2 氏神を守る者として
神之元 鈴音が海の近くの小さな集落で生まれた日、同時刻に全く別の場所で一人の男の子が誕生していた。
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「わーたーるくーん、行ーこうー!」
「ああ、叶恵ちゃん、おはよう。 ほら、渉ー、叶恵ちゃんが来たわよー!」
4月になったと言うのに気を許すと息が白く変わりそうなほどに冷え込み爽やかな朝と言うよりも冷ややかな朝の光が満ち、今年最後だろうと言う遅い霜が降りて辺りの植物や野菜の葉に凍った空気が白く咲き、水分を失い一層渇き尖った様な空気を通して聞こえて来るのは鳥の鳴き声と近くを流れる川のせせらぎだけと言ったような自然溢れる田舎に幼馴染の神子柴 叶恵と百鬼 渉の母親の声が響く。
2人が住んでいる内陸のこの場所は海抜700mと標高も高く海から遠い事もあり朝の冷え込みはいつもの事である。南北に渡って横たわる日本の屋根と言われる山脈とそれに並行し高さでは引けを取らないもう一つの山脈とに挟まれその間を流れて海にまで辿り着く川が作り出した河岸段丘とその川に向かって山間から流れ込む支流が作り出した扇状地とが織りなす緩やかで豊かな所に渉と叶恵は産まれた。山から流れ出た豊かな栄養を含んだ土と水は様々な作物を作りその土地の景色を長い農耕の歴史の中で変えており、水が豊かな傾斜地ではまだ稲が植えられる前の水だけが引き込まれた田んぼが風のない朝に水なのかガラスなのか分からない程の鏡の面を横たえ、それら数多くの四角くない田んぼがその傾斜地にまるでステンドグラスの様に組み合わさり、それらのガラスを囲って繋ぐ黒いラインの代わりの緑の土手が複雑な曲線を描いて浮かび上がっている。区切られた水面は山脈からやっと顔を出したばかりの朝の低く差し込む光を同じ角度で低く反射させ霜を纏った周りの草花を照らし明るい色彩を煌めかせており、川から少し離れた所に在る畑には噴水の様に吹きあがって溢れそうなほどに盛り上がった緑の中に色とりどりの野菜が育っている。そんな自然豊かな内陸の小さな村の外れに渉と叶恵の家は有る。どこか懐かしいとも思える昔ながらの田舎の中にあって2人の住んでいる所は神社を覆う森に近く、それにつながる多くの木に囲まれた中にぽっかりと開けた所で家の横には小さな川が流れていた。幼馴染で家も隣同士なのだが隣といってもそれぞれの家の間は50mくらいはあるような少し辺ぴな所で、村の最南端に位置するここは、その小さな川を渡れば隣の市に入ってしまう。2人の家からは隣の市に有る小学校の方が明らかに近いが、学区で区切られているので村のほぼ真ん中にあり遠い場所となる村立小学校まで歩いて行かなければならない。2人の住んでいる所よりも先には家がないために同級生である彼等はいつも一緒に登下校をし、通学路の僅かに先となる所に住んでいる叶恵が途中にある渉の家に来て一緒に行くのが常になっている。
「おはよう、叶恵ちゃん。」
「おはよう。行こう。」
まだ小学校に上がったばかりのランドセルは大きく、教科書の重さも子供にとっては大変なものである。この村の外れから小学校までは3km弱あり、入学したばかりの生徒たちの足では1時間近くも掛けて行くのである。それに同じ学校へと向かう生徒達に会うには300m程歩いた先に在る国道沿いの通学路まで行かないとだめで、そこまでは仲良く手を繋いで行くのがいつしか2人の決め事になっていた。
「手、冷たいね。」
「渉くんの手、あったか~い。」
「じゃあ、今度はそっちの手。」
「うん。」
交互に手を繋ぐために場所を交代して手を繋ぎ直す。その度毎に2人は笑顔で向き合っていた。国道沿いの道路に出てやっと他の生徒達と出会うとそこで男の子と女の子同士に別れて学校へと向かう。集団で向かう程生徒数はいないが、決められた通学路には自然と同じ様な時間帯に生徒達が集まって来て、大人達は通勤に自動車かバイクなどを使うので学生以外に歩いている人を見る事は無い。だからこの地域では小学生と中学生だけの自然な集団登校の列が形成される。
挟まれている山脈に沿う様に流れる川と並行してJRの単線と国道も南北に走り、他の主要な道路も同じ様に並行している。しばらく国道沿いの歩道を歩いて行くと直ぐに通学路は国道とは別れて民家に挟まれた生活道路へと入って行く。12の地区からなるこの村にはその地区毎に氏神様を祀る神社が有り、渉達が学校に行くまでの通学路も3つの地区を通り、その途中には神社の森が在ってそれらを抜けて学校まで行くのである。
民家の間を縫う様に抜ける通学路は道幅も狭く、軽トラックが通れば後は大人1人が歩けるスペースがやっとある程度の狭い道で、それを道幅一杯に広がって学生たちはおしゃべりしながらダラダラと歩いて行く。新しい家は少なく、昔ながらの庭が広く農耕機具や味噌などの越冬品の保管や野菜などを貯蔵する蔵が有り、そのどれもが最初は白かったと思われるが薄汚れ、まるで醤油が掛った白いTシャツを慌てて濡らしてシミを取った時のまだ白く成り切っていない、どこか薄茶色の色に染まってしまった様なシミが滲んでいる漆喰の蔵ばかりである。そしてどの家にも庭木の様な柿や何やらの果物が生っている木が植えられ、さらにそのどの家にも小さな畑がある本当にのどかな所で、通学路の脇には常に沿う様に小さな川が有り、下校時に知らない家の庭先の物を拝借してはその川で軽く流してから食しても怒られない様な人々もおおらかな地域である。
西に日本の屋根と言われる山脈が有るので下校時に暗くなるのも他の所よりも早く、低学年の子供達は通学路の途中に在る神社の薄暗い森を抜けるのに幾分かの怯えを持っていた。特に夏などの少し怖い番組を見た翌日などは一層その怖さが増しているのである。見なければいいのに、子供の興味は抑えきれずその森の近くに行くまでは皆と昨夜の番組の恐怖を楽し気に話して、いざ森に差し掛かった時には走り抜けるか、親しい者同士が強く手を繋いで恐る恐る進んで抜けていくのである。
「渉くん・・・。」
いつもだ。叶恵が渉に近づいて自分から手を握る。
「行こう。平気だよ。」
笑顔で叶恵の手を握り、渉はいつも通りの足取りで進んで行く。
「神社の森だよ。怖くないよ。神様が居るところだから。」
「だって、暗いの怖いよ。」
「僕、叶恵ちゃんを守る。」
「うん。」
家に帰った後での遊びも2人、いつも一緒だ。自然の多い田舎に公園などは無く、お互いの家か近くの神社の境内が遊び場となっている。家を出て少し坂を上り、その途中に在る石の階段を20段も登れば神社の境内になる。この地域で一番高い所に位置し、木に囲まれてそこだけぽっかりと開けた平らな所である。
この神社には宮司が常にいる訳ではなく別の所に在る神社の宮司が掛け持ちとなり、祭りやお宮参りなど事前に知らされた時にのみこの神社に来るのである。そこでこの神社を維持するのが氏子であり、2人の家もそれであった。定期的な掃除や相談事、秋には祭りの準備に年越しの準備などこの神社を拠り所としている地区の中で氏子中を持ち回りで行っているが、神社に隣接している両家は常に氏子をしており、小さな子供にもこの神社の境内は本当の意味で自分達の庭なのである。父親達が掃除に来るときも2人は付いてきて一緒に何かを運んでお手伝いをして、氏子中の皆に可愛いだの偉いだのと褒められ、何かしらお菓子を貰う、それを楽しみにしていた。
「叶恵ちゃん、ここ怖く無いの?」
「うん。明るいもん。」
「お宮の後ろは暗いよ。」
「平気、渉くんがいるから。」
「僕、叶恵ちゃんを守る。暗い所から何か出ても守る。」
「渉くん好き。」
「僕も叶恵ちゃん好き。」
「へへへへー。」
何をするでもなく、何をしたと言う記憶も残らない様な遊びとも言えない時間を2人はいつも一緒に過ごしていた。
学年が上がる毎にその行動範囲も広がり、いつしか男女の2人は一緒には遊ばず、学校を終えてからは自転車で友達との待ち合わせ場所に向かって別々に行動するようになっていた。それでも朝手を繋いでの登校は続いて居たのだが、春休みを終えて中学へと上がった時にふと、その習慣が途切れた。小学校の自由な服装から制服に代わり、思春期に起こる男女を意識するようになり、どちらともなく恥ずかしさを覚えて手を伸ばさなくなったのである。それでも叶恵は渉を呼びに来て、他の生徒達と合流する所までは一緒に歩いていた。
中学生になり後数日で初めての夏休みがやって来るという朝である。いつもの様に叶恵は渉と一緒に他の生徒と合流する国道沿いの道に向けて歩いていた。
「ねえ渉君。お願いがあるの。」
「何?」
「夏休みに、一緒に花火行って欲しいんだ。」
「竜神祭りの?」
「そう、今までお父さんとお母さんに連れて行ってもらっていたけれど中学になったからって。」
「いいよ。花火、僕も見たいから。」
「本当! ありがとう。」
「でも、何で僕?」
「友達と行っても、帰りが1人だと怖いじゃん。バス停から家まで街灯がポツポツしか無いし暗い道を歩くの怖いから。」
「そっか、この道夜は真っ暗だもんね。分かるー、叶恵暗いの怖いもんな。」
「ん~、良いでしょ、怖いもんは怖いんだから。」
「ははは、良いよ、僕で良ければ一緒に行くよ。」
「うん、渉君とがいいの。」
「そ、そうなの?」
「うん。一緒にお祭り行くの久しぶりだね。」
「そうだよな、小4以来?」
「うん、確かそう。一緒にお小遣い持って出店に行ったね。」
「ああ、でもここのお祭りには出店って2軒だけだっただろう。」
「不思議、それでもワクワクして行ったよね。」
「なんか、懐かしいな。」
「渉君、何買ってた?」
「癇癪玉。」
「えっ? それだけ?」
「そ、それを買って皆で投げて遊んでた。あの『パーーーン』て弾ける音が好きだったなー。」
「へー、知らなかった。男の子ってそんな事してたんだ。」
「叶恵は?」
「おもちゃの指輪とか、かな。」
「へー、やっぱり女子なんだ。」
「昨日ね、引き出しの奥から出て来たの。安っす~い感じのプラスチックのやつ。銀色の指輪に真っ赤な宝石の形をしたのが付いてて、持ったら凄い軽かった。ははは。」
「指にはめただろ。」
「うん。ここまでしか入らなかった。」
叶恵は左手の薬指の第一関節の所を右手の指で摘まんで笑顔を見せた。
「あの頃は手も小さかったんだなーって。」
「そうか、僕も何か残るものを買っときゃよかったな。」
夏でも涼しい地方に属するここは夏休みの始まりが8月からでその日数も少ない。隣の市で行われる竜神祭りは山脈の間を流れる大きな川の伝説に沿って名付けられたもので、その昔、この川は氾濫する事が多くそれはここに住む竜神が暴れて川が氾濫したとか、この川の流れが早くそのままの勢いで海にまで流れて行く事から川全体を竜に見立てて祀ったとされる伝説である。その祭りは例年8月第1週目の土曜日と日曜日に開催され、花火は最終日である日曜日の夜に打ち上げられる。急いで場所取りをしなくても大丈夫なほど高い建物も無く、集まって来る人の数も都会のそれとは比較にならない程少ないので何処からでも花火は良く見え、ナイアガラの美しい流れを見たい人だけが仕掛けられている所に頑張って陣取る位である。
この日、2人は花火の前にお祭りの出店で遊ぶために昼過ぎに出掛ける約束をした。こんな日なので、渉の母親が『デートには男が迎えに行くものだ。』と言って、息子を早めに家から追い出し叶恵の家に呼びに行かせる。叶恵の名前を呼び待っていると、引き戸の玄関ドアが動き始め、それに付いている滑車がドアのガラスを振動させて何かの音楽を奏でるかの様に開き、そこには浴衣を着た叶恵が立っていた。
水色と言うよりは水縹色と言った方がしっくりくるような淡く本当に縹色を清らかな水で薄めたような爽やかさの有る色の生地に、赤や白、茜色等で色づけられた大きな椿の花が散りばめられそれが中学生になったばかりの幼さを残した叶恵にとてもよく似合っていた。今までに幾度となく叶恵の浴衣姿を見て来た渉も、小学生とは違う、少し、ほんの少しだけ大人に成った叶恵に驚くほどの変化を感じてしばらくは声を出す事が出来なかった。
「どう、 かな。」
「・・・。」
「子供っぽくない?」
「いや、全然。」
「良かったー。 あ、でも運動靴なんだ。」
「それも似合ってる。」
「本当! 下駄履きたかったけど、お母さんが足が痛くなるって言うから。」
「ああ、運動靴で良いよ。似合ってる。」
「良かったー、渉くんに言われてホッとした。」
「行こうか。」
「うん。」
叶恵が浴衣なのでいつもよりゆっくりと歩いて国道に在るバス停を目指す。そこに向かう上で必ず渉の家の前を通らなければならない。渉はゆっくりと歩きながら何気無しに家の方を見ると、そこにはガラス窓の向こうからニヤニヤして見つめる母親の姿が見え、目が合うと訳も分からない投げキッスをされ、直ぐに顔を背けた。何処か話もギクシャクしながらバスを待ち、やっと来たバスに乗り込む。村を縦断する様に走るバスには、既に同じ目的の人達も多く乗っていた。
渉達が乗り込むと、祭りに向かう人達の楽しい会話が溢れる中から2人を呼ぶ声が聞こえる。
「よう、渉ー、こっちこっち。」
バスの最も後ろの席に横1列で陣取った同級生の直樹達が手招きをして呼ぶ。彼等は男女入り混じって仲のいいグループで行くみたいである。
「ほう、新婚さんもお祭りデート?」
「そんなんじゃない。」
「今更、お前達小学生の時から結婚するって言ってたじゃん。」
「そうだった?」
「お前なー。 でも良いよなー、隣に住んでいる幼馴染が可愛いんだから。」
「え! それって私が可愛く無いみたいじゃん。」
「うーん、だって叶恵の方が可愛いだろう。」
「そりゃ、叶恵には敵わないけど。」
「まあ、美咲も可愛いからさ。」
「美咲もって何よ。もっって。」
その時バスが揺れた。
「キャッ。」
叶恵が横に立っている渉の腕を掴む。渉は反対の手で叶恵の掴んだ手を上から抑えた。
「ほらな。」
直樹がニヤニヤしながら言うと、
「ねえ、渉くん、叶恵と手を繋いでやりなよ。転んじゃったら浴衣が台無しだよ。」
美咲が叶恵を抑えながら言った。
「ああ、揺れるから掴んでて。」
渉はそう言って掴んだままの叶恵に向き合って言う。
「うん、ありがとう。」
その後はいつもの他愛も無い話をして祭り会場の近くのバス停で降りた。
「じゃあな、新婚さん。」
直樹は相変わらずの言葉を残して皆と歩いて行く。
「じゃ、じゃあ、手を繋いで行こうか。」
「うん!」
それからは打ち解けて、いつもの、小学生の時の様に楽しく、そこにいるのが当然で、誰に会おうとも恥ずかしい事など無く、ただただ幼い時からの2人に戻ってお祭りを楽しんでいた。隣の市の祭りでも、花火大会が有るので直樹たちの様に仲の良い友達同士で来ている同級生にも数多く遭ったが、誰一人驚く者は無く、ただ普通に、本当に2人は付き合っていて当然の様な態度に対して逆に渉達の方が驚いていたぐらいである。先生だけは別で、生徒達が校則に違反するような事をしていないか、危ない事に巻き込まれないかの見回りに来ていて、その先生に会った時だけ驚かれ、
「百鬼、神子柴を頼むぞ。」
等と肩を叩かれた。
ハッカパイプを時々吸いながら出店をめぐる。
「これにしようかな。」
「また、おもちゃの指輪?」
「うん、これは私にも入るから。それに渉君が一緒だから。」
「ん~~、僕が買うよ。叶恵に買ってやる。」
「えっ、いいよ、自分で買うから。」
「いやっ、買って上げたいんだ、ダメ?」
「あ、ありがとう。」
「それで良いの? 他にも有るよ。」
「これでいい。これが最初に目に留まったから。最初に出会った男の子の渉君と最初に目に留まったこの指輪。だからこれでいいの。」
「うん分かった。」
買ってから渉は叶恵の右手の薬指におもちゃの指輪をはめて上げる。それを大事そうに手に包んでから、
「渉くん。」
と真剣な眼差しを向けた。
「あのー、何だ、いつかはだ。本物?」
「嬉しい。うん。」
2人だけで見る花火は綺麗だった。
こんな田舎の花火大会なのに清らかな水と澄んだ空気のお陰で精密機械の製造工場などがあり、その協賛も得て約4000発が打ち上げられる。尺玉と言われる大きな花を咲かせるものも数多く打ち上げられ、その度に麓で見ている者の胸に大きな振動を伝えていた。渉達も手を繋いだままで夜空を見上げ、時折感動の声を上げ、花火が美しく消えるとお互いに見合ってその感動を伝えあっていた。
帰りの込み合うバスを降り、例の少ない街灯が照らす薄暗い道をお互いの家に向って進む。バスの中ではその揺れに叶恵がふら付かない様にと渉の腕を抱えさせ体を密着して乗っており、降りてからも渉が腕を掴む様に差し出すと叶恵は笑顔で腕にしがみ付いて来た。
帰りもゆっくり、慣れない浴衣の歩きと慣れない腕を組んでの歩きで楽しかったお祭りの話をしながら歩く。出掛けた時と同じ様に、渉の家を通り過ぎ叶恵の家まで送って行く。もう叶恵の家の玄関の明かりもはっきりと見え、そこまでの道も明るく照らされているので、ここからなら家に入る叶恵を見る事が出来るまでの所に来ると、自然に足が止まり、組んだ腕を離すのが名残惜しそうにお互いに視線を逸らせて話す。
「今夜はありがとう。」
「いや、誘ってくれてありがとう。」
「ううん、こんな暗い道を、ありがとうね。」
「ああ、平気、また行こうな。」
「うん。絶対だよ。」
「ああ、今度、花火無くても行こうか。」
そこでやっと2人は見つめ合う。
「えっ、本当、楽しみー。」
「じゃあ、おやすみ。」
「うん、おやすみなさい。」
叶恵がするりと渉の腕から離れ自分の家に向って1歩踏み出す。突然振り返り渉に飛び付く様にして頬っぺたにキスをした。キス、と言うには余りにも時間的に短く、事故の様にぶつかる感じで唇が当たって来たのである。叶恵自身が恥ずかしさとドキドキを隠すように『勢い』と言う勇気で何とかそれらを抑え込み、更にその勇気が逃げない様にと瞼を閉じて顔を近づけていったので、『触れる』のではなく『ぶつかる』といった感じの甘さの少ない青さの多い固い口づけになったのである。された渉も叶恵のその唇の柔らかさを感じる事も無く、ただ頬に押し込まれた感じだけのキスであった。
直ぐに叶恵は渉に背中を向けて、
「指輪のお礼。」
とだけ言うと慣れない浴衣で出来るだけの小走りで振り返る事も無く家の中へと入って行った。
短い夏休みも終わり、その間に一緒に宿題や約束通りのデートをすると、何故だか少し大人に近くなった様な気分で新学期を迎える。
「渉くーーん。おーはよー。」
登校時間にいつもの叶恵の声が響く。
「おはよう。」
「おはよう。」
2人は並んで歩き出すと自然に手と手を繋ぎ、それが普通であるかのように体を寄せ合っての話をする。
「夏休み終わっちゃったね。」
「もっと休んでたーい。」
「皆に会うの楽しみだなー。」
「ねえ、皆は何してたのかな。」
「僕達と同じじゃないかな、直樹たちも花火行ってたし。」
「そうだね。夏休み短いんだもんね。」
そんな話をして他の生徒達と合流すると男女に分かれての登校になる。
学校に着くと皆懐かしさに会話も弾み、教室の中は騒がしいほどに声変わり前のやや高い声が響き渡っている。渉は叶恵と教室に入ると花火に行くバスで会った友人達に呼ばれ直樹が座っている机に集まった。
「おう、久しぶり。」
「おう。」
等と男同士で短い会話をしているとそこに美咲が割り込んできて、
「ねえねえ、2人は何処までいったの?」
と突然聞いて来る。
「何の事?」
「もう、花火の後よ。叶恵と何処まで進んだの?」
「何も無いよ。」
「まぁた、キスした? キス。」
その言葉に2人共返事が止まり、やや視線を下げ、叶恵は赤くなっていた。
「え~~~~っ、キスしたのっ!」
美咲の声が教室中に広がる。
こんな田舎である。中1の2人が頬っぺたとはいえ『キス』という夢にまで見る大人の行為をしたとなれば大騒ぎである。慌てて止めに入る2人の動きは既に時遅く、教室の皆が集まり出し騒ぎ出している。中には隣の教室の友達にまで話しを持って駆け出した生徒もいた。田舎の各25名程度の2クラスしかない学年で、しかも全員が小学校から一緒の幼馴染とくれば知らない顔など無い。2学期初日にして大騒ぎとなり、それは先生が教室に来て大きな声を出し続けてやっと治まったぐらいである。
休憩、昼休みと授業が終わる度に叶恵の席には女子達が集まりキスの事を聞いている。
「渉君が指輪を買ってくれたからー。」
「指輪ーーーっ!」
「おもちゃだよ、おもちゃ。」
「おもちゃでもいいわよね~~。」
「そっ、2人に愛が有ればそれでいいの。」
「そんなんじゃ無いってっ、もっと子供の時の話をしてたから。」
「2人は小さい時から結婚するって決めてたんだ。」
「キャ~~~素敵~~。」
「そ、そんなんじゃ無いってーー。」
「いいからいいから、それで?」
「えーと、帰りの暗い道も一緒に居てくれたからー。」
「キャーー暗い道っだって!」
話す言葉の1つ1つに大げさな反応をして大きな声を上げている。
「だからね。」
「だから?」
「だから。」
「うん、だから?」
「・・・。」
「 。」
「・・・。」
「ちょっと叶恵、そこまで言ったんだから話しなさいよ。」
「えっ、だから。」
「だ~か~ら~?」
「そのお礼に。」
「何処にキスしたの? もしかして唇? キャ~~~。」
「違う違う、頬っぺたに。」
「頬っぺた、キャ~~~。」
何を言っても盛り上がる。
「それから?」
「えっ?」
「その後は?」
「何も無いよ。」
「本当?」
「本当本当、これは絶対。」
「じゃあさ、そのあと何回キスした?」
「してないよ。」
「本当でしょうね。」
「本当です!」
「でもいいなー、ひと夏の経験ってやつね。」
「そんなんじゃないってば。」
「いやいや、大きな一歩だよ。叶恵が一番の大人だよ。」
「止めてよー、恥ずかしいじゃない。」
「いいなー、既に将来を誓った人が居るなんて。」
その後、朝の通学の時には手を繋ぐものの特に何の進展もしないままに1年が過ぎ、再び花火の夏がやって来た。約束したように渉が迎えに行き、玄関ドアが引かれたそこには昨年と同じ浴衣の叶恵が立っていた。昨年と違うのは、伸びた背を補う様に詰めていた丈を下ろし運動靴も下駄の時と同じぐらいにしか見えない様になっており、帯から下が長くなっただけで更に大人びた感じを受けていた。それに今年は小3の妹である雪恵を連れて行くらしい。雪恵も渉とは一緒に遊んでいて、3人は仲良しの兄弟の様になっていた。
雪恵を間に入れて3人で手を繋ぎ花火大会へと向かう。バスの中では直樹達には会わなかったが、出店の並ぶ道路で会った時には、
「ほう、今年はすでに子連れか。」
などと揶揄されたが、それも既に笑顔で返せるまでに渉と叶恵の仲は皆に浸透していた。
花火を見終わりバスで帰って暗い道を通っての帰宅。
昨年同様に自分の家を通り過ぎ、叶恵の家まで送って行くと、その明かりが足元を照らしたところで妹の雪恵は2人から手を離して自分の家へと駆け出して行った。残った2人はそこで立ち止まり、今夜初めて手を繋ぐ。
「今日はありがとう。」
「雪恵ちゃん楽しそうだったね。」
「ごめんね。」
「んっ? 何が?」
「2人っきりじゃなくて。」
「ああ、平気だよ。僕も楽しかった。」
「また、夏休みの間に2人だけで行こう。」
「うん。」
「じゃあ、おやすみ。」
「おやすみ。あっ。」
別れの挨拶をして叶恵が繋いだ手を離そうとした時、渉がその手を再び強く握って引き寄せそのまま叶恵の頬にキスをした。驚いて瞳を大きく開けて固まっている叶恵に向かって、
「去年のお返しだから。」
と言って渉は恥ずかしさで視線を下げる。
「・・・。」
「んん、ああ、その。」
「ありがとう。嬉しい。」
「そのぅ、1年振りでごめん。」
「いいの。ありがとう、本当に嬉しい。」
「そう?」
「うん! おやすみ。」
「ああ、おやすみ。」
叶恵は家に向って歩き、玄関に消える前に渉に向かって大きく手を振った。
そしてさらに1年が経とうとしている。田舎に育った2人である。奥手と言うよりは周囲にもそのような甘い関係を持ってイチャイチャする様な者も居ないので、必要以上に求めるものも無く今まで通りの関係を続けていたのである。
「渉君、来週お誕生日だよね。」
「うん。」
「一緒にお誕生日会しようか。」
「本当!」
「うん、今ね、お母さんに教わってクッキー作ってるの。それ持ってくから、ケーキじゃなくてごめんね。」
「ううん、叶恵の手作りの方がいいよ。嬉しいな。」
「あまり期待しないでね。」
「期待しちゃう。期待しちゃうよ。」
「んふふー、お母さんに色々教わってお料理だって少しは始めてるのよ。」
「へー、凄いねー。」
「これも修行修行。」
「あははは。僕も何か修行始めないと。」
「何するの?」
「何がいい?」
「えっ?」
「叶恵は僕に何してもらいたい?」
「えっとー、えっとー、何かなー。」
「じゃあ、考えといてよ。」
「うん、分かった。」
「ああそうだ、明日、氏子中が集まってお宮の掃除する日だったよね。」
「うん。」
「帰ったら一緒に皆の分の麦茶作って冷そうか。」
「それいいね、やろうやろう。この頃雪恵も何かお手伝いしたいって言うの。」
「うん、雪恵ちゃんも一緒にやろうよ。」
「お願い。喜ぶなー、雪恵。」
「ああ、はしゃぎ回るよきっと。」
毎月第2日曜日には氏子中が集まりお宮の周りの清掃を行う。森に囲まれているのに日々の清掃を行っていないここは、石の階段や境内の至る所に枯れ葉や小枝などのゴミが溜まりそれを綺麗にするのである。渉は氏子中に混ざってそれらの清掃に手を貸している間に、叶恵と雪恵は作業の終わりを見計らって冷えた麦茶を運んで来た。お盆に紙コップを乗せた物を雪恵がたどたどしい足取りで落とさない様に気を付けて運び、その後ろから叶恵が麦茶の入った大きくて重いアルマイト製のやかんを両手で必死に持ち上げて石の階段をハアハア言いながら上がって来る。それを見付けた渉は嵌めていた軍手を外し叶恵からやかんを持ち上げる。
「ありがとう。」
息を切らせながらお礼を言うと、
「おっ、いいねー若い者同士って。」
等とおじさん共は茶化す。
ほぼ清掃も終わり、皆が集まって冷たい麦茶を飲む。
「これ、雪恵が作ったんだよ。」
「ほーー、雪恵ちゃんもお姉さんだ。」
「えへへー、雪恵、もうお姉さん。」
気分を良くした雪恵は境内を駆け出し少し高い位置に貼られ本殿を一周回る事の出来る床板の様なお宮の廻縁の下に入り込み蟻地獄の罠を小枝で突いて遊び出している。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん。出て来たよアリジゴク。」
「止めなさーい、お洋服汚れちゃうでしょー。」
「はーい。 あれっ? お父さんお父さん、来て来てーー!」
雪恵が大きな声で呼ぶので父親が笑いながら近くに行くと。
「なんだ雪恵。」
「これ見て、これ。」
と、廻縁を支えている柱の外からは見えない裏側を指差した。父親も潜り込み雪恵の指差した所を確認すると、突然、大きな声を張り上げた。
「叶恵ーー! 渉ーー! ちょっと来なさーーーい!」
2人も急いで駆け出して潜り込む。
「これは何だっ! こんな事をしてっ!」
指で示された所には渉達も忘れていた相合傘のいたずら書きがあった。
黒いマジックで傘の中には『わたる』と『かなえ』とたどたどしい文字がある。何時書いたのかも分からないが黒いマジックの文字ははっきりと風化することなく残っていた。その場で2人は頭をポカリと拳で叩かれ、
「しょうが無え奴等だなー、ほれ、皆に謝れ。」
と言われ、這い出して神妙に歩いて麦茶でくつろいでいる氏子中の前で頭を下げて謝った。皆からは笑われながら許しを得ていたが、渉の父親からは、
「お宮さんを守る氏子中の息子がこんな事じゃダメじゃねえか。叶恵もだぞ。」
等と怒られてから再びポカリ、ポカリ、と頭を殴られた。
解散して、片づけを終えると2人は再び境内で会い、廻縁に潜り込んで柱の落書きを見る。
「いつ書いたんだろう。」
「渉くん、覚えてる?」
「全く。叶恵は?」
「私も。」
だが確かに筆跡の違う文字で2人の名前がひらがなで書き込まれており、その筆跡は2人が覚えている2人の幼い時のものであった。
「くくくく、こんな事してたんだね。」
「ほんとほんと。きっと私達もアリジゴク突いてたんだね。」
「ここでの遊びって他に無いもんね。」
「ふふふふ、懐かしーなー、これ、覚えてないけど。」
「はははは、覚えてないけど懐かしいの?」
「いつも一緒に居たの思い出したのっ!」
「そうだったね、いつも一緒に遊んでたね。」
何気なく話していてお互いに向き合うとその顔の近さにドキッとして、さっき迄の笑顔がスッと消えるとどちらも向かい合っている相手の顔の唇を見つめてしまっていた。
渉は叶恵がふら付かない様にそっと右腕を支えると、叶恵は反対側の手を渉の肩にそっと添えた。そして、叶恵は目を閉じる。
ゆっくりと、本当にゆっくりと寄せ合って2人は初めて唇同士のキスをした。
そんな日から数日間、渉は学校でも自宅でも叶恵の事ばかりが気になって何処か虚ろな日々を過ごしていた。
7月11日。
誕生日の前日。
0時を過ぎれば15才になる。
布団に潜った渉は翌日の15才の誕生日。その日は叶恵が作ったお菓子が食べられる2人だけでの誕生日会の日、そうすればもっと2人は身近に成れるんだと感じ、今度自分は叶恵に何が出来るのだろうか真剣に考えようと思いながら深い眠りに就いた。
子供の頃、異性と手を繋いで歩いたのは何歳までだったのだろう。
思い出してみようとしても思い出せませんでした。
それほどまでに小さい時から手を繋ぐのを止めてしまっていたのかな? そんな感傷に少し浸って・・・。
何故だろう、今は誕生日に自分へのご褒美を考えています。