雨止マズ
名前の通りに、桜が似合う女だった。淡く儚げに笑う様は、桜の花弁の如く仄明《ほのあか》るさを秘めていた。
その笑顔と共に、ずっと歩いていけると思っていた。
道祖神を祀ってある小さな社で男は目を覚ました。夢の残滓を払うかの様にかぶりを振ると、腰に差していた刀を確認し、寝ている間に腕組みをしたままで強張った腕を伸ばした。
小雨が靄の如く煙るのを見つめ、この位ならばよかろうと男は歩みを進めた。
【野火】が出るとの噂を聞きつけ、男が寒村に着いたのは夕刻前であった。幾つかの家がまばらに建つ集落の中を比較的大きな家へと歩みを進める。詳しい話を聞くと、その情報を頼りに男は更に裏山にあるという寺へと向かった。
明かに人の手がここ最近入っていないだろう寺。まだ無事だった薪を見付け火鉢に火を起こすと、懐から干し肉を出してかじり始めた。
半刻ばかりも過ぎたであろうか。そろそろ薪を追加しようかと男が立ち上がりかけた時にそれは起こった。堂内の天井から青白い火の玉がゆらりと現れ、惑わす様にくるくると回りながら男に近付いてくる。男は、唾で眉毛を濡らすと、目を閉じ突如背後へと抜き打ちで斬りかかった。
バタンドスン、ひぃという音が連続で立ち、女が腰をさすりながら現れた。
「ちょっと脅かしただけやないか。旦那さんも怖いお人やわ」
男はそれを聞き流すと、女に問い掛ける。
「女、貴様が使えるのは野火か」
「いや、特に名前も無いただの狐火やけど」
女が呆気に取られた様に応えるのを聞くと、男は刀を引き、またどっかと座りこんだ。無視された体の女はそれに気付くと、さっきまで刀を向けられていた事も忘れて、膝から男の正面にいざりよる。
「反応薄いやないか旦那はん! 妖怪でっせ、妖狐でっせ!」
そんな物珍しくも無いと応えた男に再び呆気に取られる女。一拍置いて、男がまた問い掛ける。
「して、ここは貴様の縄張りか」
「多分……」
と、女は指を頬に当てて思案する。
「あ、でもうちも流れ者やけん。先週より前は知らんよ?」
村人から聞いたのは、先月から怪異が出るとの話だった。慌てて男が刀に手をやるのと、辺りが突然暗くなるのは同時だった。
先程とは比べ物にならない程の明るさの強い青い焔が辺りを照らす。女が息を飲むのを耳で聞きながら男は気配を探る。近寄って来た焔に身体が炙られる寸前、男は息をふっと吐くと刀を一閃。切り裂かれた焔の先には、豪華な着物を来た女が、尻尾をゆらりと揺らしながら立っていた。
「あら、中々に剛の者。名前位は聞いておこうかしら」
「妖怪に、特に狐に名乗る名など無い」
そう言って一気に斬りかかった男を、女は――二本の尻尾の狐は扇であしらう。
「ちょー、うちは関係無いから、退散させて頂きますー」
こっそりと、堂を抜けようとした女を焔が塞ぐ。
「私の縄張りを荒らしたのを見過ごせません事よ」
ひぃと叫び声を上げる女。その間も激しく斬りつける男を扇であしらい続けるアヤカシ。男が一瞬刀を迷わせた瞬間に扇を打ち付け、指でトンと突いた。
冗談の様に、男が飛んで壁に叩き付けられる。
「ひぃっ! ダンナさん大丈夫かいな」
「あなたは自分の心配をした方がよろしくてよ」
青い焔がまとわりつく様に近付くのを慌ててはたいて、男の方へ逃げる。
「ダンナ~! どうにかしたってーやー」
「……もうすぐヤツに代わる……離れろ……」
え、と言いつつ女は得体のしれない何かを感じて跳びすさる。余裕の体で見ていた二本尻尾の狐がとどめを刺そうと近付いた時、それは起こった。
――グルルルと、獣の喉を鳴らす声。
そして二本尻尾の狐の扇ごと、腕が地面にドサリと落ちる。絹を裂く様な悲鳴の後、女が壁に張り付いて気配を消していないふりをする中、続いたのは惨劇の音だった。
**********
「だ……ダンナ様……?」
むぅと、唸りながら起きた男が見たのは、頭の上にある耳を伏せ、尻尾も股に挟んだ女だった。恐ろしく怯えている所を見ると、アレを目の当たりにしたのだろう。逃げればよかったものを、という呟きに、腰が抜けて無理だったと答える女。
「なんやのん……アレ。あんた人間ちゃうの……?」
「人間だが……訳ありでな」
どうやら【また】アレが片付けてしまったらしい。情報も聞けず、殺戮の塊となるアレには困った物だが、自分の鍛練不足で勝てなかったのも事実。
「……ともあれ、俺の探している狐では無かった様だ」
身体が動くのを確かめると、豪華な着物の中で断ち切られて絶命している大きな狐を一瞥した後、そのまま外へ出る男。
「ちょーダンナさん、いやダンナ様!」
そのままどかどかと歩いていこうとする男を女が止める。無視して歩みを進める男の目の前に無理矢理身体をねじ込み、女が続ける。
「ともかく、命を助けてもらった身の上やし、何か手伝いまっせ。一応善狐やし」
「いらん」
「そう言わんといてー」
そのまま女を押し退け行こうとする背中に女が叫ぶ。
「夢見草や! 尾裂き狐の夢見草や! 勝手にでも付いてくでー」
はっとした様に男が一瞬足を止め、女に振り向く。
「ちなみにー、夢見草とはー、桜の別名でー」
男は寂しげに口元だけで笑うと、知っていると呟きゆっくりと歩き始めた。驚きながらもニヤニヤとしながらついていく夢見草。
「なんや、笑うといい男やないー。何々、うちに惚れた? ええんやでー惚れても」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ狐娘を供に、男は次の旅路へと足を早めるのであった。




