第14話 帰宅
南田は僅かに浮かれて帰宅した。マンションに奥村が待っているだろうからだ。
仕事が忙しく、さすがに夕食の下準備まではして来れなかったが、一緒に作ったらいい。律儀な奥村さんのことだ。もしかしたら手料理を作って待っていてくれるかもしれない。
玄関の前で深呼吸すると、にやけそうになる顔を無表情に変えて、そっと玄関を開けた。そしてまたそっと閉めた。目に入った現実を受け入れたくなかった。
もう一度、開けてみる。それでも、当たり前だが、玄関に奥村の靴はなかった。
鍵を渡すだけではダメだったのか…。自分の詰めの甘さに肩を落とした。今一度、鍵を閉めると近くのコンビニに向かった。早めに帰ってきたが、今日は何もする気が起きなかった。
今日は何もしないでおこう。そう決め込んだ南田は意味もなくネットで気になっていることを調べる。
『政策 ハニートラップ』
ハニートラップはどれも反対デモに参加していた男性に向けてばかりのようだ。そのことに少しだけ安心すると、また別のことを調べてみる。
『年下の女の子とキス』
『緊張させないキスの方法』
この2つは何度調べても納得がいく答えは見つけられなかった。
気づくとそのままリビングで寝ていたらしかった。早朝に目が覚めるとシャワーだけ浴びて急いで出社した。夕方から残業をすると奥村に気を遣わせることに気づいて南田は朝早くに出社することにしたのだ。
忙しい部署のため連日のように遅くなる人が多く、自然と朝はみんな遅めの出勤だ。必然的に定時前はちらほらとしか出社している人はいない。
それなのに奥村も早い時間に出社したらしく、席に来て挨拶をされた。
「おはようございます。」
「…おはよう。何故この時間に出社したのか理解に苦しむ。」
いぶかしげに奥村を見て南田はつい不満を口にした。
「だいたい昨日は何故…。」
南田の言葉に奥村はポケットから小さな封筒を取り出した。
「これ私の「落し物」ではありませんので。」
封筒を一瞥すると南田は顔を背けてパソコンに向かった。
突き返されて素直に受け取るなど、僕のプライドが許すと思っているのか。
「必要ないなら廃棄すればいい。」
「困ります!」
奥村の言葉に耳を貸さずに南田は促す。
「じじいは朝が早い。飯野のじいさんは出社してるだろう。そうと決まれば即座に行動へ移せ。」
奥村は準備してヘルプデスクへ行くようだ。しかし視界の端に自分のデスクに置かれた封筒が映る。
分からず屋め。
南田はそれをつかんだ。そして…捨てた。ゴミ箱へ。
「な…。」
驚いた様子の奥村がゴミ箱から封筒を拾って、またしまったようだった。
ヘルプデスクに行こうとする奥村に「ちょっと待て」との声をかけ、南田はパソコンの横に立てかけてある何冊かの本の中から1冊を選んで渡した。
「これ…?」
その本は『わかりやすい機械設計の基礎』
「昔、僕が使っていた物だ。現在の僕には不必要だ。」
本当は自分が大学の時に使っていた物と同じ物を奥村のために買って来たのだが、そんな押し付けがましいことを言う気になれなかった。
定時になると奥村は自分が頼まれた仕事を終えることができていた。ずいぶんと仕事をこなせるようになっていて感心する思いだった。
すると奥村はこちらを思いやる言葉をかけてきた。
「南田さんの仕事で何かやれることはありませんか?」
やはり優し過ぎるのだ。この子は。
南田の答えは明確だった。
「君は帰れ。」
そのためのペア変更だ。
それなのに奥村は引き下がらない。
「私たちはペアなんですよね?だから南田さんは私を指導してくださるわけで。そしたら私が頼まれた仕事を早く終えた時は南田さんの仕事をお手伝いするのが…。」
忘れていた。この子は律儀で真面目で、そして強情だ。
南田は奥村が最後まで言う前にパソコンの方を向くと考えた結果、心を決めた。
パサっ。紙を数枚、奥村を見ずに渡した。
「そのデータを開いてみてくれ。」
「…はい!早急に。」
嬉しそうな奥村の声に心が温かくなる。彼女が愛おしくて仕方なかった。
「この辺で明日にしよう」と終えたのは7時くらいだった。
自然に一緒に会社を出ると、じゃと会社の前で別れた。
この流れでマンションへ連れ帰るのが自然な流れだが、今日は諦めよう。なんの準備もして来れなかった。
残念な気持ちを見ないようにして、南田はマンションへ足を向かわせた。
1人帰る帰り道。公然とキス税を認証する人を見かけると、ついため息が出た。
本当は別れ際に認証をしてしまいたい衝動に駆られたが、それをしてしまえば、離れ難くなるのは目に見えていた。
「剛志!!お前は騙されてる!」
怒鳴り声にそちらを見ると男女のカップルらしい人と、もう一人の男の人がいた。怒鳴り声はカップルの男に向かっていた。何か怒っているようだ。剛志と呼ばれた男は女性を庇うように立ち、反論する。
「そんなことない!俺だけに彼女ができたからって、ひがみだろ!」
「馬鹿を見るのはお前だぞ!そんな女、ハニートラップに決まってる!俺たち反対デモしてたからだ!」
そう聞こえて見てみると確かに不男に美女という不釣り合いに見えた。この男もハニートラップなのだろうか。…僕には関係ないことだ。
南田はまた歩を進めた。
今日もコンビニにしてしまおう。それで部屋を片付けて明日にでも奥村さんを招待したらいい。
そう気持ちを奮起させてコンビニに立ち寄った。
パスタを見かけると美味しそうに食べていた幸せそうな奥村を思い出す。つい手に取って、カゴに入れた。体調管理も考えてサラダもカゴに入れた。
ふと、視線に気づいて目をやると幻だろうか…。奥村が目の前にいた。
「な…。どうして君が…。」
こんなところにいるんだと言いたげな顔を向けると、頭は高速に問題解決に急ぐ。
何故だ。どうしてここにいる。
奥村もカゴにパスタとサラダにデザートも入れていた。
ここのコンビニがどうしても良かったとかか…。いや。ごく一般的な店だ。確か奥村さんのアパート近くにもある。
レジにカゴを置いた奥村に、南田も自分のカゴを置くと「一緒に」と会計をする。まだ疑問を解決できない南田は「袋は別で」と声をかけた。
コンビニを出ると、理解不能なまま南田はまた同じ言葉を口にする。
「じゃ。」
奥村は心なしか寂しそうに自分のアパートの方へ足を向けた。その姿に我慢できなくなって声をかけた。
「おい。」
マンションの惨事を思い浮かべ、ため息混じりに「来いよ」と言った。
それほどまでに、この子と離れ難いとは…。
玄関に入ると南田は、はぁーっと盛大なため息をついた。
あの惨事を見せるのか…どうするんだ。
そう困っているはずなのに、やはり奥村を見ると自分の気持ちに抗えなくなる。しかも自分のマンションに今は二人っきりだ。
その事実にドクンと胸が波打つと振り返り奥村に近づいた。後退りしたって逃さない。
顔をのぞきこんで目を合わせると急激に愛おしさが増す。この幸せなひと時を味わうように、ゆっくりと顔を近づけた。
すぐ近くまで迫っても目を閉じない奥村につい息が漏れる。
「目は閉じないのか?」
それでも固まっている奥村がたまらなく可愛かった。
「まぁいい。」
触れてしまいそうなほど近くでつぶやく。やはりこの距離での会話がたまらない。…もう変態だろうと構わない。
そっと柔らかくくちびるを触れさせると、名残惜しいがすぐに離した。
ピッ…ピー。認証しました。
奥村は音とともに崩れるようにその場に座り込んでしまった。つかもうと差し出した南田の手が空を舞う。
「大丈夫か?しかし…しばらくここにいてくれ。」
そう言うと奥村を置いてリビングの方へ向かった。
リビングのドアを閉めると顔が熱くなるのを感じた。何度目だろうと重ねただけで、へたり込んでしまう彼女の純粋さにこちらが照れてしまう。
しばらく幸せな気持ちに浸ったあと、とにかく嬉しい気持ちは置いておいて片付けなければと行動を開始した。