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大蝉(おおせみ)

作者: 屯田水鏡

 

長い梅雨が明けて、雲一つなく青空の広がった夏のある朝、オフィス街の真ん中を貫く大通りに沿って立ち並ぶ木々の中でも、取り分け大きく青々と緑の茂ったけやきの幹に、何処からともなく飛来した大きな蝉がジジッと鳴いてぴたりと張り付いた。林立するビルの屋上から顔を出した丸い手鏡のような太陽がぎらぎらと輝きだすと、蝉時雨が、額に深い皺を寄せて俯き加減に並木の足元を歩く老若男女の群れに、もうすぐうだるような暑さが確実に訪れるがその覚悟は出来ているか、と警告するかの様に頭上から降り注いだ。群れ歩く人々の間は汗と化粧の匂いが混じり合って重く淀んでいた。大蝉はその身体を揺すって声帯を小刻みに震わせ、声を張り上げて唸っていた。聞き様によっては「ワシ、ワシ、ワシ」と執拗に自分を主張しているかのようなその声は、際立って大きく、周囲のビルの壁に乱反射して響き渡った。蝉は一息つくと複眼で自分自身の姿を眺めてはにたりと含み笑いをして、青空の中に染み込んでいく己の声の美しさに恍惚と聞き惚れていた。人に例えれば、金曜日の夜、夕食前のひと時、湯船の中で流行歌を大声で唸っている中年サラリーマンの様に、この上もなく心地良い満足感に浸っていた。今日も蝉は朝早く目覚めるとすぐに複眼で我が身の壮麗さをうっとりと眺めては歌う様に鳴き、その次に遠くまで見渡せる単眼で下界の様子を見渡しながら感慨深く自問自答していた。どうだ、この俺の良く透る声は、艶と言い、抑揚と言い、リズムと言い、何とも形容し難い美しさではないか。この声は見渡す限り、いや、水平線の遥か向うまで響き渡っているに違いない。例え他の蝉どもの声を全て掻き集めて束にしたところで、何ものをも圧倒する俺様の麗しい声帯の響きには遠く及ぶものではなかろう。それに、この体つきときたらどうだ、大きくて力強く、張りがあって、得も言われぬ気品と神々しいほどの壮麗ささえ感じるではないか。それについてはこの世の中に異存のある奴はまさかおるまい。創造主、或いは神と呼ばれる存在がもしもこの世にいるとしたら、この俺様を創造したことで、そ奴は心の底から満足しているに違いない。それにしても、この場所は見晴らしが良く、日当たりは申し分ない。樹間を渡る風に吹かれて欅の葉が作る光のシルエットもリズミカルで実に美しい。絶妙に演出された何と心地良い環境なのだ。この場所を棲家と定めた俺様の判断に微塵の狂いもなかった。何事にも秀でた俺様の才能は棲家選びについても一通りではないという証拠だ。少しばかり不満なのは欅の樹液の味が今ひとつなのだが、それについては、致し方の無いことなのだ。なぜなら、何事も完ぺきというものは俺様の存在以外にはおいそれとはあるまいし、この世の中、例え少しばかり気に入らないところがあったとしても、無下に腹を立てることもあるまい。忍耐というものを少しは経験するのもまた良かろう。なあに、この欅という木に住み飽きて、どうにも我慢がならなくなった折に改めて棲家を考えるのも良いさ。それにしてもだ、今日もまた朝から気持ち良く晴れ上がっている。余りにも遠くまで見え過ぎて少しばかり感傷的になってしまうわい。ビルの谷間から青く霞んで見えるあの小高い丘は俺様の古里だ。緑に包まれて殊の外眩しく輝いて見える。不思議なものだ、生まれ故郷というものは。遠く離れて眺めてみると何と美しいのだ、胸が震えるほど懐かしい。俺様はあの丘に鎮座する神社の境内にあるひのきの足元で生まれた。鎮守の森に囲まれた暗く陰鬱な境内は何とも気の滅入る所だった。こんなところで一生、命の尽きるまで棲まなければならないのかと考えたら、へどが出るほどうんざりしたものだった。感情という心の現象は何とも不可思議で理屈の分からない代物だ。俺は親の顔を知らない。両親は俺を卵のまま小さな枯れ木に生み捨ててさっさと何処かに飛び去ったのだ。卵の殻を破って這いだした俺たちは、先を争って枯れ木を伝って地上に降り立つと急いで土の中に潜り込んだ。ぐずぐずしていたら昆虫や鳥どもの餌になってしまうからだ。生き延びるための必死の戦いが生れた瞬間から始まっていて、とても祝福された誕生なんて言うものではないのさ。地下に潜って、大木の根っ子に到達するまでに多くの兄弟が虫や鳥に食われた。俺は何とか生き延びてせっせと地下トンネルを掘り進み、やっとの思いで木の根っこに辿り着くと貪るように樹液をたらふく吸い取ってやっと命を繋いだって訳だ。樹液の供給が断たれたら、その瞬間に俺たちは干からびて死んでしまう。俺は運が良かったのだ、いやそうではない、生き延びる意志と技に長けていたのだ。あるいは、運命が俺様を選んだのだ、そう、俺は選ばれた蝉なのだ。俺は地中に居心地の良いトンネルを作り、その中で幼虫の時代という暗くて長い時を過ごしたのだが、今思い出しても気が遠くなりそうなほど長い歳月であった。なぜそんな苦労をするのかって、決まっているじゃないか、それが蝉の習性ってやつだからだ。頃合いを見計らって地上に出て来た時、境内の木々がいつの間にか大きく成長しているのを見て驚いたものさ。考えてみるとそれもそのはず、なにしろ俺様が地上に顔を出すのは五年ぶり、或いはそれ以上の時間が経過した後なのだからな。早速、手ごろな低木を見つけて登った俺はそこで脱皮して新しい自分、いや真の俺自身に生まれ変わったのだ。土の中でしか生きられない虫けらから、空という新しい空間に生きる蝉という崇高な創造物に大変身を遂げたのだ。そうだ、今まで背負ってきた全てのしがらみを解き放って、自由というものをこの手に掴んだのだ。暗い神社の境内から光る大空へ向けて、俺は雄叫びを上げて飛び立ったのだ。初めて生まれ故郷を飛びだした俺の胸は高鳴り、この半透明の羽は眼にもとまらぬ速さで音を響かせて空気を切り裂き、精神を高揚させたこの身は感動で震えながら大空を駆け抜けた。飛翔という言葉がぴったりの雄姿だった。俺はまず、郊外のポプラ並木に居を構えた。その付近は新興の住宅街で国道から少しばかり脇道に入った静かなところだった。一戸建ての家が立ち並んでいたが、所々歯が抜け落ちたように空き地があって、雑草が茂っていた。そのそばを年寄りと子供が手をつないで歩いていた。人通りが少なくて活気が感じられず、何もかもが物足りなかった。そこで俺はまた飛び立ったのだ。こうして何度か棲家を変えた。この場所に辿り着く前は、ほら、向こうに見えるあのビルのそばの桜の木に張り付いていた。花はとうの昔に散ってしまって、青葉が茂っていた。桜の樹液はなかなかの美味であったが、気に入らないのは、名も知らぬ虫どもが何処からかうじゃうじゃと集まって来て、詰まらぬ縄張り争いを始めて騒がしくてかなわなかったことだ。ついこの間も、金紊かなぶんが枝の先端で縄張り争いをして取っ組み合いの喧嘩をしていた、実に浅ましい奴らだ。そうかと思うと足元からカマキリのやつが俺様に戦いを挑んで近づいて来やがった。鎌を振り上げて凄む奴めの顔に小便をひっかけてやったらすごすごと引き上げて行きおった。こんな落ち着きのない場所で過ごした日にゃあ腰を据えてじっくり鳴くこともできやしない。それで俺様は又新しい居場所を求めて飛びだしたって訳さ。飛び立つ時に張り巡らされた蜘蛛の網を蹴散らして来た。蜘蛛の奴め、俺のことを蝶や蛾と勘違いして糸を伝ってやって来たが、網を蹴散らしたのがこの俺様だと知って慌てて逃げて行きおったわい。そう言う訳で桜の木におさらばして、この欅の木まで飛んで来たって訳だ。欅の樹液は桜に比べると少々不味い。都会で植栽されている木々はどういう訳か欅の木が多い。俺は都会というものをこの目で見たかったから、やっと念願が叶ったという訳なのだが、何か目新しいもの、血沸き肉躍る感動があるのかと思いきや、何もない、欅の木から眺める下界の様子は何とも表現のしようがないほど詰らぬ。朝になると、人間と言う動物どもが、巣から這い出して来る蟻のように、バスとか地下鉄とかいう乗物から降り立って、うじゃうじゃとこの大通りを歩いて行く。やがて、それぞれのビルに吸い込まれるように入って行ったかと思ったら、夕方になると、そのビルの中からまたぞろ這い出して来る。気が抜けたようによたよたと歩く年寄りや朝の顔とは打って変わってにこにこと楽しそうに冗談を飛ばしながら笑って歩く若い奴らで大通りは埋め尽くされる。そしてまた、翌朝には、しかめっ面で歩く人間どもの集団でごった返す。こいつら、何と云う薄気味の悪い奴らなのだ。そら見てみろ、今朝も暗い顔をして足元を通り過ぎて行く。こいつ等は、一体、何が不満であんな苦しそうな顔をしているのだ。もう少し楽しそうに歩いたらどうだ。生活の糧を得るために出かけて来ているのだろう、それなのに、何であんなに歪んだ顔をしているのだ。自分達が今生きて元気でいられることを有り難いと思って感謝しても良い筈ではないか。その上、無料で、俺様達の心地よい声のシンフォニーを聞いているというのに。勿論その主旋律はこの俺様が奏でているのだが、何処に不満があるというのだ。そろいもそろってお前らみんな音痴か?中にはせっかく自分の勤務するビルの前まで来ながら、暫く立ち止まり、吐き気がするとか、頭が痛いとか勝手なことを言いおって引き返す奴さえいる。若いものときたら、からきし意気地がない、情けないと言ったらありゃあしない。それに、気に入らないのは、あの小娘だ。胸のはだけた薄っぺらなピンクのシャツと、パンツが見えるほど短いスカートをはいて若い男と人目も憚らずべたべたとくっ付きおって、恥ずかしいとは思わないのか?みっともないと言うか、わきまえがないと言うか、髪の毛ときたら雀の巣のような赤茶色に染めて、この上なく不潔極まりない。どういう料簡なのだ。雀の巣は、巣として、家族団欒の場としてそれなりの役割が有ろうというものだが、それを頭上に掲げるのは如何なものか。虱の発生源になりそうで、見るからに痒くなるわい。苦々しく思っていたら、先日は、「おごってくれるなら付き合うわ」なんて言って中年サラリーマンと手を組んで行きおった。まあ良い、俺様はとことん鳴いて人間どもを楽しませてやろう。おや、今日は、この欅の下に、くたびれた男が来ているじゃないか。こいつめ、この俺様を見上げて煙草をうまそうに吸っていやがる。なんだ、こいつ、情けない顔をして、おまけに溜息までついて、何をぶつぶつ言っている。「蝉はいいなあ、苦労が無く、ただ木にへばり付いて鳴いていれば良いのだからな」だと、聞き捨てならないことを言いおって、お前なあ、俺が苦労も無く毎日歌を唸ってお気楽に過ごしているだけだと思っているのか、お前こそお気楽な奴だ。俺様は俺様で今まで色んな苦労をしてきたのだ。俺様はお前の出勤する姿を毎日見ているのだぞ。お前って奴は、元気も覇気も無く、朝、よたよたと出勤して、夕方、またよたよたと帰る、そんな生活が楽しいのか、どうだ、はっきり言ってみろ。それに、お前、昼間は職場で、年下の上司からいつもがみがみ小言を言われているじゃあないか、たまには、言い返したらどうだ、ここから、窓際の机に腰掛けて俯いているお前の丸まった背中が良く見えるぞ、情けない、お前にはプライドってものが無いのか、しっかりせんか。おい、待て、まだ、言いたいことが沢山あるのだ、人の話は、いや、蝉の話は、最後まで聞かんか。ああ、行っちまいやがった。今度は誰だ、ああ、お前か、何だと、今日も職場の前で引き返して来ただと、またか。「この頃の若者ときたら、からきしだらしない」何てことを大人から言われているのだぞ。おい、お前、泣きそうな顔で、口をあんぐり開けてこの俺様を見上げるな。小便をひっかけてやるぞ、この意気地なしめ。仕事に出て来ても、不安で頭痛を覚え、吐き気に苦しめられているやつは、この世にごまんといるのだ。出勤途上のサラリーマンの顔を見てみろ、楽しそうな顔をしている奴なんて、数えるほどしかいないじゃないか、何だか良く分からんが、みんな辛そうな顔をしている。誰もが、愛する或いは怖い嫁さんのため、そして、可愛い我が子のため、必死に踏ん張って働いている。サラリーマンの半分は、毎朝、職場に近づくと頭痛と吐き気を覚えている。下を向くな、上を向け、顔を上げろ、俺様の勇士を眺め、美しい声を聞け。おい待て、待たんか、言いたいことはまだ終わっていないぞ。ああっ、あいつめ、とうとう、今日も頭痛がすると言って、帰っちまいやがった。この後、家に帰って、お袋に頼んで、会社に休暇の連絡を入れてもらうのだろうな。「すみません、ちょっと熱がありまして、多分、風邪だと思いますので今から病院に連れて行きます。皆さまには大変ご迷惑おかけいたしますが、どうかよろしくお願いいたします」なんてこと言うのだろうな、実に情けない奴だ、会社の連中は、ああ、またいつものずる休みか、と思っているのを知っているのかなあいつ。おや、小娘が来たぞ、相変わらず、雀の巣みたいな茶髪はどうにかならんのか、本来の艶のある黒髪はどうしたのだ。お前なあ、自分で自分の髪を傷めていることがまだ分からないのか、どうしようもない小娘だ、親の顔が見て見たいわい。何だと、この俺に何か言いたいことがあるのか?なに、「せみー」だと、何だ、蝉に、せみー、と呼びかけるなんざ言い度胸じゃないか。「何か用か」って返事してやろうか、だが返事しても、蝉の言葉は分からないだろうな、だからこの俺様は美しい歌声で答えてやるのだ。なに、「うるさい」だと、心にもないことを言うな、遠慮せずに俺様の声を心置きなく聞いて良いぞ。ああ、そうか、知っているぞ、お前、振られたんだってな。良いじゃあないか、若いうちに何事も経験することは、将来、きっとお前の役に立つっていうものだ。お前は、少し、いや、かなりけばいが、外見は、可愛い部類に入ることは認めてやろう、だから、その髪と、肌の露出度の高いその服を何とかしろ、分かったか、おい、待て、待たんか。そうか、昼休みが終わったのか、おや、今度は、電線に止まっている雀に、「すずめー」って呼びかけているな、そんなにストレスが溜まっているのか。失恋したばかりじゃあ仕方ないかな。まあ、心行くまで発散しろ。あれ、今度は、猫に「ねこー」って呼びかけていやがる。おい、良かったな、猫のやつ、振り向いて返事をしてたじゃあないか、但し、「にゃー」と言うだけだがな、でも、嬉しいじゃあないか、お前の言葉に耳を傾けてくれる奴がいるのだ、たとえそれが、猫でも良かったなあ。はて、俺様がこの欅の木にやって来てから随分になるが、日差しが少しばかり弱くなって、空の雲の様子が何だか変わったような気がする。ねじり鉢巻きをした親父のように、むくむくと空高く立ち上がっていた入道雲がいつの間にかどこかに行ってしまって、代わりにいわし雲が目立つようになった。夕日がやけに赤く目に沁みるようになって来たぜ、その上、夜がちょっとばかり冷え込んできやがった。足元を歩く奴らの着衣も、何だか地味で惨めったらしくなってきた。おや、くたびれた男じゃないか、どうしたのだ、ああそうか、今日は、お前にとって最後の仕事だったっけ、良かったじゃないか、お前は毎日つまらなそうな顔をして出勤していた。そればかりじゃない、時々泣きそうな顔をして、仕事をやめたいなんて、漏らしていたじゃあないか、そんなお前にとって、念願の、退職の日だろ、もっと、嬉しそうにしたらどうだ。そりゃあ、リストラっていうやつだから、お前の本意ではなかっただろうがな。それにしても、お前、最後まであの上司になめられっぱなしだったよなあ、どうしてあいつに一言文句を言わなかったのだ。いや、そんなことより、退職するのは嫌だとはっきり断ればよかったじゃないか、何だって言われるままに受忍したのだ、忍耐にも限度ってものがあるだろう、けつをまくっても良かったのじゃあないのか、お前ッたら、それが出来ないのだったなあ、いさかいを起こすことが、そんなに嫌なのか、お前にとってそれは屈辱でも敗北でもなく寛容ということか、自分を謙遜することでも卑下することでもないのか。分かった、それがお前の本性なら仕方がない、胸を張って退職することだな。これからどうするのだ?そんなことはこの俺が心配することでもないか。じゃあ元気でやれや。おや、何時もの小娘がやって来たぜ、おい、お前、あの娘と同じ職場だったのか、そりゃあ知らなかったぜ。長い間お疲れ様でしたなんて可愛い声で言われた上、花束まで貰って、おい、良かったじゃあないか、お前らしいと言えば、お前らしい身の引き方だな、これからどうするのって、小娘も俺様と同じことを聞いている、なかなか思いやりがあるじゃないか、雀の巣みたいな茶色い頭をもう少し清潔にしたら、いい娘だと認めてやるのだがな。おい、小娘、携帯で電話なんかして、え、職場にしているのか、なに、今から休みを取りますだって、おい、そのうだつの上がらない退職親父と飲みに行くのか、ああ、手を繋いで、まるで親娘だぜ、親父め、嬉しそうに鼻の下伸ばしやがって、悪いことするのじゃないぞ、おいおい、行っちまいやがった。おや、今度はいつもの若者が来たぜ、今日はどうしたのだ、ああっ、そうか、今から出勤ということか、午前中は休んだが、何とか午後から仕事に出て来たって訳か、そうか、お袋さんに言われて家を出て来たのだな。おい、俺を見るな、俺を見てもどうにもならんぞ、こんなところで道草食わずに、とっとと職場に行け。間違っても、どうしよう、行こうか行くまいかなんて考えるな、行け、行けば何とかなる。午前中休んだ理由をどう言い訳しようかとか、どんな顔で職場に入ろうかとか詰まらぬことは考えるな。言い訳は適当にやっておけ。下手な言い訳でも言わぬよりもましだって言うからな。嘘つきなんて言って誰も咎めたりするやつはいない。それなりに納得するものだ。考えてみると、転職するのも一つの選択肢かもしれないな。俺様は、ここから毎日見ているのだが、お前ッたら、職場に近づくに従って歩き方がぎこちなくなるのが手に取るようにわかる。お前の身体が、職場に拒否反応を起こしているのさ、きっと今の仕事に向いていないのだ。どうしたら良いかって、俺は蝉だぜ、そんな重要なことを蝉に聞くな、それに、正直言ってお前に分からないものが俺に分かる筈が無い、自分で考えるのだ。お前は若い、何度でもやり直しがきく、戦うのだ、戦って敗れても、お前には逃げ帰る場所があるじゃないか。お前の人生は、のんべんだらりと過ごすには、うんざりするほど長い。だがなあ、何かを成し遂げようとしたら、人生なんてあっという間だ。少年老い易くまた学成り難し、一瞬の光陰軽んずべからず、なんて言うぜ。ともかく、今日のところはとっとと職場に行け、みんなが歓迎しようが、迷惑だと思おうが、気にすることは何も無い、今日の仕事をさっさと片付けな。手際が良いとか悪いとか、そんなものは小さな違いだ、見方によって異なるのさ。それでも嫌になったらさっさと帰れば良い。世の中、何とかなるものだ。俺の言うことが理解できようができまいが、とにかく行きな。骨は拾ってやるよ。おお、行った、行った。だが、足取りは颯爽と言う訳には行かんな、世話の焼ける奴だ。おや、お前がなんでこんなところにいるのだ。お前は、あの親父をリストラして部長の所に報告に行っていたじゃあないか、そうそう、お前、課長だったっけ、やり手だと評判じゃないか。そのお前がこの欅の下に来るなんて、しかも、この俺を下から見上げて悲しそうにしているとは一体どうしたことだ、えっ、今、何と言った?お前もリストラされたのか、おや、お前は会社の経営を立て直すため、何人もの労働者の首を切った功労者じゃあないか、脅したりすかしたり、激怒されたり泣かれたり、大変だっただろう。それなのに、今度はお前が首を切られたって訳か、ふふふ、悪いが、つい、狡兎死して走狗烹らる、と言う諺を思い出してしまった。お前の上司も非情だね。世の中っていうのは何て面白いのだ。それで、誰もお前に同情する奴がいないのか、そりゃあ仕方ないことだがね、それにしても、お前も哀れだね。良いじゃないか、それで、他人の怒りや悲しみが理解できたのかい。そうか、成長したってことだな。良い勉強が出来たじゃないか。誰にも出来る経験じゃあないぞ。今の会社はすっぱり見限って新たな出発をするのだな、なあに、お前ほどの行動力があれば、新しい就職先もすぐに見つかろうってもんじゃないか。気を落とさずに、ガッツだぜ、じゃあな。それにしても、こんなに大声で唸っているのに俺様と合唱する蝉の数がめっきり減ったし、俺様の声の調子も何だか迫力に欠けるように思えて仕方がない。夜がめっきり涼しく、いや、寒くなって、手足に力が入らなくなったような気がするのは俺様の思い過ごしか?ひょっとすると、これは年の所為なのか、木の幹にしがみ付いている手足がどうした訳か痺れて感覚が無くなってきた。おや、どうしたのだ、自分の体が支え切れない、体が木から滑り落ちて行く。ああ、手足から力が抜け落ちていく、誰か、誰か止めてくれ。蝉の記憶は暫く途切れた。漸く気が付くと、蝉はアスファルトの地面に仰向けに転がっていた。一体、何があったというのだ、多くの蝉が木から次々と落ちて地面で腹を見せてもがいているではないか。おっと、あの小娘が来たぞ、欅の木を見上げて、俺を探しているのか?おい、小娘、そっちじゃないこっちだ、お前の足元に俺はいるぞ。下だ、下を見ろ。上に向かって、蝉―って呼んだってそこに俺様はいない、お前の足元だ。それにしても、小娘、そんな短いスカートを履いて、寒くないのか、ここから下半身が丸見えじゃあないか、親は何も言わないのか。おい、気を付けろ、お前の靴の踵、いま、流行りのピンヒールというものか、尖がった鋭い踵の先は、落ち葉を突き刺している。何と危険な靴なのだ。使い方を誤れば、恐ろしい凶器になるではないか、気を付けろ、道路の小さな穴に引っ掛かって転んで捻挫するなら、自業自得だからまだ良い、他人を傷つけないように用心しろ。おい、足元に気を付けろ、待て、こっちへ来るな、来るなと言っているだろうが。ぎゃー、なんてことをしてくれたのだ。俺様を踏みつけおって、体の真ん中に穴が開いたじゃないか、どうしてくれるのだ。蝉は仰向けになったまま羽を震わせてもがき続けた。「キャー、蝉を踏みつけちゃった、ああ、汚い、この靴、ついこの前、買ったばかりなのに」娘は悲鳴を上げると、靴の踵から蝉を引きはがして、バッグからティッシュを取り出して靴の踵を拭くと、辺りを見渡して蝉を道端の側溝に蹴り込んだ。「ああー」悲鳴を上げて側溝の中に転がり落ちた蝉は、雨水の流れの表面に浮かんで、じたばたと慌てもがきながら流された。激痛に耐えきれず助けを呼んだが誰も答えてはくれない。そのうち観念したのか、流されながら蝉は考えていた。これが運命なのかもしれぬ、ならば俺は泰然自若として流れに身を任せよう。この体は側溝の中を流れ、やがて、川に出て何れは大海原に出るであろう。そこで海の藻屑となるか、運が良ければ魚の餌となり、その魚が夕餉の食卓に上って食われるのかも知れない。海の藻屑となるも良し、魚の餌となり、人の血肉となるもまた良し、とにかく何かになろうがなるまいがどうでも良い、生きとし生けるもの、遅かれ早かれいずれは死ぬ。ならば、俺様のこうした潔い死に方もまた一興というもの。蝉の魂は息も絶え絶えの身体から抜け出して側溝の蓋の隙間を潜り抜け、ふわりと空中に浮かんだ。それから、天に向かってゆっくりと上り始めた。背負っている生への執着というしがらみを解き放ち、煩悩具足を一つ一つ脱ぎ捨てるに従って、魂は軽くなって心地良い平穏に満たされ始めた。意識は次第に遠ざかり、記憶が少しずつ薄れていった。蝉の魂は、初秋の風に吹かれるタンポポの羽毛のように空の青に溶け込みつつあった。ああ、心が軽く透明になる、死出の旅路につくにあたって、何の苦痛も恐怖も感じない。この身、いや、魂はまるで海中に漂うクラゲになったように気持ち良く空をゆっくりと回遊しているではないか。風に乗って遥か宇宙のかなたへ吸い込まれて行きそうだ。おお、下界があんなに遠くに見える。ぞろぞろと歩く人間どもが蟻粒のようだ。懐かしい生き物たちよ、さらばだ。短い間であったが、結構、面白かった。あの小娘や出勤拒否症の若者、戦うことの苦手な親父、多くの職員をリストラした挙句、自分までリストラにあった奴など、彼らの悩みと生きざまはまさに千差万別、なかなかに興味深い。それに、我がはらからの蝉たち、共に奏でたシンフォニーは楽しかった。宇宙の彼方へ上昇しつつ感傷に浸っている蝉の心の片隅に、なぜか一抹の寂しさの種が生まれて芽吹き、成長して、やがて、やり残したことは無かったであろうか?と言う強い疑問となった。真っ先に脳裏に浮かぶのは、俺様を踏みつけたあの小娘のことよ。なぜか無性に気になって仕方がない。ここから下界を眺めると、蟻粒にしか見えない人間どもだが、その一つ一つにはそれぞれ異なった生き方がある。それを見届けてからあの世に行っても閻魔の奴は遅刻を咎めはすまい。蝉の魂は急に未練がましく手足をばたつかせて空中を、アワビやサザエを採る海人が海底まで潜るように下方へ向かって泳いだ。あいつめ、どこに行きおった、おい、小娘、どこにいる。俺はなぜか、あいつがこれから先、どの様にして生きて行くのか無性に知りたくなった。どこにいる、どこにいるのだ。いや、小娘のことばかりではない。あの気の弱い親父がリストラされた後、あの優しさを引きずったまま残りの人生をいかに航行するのか見届けたい。取り分け気になるのは、あの出勤拒否症の若者だ、これから先も色んなことに躓くだろうが、それを如何にして克服するのか、奴が七転び八起きの人生を楽しめるようになるまでじっくり観察してみたい、ついでにリストラに励んだ挙句、最後に自分がリストラされたあの男のその後も見届けてやらねばなるまい。うむ、これは興味が尽きないぞ。懸命に手足と羽根をバタつかせてようやく地上までたどり着いた蝉の魂は人混みの中に紛れ込んだ。そして、そこに、すらりと伸びた白い足を見つけた。いたな小娘、顔をあげてまっすぐ前を向いてさっそうと歩いておるわい。してみると、失恋の痛手は癒えたようだな。思った通り、立ち直りの速い娘だ。蝉の魂は娘にそっと近づき、彼女のまわりをぐるりと一回りしてみた。いつの間にか髪はショートカットにまとめている。気分転換だな、それも良かろう。やや細く濃い眉毛の下の爽やかな瞳が、くっきりと際立っている。付け睫毛をしているのだな。形の良い小さな赤い唇は少し口紅が濃い。細い首に巻かれたネックレイスがコバルトブルーのシャツからのぞいているが、胸の谷間に落とし込んでいるその端には多分ロケットがあるのだろう、今度は誰の写真が入っているのやら。括れた腰と張りのあるヒップを包んだピンクのミニスカートから出ている白い足は美しいがしかし程良く肉付き、大地を力強く踏んでいる。おい、お前なあ、スカートが短すぎて下着が見えるじゃないか、いや、お前、そもそも下着は身につけているのか。それに、そのピンヒールだ、気を付けろよ。だが、良く見ると、こいつ、結構可愛いじゃないか。蝉の霊魂は密に唸った。この跳ねっ返りは、これからどんな風に生きていくのだろうか。世の中、案外面白いじゃないか、よし、決めた。もう少し生き延びてこいつらの行く末を眺めてやろう。来年の夏も、麗しい俺様の声をお前らに届けてやろうじゃないか、多くの蝉を従えて。大蝉の魂はそう心に決めると、油断をするとすぐに空に向かって登って行こうとする己の魂をぐっと抑えて、何とか側溝の蓋の隙間から中に入り込んだ。あったぞ、我が体が、ピンヒールに踏まれて惨めに破損している。蝉はあまりに損傷の激しい屍に取り付くことに暫く躊躇したが、意を決して、体の中にもぐりこんだ。途端に腹部に激痛を覚えた。うむ、生きるということは、この世の苦しみに耐えることか、だが、精神と肉体の苦痛を受け入れるとき、何とも言えぬ快感があるわい。蝉は傷ついた体に鞭打って、側溝の壁にへばり付いた。激痛に耐えながら壁を登り切って外に出ると、そろりそろりと道端を移動した。誰かが吸いかけの煙草を蝉のすぐそばに投げ捨てた。おいこら、危ないじゃないか、マナーを守れ。蝉の声が聞こえたのか、その男は煙草の吸殻を側溝の中に蹴り込んだ。馬鹿者、見えないところに捨てればそれで済むものではない。そんな簡単なことも分からないのか、責任をもって持ち帰らんか。馬の耳に念仏か、こいつ等にはもっともっと教育が必要だな、見ておれ、来年の夏はまた俺様の麗しい声のシンフォニーを心行くまで聞かせてやるからな、待っておれ。大蝉はやっとの思いで近くの手ごろな低木を見つけると、しばらく見上げていたが、根元に縋り付いてゆっくりと登って行った。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 物凄い文章の圧でありながらも、丁寧な描写で非常に小説らしくて、僕なんかこれっぽちも及ばないなぁと感心しました。 [気になる点] 流石にちょっと読みにくいですけど……
[良い点] よくこの長文を一息で書いたなぁと感嘆いたしました。 蝉の目の付け所がユニークで良かったです。 文体も、夏目漱石の「吾輩は猫である」や太宰治の「猿ヶ島」を彷彿とさせるもので味があって良かった…
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