一話 「彼女はそれを日常と呼んだ」
中途半端に不幸な誰かが。
中途半端に絶望し。
中途半端な救いを求めた時。
カミサマはどうやら気まぐれに。
無慈悲な救いを与えてくれたようだ。
彼女は夢を見る。それは人にとって極々普通のことだが、彼女にとってはそうではない。
見る夢はいつも同じ内容で、彼女は断崖絶壁に一人海を背に向けて立っているのだ、辺りは真っ暗でただ波の音だけで世界が出来ているほど静かだった。
背後に広がる暗く広い海を見て彼女は身震いした、落ちたくない……そう心で呟く彼女に風が襲いかかる。風は彼女を海に落とそうとするかの如く吹き荒れ、少しずつ体を崖際に追いやる。
落ちまいと抵抗する彼女の体や足が少しずつ傷ついていき、最後は汗を背中にかきながら夜中に目を覚ます。
そして目を覚まし体をゆっくりと起こしてから、天井の隅の周りよりも暗い闇に怯えながらまた彼女は眠るのだった。
トイレという所は、様々な悪意が渦巻いている。人が不浄のモノを産み落とす場所だからこそかもしれないが、それを除いてもトイレという場所は居心地いい場所では無い。
薄暗く人目につかないトイレでは、犯罪行為がたやすく行われる。強盗に暴行、違法薬物の取引に加え殺人まで容易に起こりうる。人が人の道を踏み外すにはうって付けの場所なのだ。
そして今日もまた、ある学校のトイレでは一人の少女がいじめという犯罪に巻き込まれていた。
「そぉーれ!!」
手加減も慈悲も無い容赦ない蹴りが、少女の柔らかな腹部にめり込む。
驚くほど簡単に少女は嘔吐した。胃の内容物が勢いよく逆流し、喉が焼ける感覚を残しながら。
吐瀉物は地面に広がり、ただでさえ汚いタイルの床をさらに汚した。
「汚ったなー! 腹一回蹴ったくらいで吐くとかありえなくない!?」
「だよねー、いい加減慣れろって感じ」
二人はけらけらと声を出して笑っている、その顔は興奮しているのか少し赤みを帯びており、その顔は幸福の色が見て取れる。
対象的に地面にうずくまる少女は、まさしく不幸そのものだった。身につけている制服はあちこち汚れており、衣服から覗く手足には青あざが模様のように浮かんでいる。少女は小さく咳き込みながら、抗う事のできない流れに身を任せていた。
「ほんっと、こいついじめるのって楽しいよね」
「ねー、抵抗しないしチクらないし」
「まさにいじめられっ子の鏡だよね」
二人は嘲笑いながら少女の腹にお互い一回ずつ蹴りを入れてから、トイレから出て行った。少女はゆっくりと体を起こすと、無言のまま床を掃除しトイレから出る。人がいなくなった校舎の廊下は静まり返り、少女の靴の擦れる音しかしない。
少女は夕日に照らされた廊下を一人歩く、いつもの場所で自分を慰めるために。
学校の屋上に繋がる錆びて重い扉を開ける、そこには誰もいないいつもの屋上があった。
初夏の風が心地よく吹き抜け、少女の髪を誰よりも優しく撫でる。錆びた鉄柵に手をついて大きく深呼吸をすると体から魂が抜けていくような感覚が心地よい。
ここは少女にとって唯一の安息の地だった。ひとつだけ不満はあるが。
「いい風だなぁ、おい」
突然の呼びかけに少女は激しく驚き、体を一瞬跳ねさせてしまった。
屋上には人がいる事などまずありえない、だからこそ少女はここが好きだったのだ。
恐る恐る振り向くと、後ろにはどこから現れたのか同じ歳くらいの少年が立っている。
それはなんとも言えない不思議な雰囲気の少年だった。
口元に薄く笑みを浮かべにこにこ笑っている、少女の通う学校の制服を着てはいるが不思議な事に少女は一度でもこの少年を校内で見たことがない。
少女の通う高校は都内でも有数のマンモス校だが、一度でも見れば忘れない、そんな雰囲気の少年だ。
「いい場所知ってんじゃん。
人もいないし静かだし、それにあれもよく見える」
安息の地に現れた来訪者に戸惑いながらも、少女は少年が指差した方に視線を向けた。
そこには少女がこの場所に抱く不満の理由があった。
空から伸びる巨大な腕、『神の手』と呼ばれるあれが空から伸びてきたのは三年前の事だ。
巨大な腕の高さは高層ビル100階分に相当し、太さは十キロにも及ぶ、腕は空の歪みような空間の切れ目から伸びており、腕と空の切れ目あたりは航空機の精密機器を狂わす電波が放たれ、常に厚い雲がかかっているため調査は進んでいない。
だが地面に付いている手のひらの部分は調査が可能だったため、日本が各国と合同で調査した結果驚くべき事実が判明した。
生体反応が確認されたのだ、つまりあの腕は「巨大な生物の腕」という事だ。様々な憶測を呼び、途方も無い議論を繰り返したが一向に答えは出なかった、そして下された結論は、
「触らぬ神に祟りなし」
だった。何か分からないモノに無理に触るよりも、害が無ければ放置でいいというのが日本を含めた各国の見解だった。
最初は恐れて人が寄り付かなかったが今では、観光名所にすらなりつつある。
少女は『神の手』が嫌いでしかたなかった。理由は上手く言えないが見るたびに胸の奥に嫌な感じが湧き上がる。家の中でゴキブリを見たような、道でひき潰されたカエルを見たような気持ち悪さを感じる。
「あれ、気に入らねぇよな」
少年は唐突に喋りだす。少女は黙って話を聞く、妙な気分ではあるが少年の話を聞いてみたくなった。
「巷じゃ神の手とか呼ばれてるみたいだがなぁ、あれが一体誰を救った? 何を助けた?
中途半端に不幸な奴ってのは誰かが救ってくれるって勘違いしてやがる、人は自分で自分を救わなきゃいけないってのになぁ」
「……誰かに救ってもらいたいって思う事はいけない事なの?」
初めて少女が声を出した。スカートの裾を握りながらようやく声を絞り出す、消え入るような声で喋った少女を見て少年は目を輝かせる。
「ああ、駄目だ。最低だな、不幸を楽しめよ絶望を味わえよ、自分がとんでもなく幸運だって事に気づかなきゃいけねぇな、なぁ? 小野坂亜子ちゃん?」
「何で......私の名前を?」
その言葉にくっくっと喉を鳴らすと少年は今までで最高の笑顔を見せる。およそ人が作る事の出来る笑顔で一番の笑顔だった。
「そりゃあ、知ってるよ。俺はね気に入った女の子の事はしっかり調べるからねぇ。君ポイント高いよ?」
「ポイント……? 」
「そう、俺はね不幸な女の子が大好きなんだよ。不幸萌えってやつ、顔やらスタイルやらも大事だけど何より不幸ってステータスは捨てがたいよ。
今にも壊れそうな薄幸の少女なんて好きにならないはずがないし、絶望をたっぷり含んだ表情はもはや芸術と言ってもいいね」
亜子は自分が震えているのが分かった。震える肩を押さえても一向に震えは止まらない、この少年が恐ろしいのでは無くもっと別の理由で体は震えた。
「私は不幸なんかじゃない……」
その言葉は、少年の興奮を冷ますには充分すぎるほどつまらないものだった。少年はいかにもつまらないという顔をしてため息をつくとまた喋り出した。
「あっそう、自分は不幸じゃないと言いたいわけか。なるほどなるほど、自分は不幸じゃ無ければ絶望もしていないとそう言いたいわけだ」
少年は一気に亜子との距離を詰める。少年の病的なまでに整った顔が目の前に迫った事で亜子はたじろぐ、整った二重まぶたに白く美しい肌、鼻は高く口元に至っては年不相応な魅力が感じられて仕方ない。
「不幸じゃない? 本気? 理不尽な暴力を振るわれて、誰も助けてくれず、友人も無く、自分の意思なんてゴミ同然の価値しかない、こんな寂れた屋上でしか自分を慰める事しかできない君が不幸じゃないと? 笑わせるなよ馬鹿女、お前は気持ちいいほど不幸だよ」
耐えられなかった。耐えられるはずがなかった、聞きたくなかった、少年の言葉は悲しいほどに的確に亜子の心を刺し貫いた。
少年の横を駆け抜け、嫌に冷たいドアに手をかけたとほとんど同時に少年は言った。
「家に帰るんだ? 物好きだね、亜子ちゃんは」
嘲るような、憐れむような、楽しむような声には振り向かずに扉を開けて亜子は階段を駆け下りる。
校舎を出た頃にはすでに辺りは暗くなっており、生温い風が首を撫でていた。
屋上から亜子を眺めている少年は、ここ最近で一番いい気分だった。亜子の目の奥にかすかに浮かぶ絶望、汚れた体、壊れた心、その全てが少年の性癖を刺激する。
「全く……萌えさせてくれるね、これだから不幸っ娘はたまらない」
少年は声を出さずに笑いながら、屋上から姿を消した。
小野坂亜子は至って普通の少女だ。容姿はよく言って中の上、運動や学業も突出したものはなく素行等にも問題は無かった。
だがそれは唐突に始まった。クラスメイトによるいじめである、実際に手を出してくるのは二〜三人だったが他の生徒も見て見ぬ振りを徹底しているため、実際にはクラス全員からいじめられていると言っていい。
何かしたわけではない、ただ思い当たる節があるとすれば彼女は一人でいる事が多かった事くらいだろうか。
高校二年になって始まったいじめは、今日まで続いている。だが亜子の生活は至って変わらない、毎日同じように学校に行き勉学に励みいじめを受けてから帰ってくる、ただそれだけの事。
何気ない日常の中に『いじめ』という項目が追加されただけだった。
街灯が寂しく照らす夜道を歩いて帰宅する。見慣れた家の前に立つ、亜子はここで生まれここで育った、どんな場所よりも自分が自分でいられる温かな場所……それが家の筈だ。
だが亜子にとって自宅も学校も何一つ代わりはしない。
靴を脱ぎ、きちんと揃えてからリビングに向かって歩を進めると少し古くなっている廊下がぎいぎいと鳴く。少し曇ってしまっている窓からは月明かりが、壁についたシミを気味が悪く照らしていた。
「お帰り亜子。 今日は少し遅かったね」
「ただいま、ちょっと用事があったから」
リビングには父がいた。ソファーに腰掛けて、いつものように新聞を読んでいたようで、亜子が帰ってきたのが分かり新聞をたたみ始めていた。
母が早くに病気で他界してから、男手ひとつで亜子を育ててきた父の評判はすこぶる良かった。いつも笑顔で娘に接し、休みの日に幼い亜子の手を引いて出かけていく様は見る者の涙を誘った。
父と二人きりの夕飯、これといった会話は無い。箸が食器に当たる音と二人の咀嚼音が少し聞こえる、食事が終わり亜子はいつものように食器を洗いだす。父は風呂に入るために立ち上がると、亜子に後ろからいつものように声をかけた。
「亜子、片付けが終わったら私の部屋に来なさい」
「……はい」
片付けを終え、亜子はリビングの電気を消すと階段をゆっくりと上がる。以前は一段ごとに足が重くなっていたが今はもう何も感じない。いつもの事だ、仕方ない事だ、そう自分に言い聞かせながら階段を上がったのは最初の頃だけだった。
階段を上りながら、少しだけ考える。自分の置かれている状況を、考えても考えてもこれといって何も浮かばない。それもそのはずだ、亜子にとってはこれがが『普通』であり『日常』なのだから、人が息をすることに疑問を抱かないように。
だから涙も流さない、絶望もしない、何故なら彼女は不幸では無いのだから。
亜子は今夜もまた、父の部屋に飲み込まれていく。