くかどうかは未定のため設定を一旦「完結」としますが、気まぐれに次話を投稿する可能性もあります。その場合は再び設定を「連載」状態に戻しますので、気が向いたらお立ち寄りいただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




