II-2
あるいは目ざとい読者の中には、俺がこんな身勝手な作者に対し、コンビニでの一幕のときほど強気な態度に出ていないことに、疑問を抱く者もいるかもしれない。なぜあのときのように速攻で顔面を殴り飛ばさないのか、サッカーボールのように蹴り飛ばさないのか、俺のヘタレな消極性を訝るかもしれない。
だが、その理由は簡単だ。といってもそれは、この十六年の間に俺の性格が丸くなって平和主義者になったからではない。
俺が作者を殴らない理由、それはここが、あのときのような現実世界ではなく、物語の世界──すなわち作者が絶対的な権限を持つ、空想と妄想の世界であるからだ。殴らないのではなく、殴れないのだ。この事を知らなかったがために、俺は過去に一度、作者からひどく痛い目に遭わされた。俺の右まゆ毛から目と頬を貫きアゴにまで一直線に走る深い傷跡も、その時にできたものだ。これのせいで俺はイケメンとは呼ばれなくなった。
俺はひとりの演者として、学習もするし反省もする。だから、同じ轍は踏みたくないのだ。同じアクションを二回行った結果同じイベントが二回続くという、そういうパラフィクションがもたらす徒労と無意味さが心底イヤなのだ。十六年間に及ぶルーベイ城でのイベントの数々は、まさにその典型的悪例だった。あれはまごうことなき懲役だった。
おそらく俺のこういう気質は、作者によって先天的に与えられたキャラ設定ではない。長年にわたって多くの世界をさまよい歩いた結果、後天的に身についたものだ。人生経験の堆積にともなう、冗費への嫌悪と合理性の追求。作者の世界には、あまりに無駄が多すぎる。
それはともかくとして、なぜ俺は、ここが物語の世界だとすぐに分かったのか? 地平線が平らだから? フンッ(鼻で笑う演技)、そんなもの、今ここにいる作者の風貌を見れば一目瞭然だ。
見るがいい、あいつの格好を。流れるように美しい金色の髪。背中までかかる長髪を絹の糸で束ね、当然ハゲてなどいない。目は金と銀のヘテロクロミア。とがったエルフ耳。整った鼻。均整のとれた体格。漆黒のコートに赤銅色のマント。傷一つないオールデンのブーツ。そしてなにより、俺よりも高い身長。そんなに俺に見下ろされるのが嫌か。口を開ければ、銀歯も虫歯も無い、象牙のように輝く白い歯。もちろんその顔はコンビニで殴ったしゃくれアゴとは違う。名前は知らないが、現実世界の有名ハリウッド俳優のそれだ。それから手には黒い穴開きグローブ。首には十字架のペンダント。腰にはオレンジ色のウエストポーチ。
容姿にコンプレックスがありありなのが露骨に透けており、憐れを通り越して何とも気の毒な気分になるわけだが、一方で声はそのままであるため、辛うじて俺はこいつが作者だと認識できるのだった。これは非常に残念な話なのだが、作者は、自分の容貌がネットでさんざんネタにされているということは(認めたくはないと思いつつも)承知していたのだが、実はそれに加えて、その不審者じみたか細いモスキートボイスも同様に馬鹿にされているという事実までは、自身の情報収集力では把握することが出来なかったのである。
「まあいいや」
俺は言った。
「もうお喋りはこれくらいでいいだろ。じゃあ帰ろうぜ」
「えっ? 何が?」
「何がって、帰るんだよ。元の剣龍牙叉に戻るんだよ。第何シーズンだったっけ? こんなしょうもない話、反省会をやるだけ無駄だったな。主人公やって損したわ」
「何言ってるのさ」
作者が言った。
「今さっき話したでしょ。ここがスタート地点なんだよ。わかる? ルーベイ城うんぬんの話は、あれは単なるミスなの。ノーカンなの」
「……ああん? 今何つった?」
スタート地点だと? そんな事言ってたか?
だが、作者は笑っていなかった。
「ここから物語が始まるんだよ」
「……は?」
始まるだと? 何が始まるんだよ? おいおい、冗談だろ。十六年あそこで過ごしたんだぞ。1クールなんて余裕で過ぎてるだろうが。どんだけ撮れ高があると思ってるんだよ。
「もーっ、話聞いてないなあ。まだ第1話も始まってないよ。だいたい僕はそのシーンを見てもいないし、管理もしてないわけだし」
「……はああ!?」
作者のくせに主人公である俺を見ていないとは、一体どういう了見なのか。俺は再度大声を上げたが、それに呼応するように、作者の声に苛立ちの色が混ざり始めた。悪い傾向だ。ここで作者の機嫌を損ねるべきではない、そんなことは分かっているが。
「いい? これから第1話なの。もうそろそろ始まる頃合いだよ。じゃあこっちに向かって歩いてみてごらん。まあ、そこに立ったままでもいいけどね。プロローグは自動で始まる仕組みになってるから」
そう言って作者が自分を指さした。
「えっ!? いやちょっ」
自分が何を言えばいいのかわからない。思考が追いつかない。呂律が回らない。
「だから質問に答えろよ! じゃあ俺のルーシェンとしての人生はどうなるんだよ!?」
「そりゃー、全カットだよね。だって話に必要ないし」
即答だった。
「はっ……はあああああ!?」
俺は、この短い時間のあいだに「は?」と「は!?」を何回言ったのだろう。
「全カットって、そりゃ無いだろ!? 俺の人生に直接関わることなんだぞ!? いや、それは止めて! マジで止めて!! ホント、それだけは絶対やったらいけないことだから! マジあり得んから!!」
作者がポン、と両手を叩いた。俺と視線を合わせようともせずに、だ。
「あっそうだ、忘れてた! そういえばこれを渡しにここまで来たんだった! キミの言う通りだ、お喋りをしている場合じゃなかったね!」
「いや、話を聞けって!」
作者は俺の必死の懇願を完全に無視して、腰に装着したウエストポーチのチャックを右手で不器用に開いた。
俺は喚いた。建前を気にしている場合ではなかった。
「あーもしかしてこれは、コンビニで殴ったことに対する意趣返しをしているのかなー!? 自分の言うことを聞かなかった登場人物に対する復讐なのかなー!? そういうのって、絶対良くないと思うよー!? 器が知れると思われちゃうよー!? 読者もこういうのは望んでないと思うなー!? あの人かわいそうって苦情がたくさん来ると思うよー!? またツイッターが荒れるよー!?」
俺は自分のキャラ設定も忘れ、狂乱の振る舞いでなおも懇願を続けたが、それも作者は無視した。
「はい、これ! 枕の横に置き忘れてた携帯電話と、あと本」
そう言って作者は、俺所有の携帯電話であるスマートフォンと、俺の愛読書である筒井康隆の『虚人たち』を無理やり手に握らせた。
「いやいや、携帯電話はどうでもいいんだよ! なあ、元の世界に帰らせてくれよ! こんなつまらない話の主人公はもううんざりなんだよ! 誰か他の奴に変わらせてくれ! だったらもういっそ話が終わるまでコールドスリープさせてくれ! もう疲れたんだよ! こんな茶番を続けるのは! なあ頼むよ、お願いだから!」
「あっ、一番肝心なものを忘れてた! これを渡しておかなきゃ、話が始まらないじゃないか! ……よしっと! これで僕の仕事はおーしまいっ!」
作者がウエストポーチから取り出したのは、グリーティングカードほどの大きさの、一枚の黒い紙だった。ちらりと、白い字で「引換」と書かれているのが見えた。それを、喚き立てる俺が持つ『虚人たち』のページの隙間に手早く挟みこむと、俺に反論をさせる暇も与えず、くるりと半回転して背を向けた。
「おっ、おい!? 待ってくれ! 待てってば! まだ訊きたいことはあるんだ! この話はあとどれだけ続くんだよ!?」
作者は俺の問い掛けに応じることもなく、草を踏みしめててきぱきと歩き始めた。そしてそのまま、後ろ向きで言った。
「安心しなよ、ちゃんとキミを元の世界に戻すための努力はするからさ。これは僕自身の問題だからね。戦いはこれからだよ」
それだけ言って、手を振った。
「というわけだから、じゃあねー、バイバーイ」
「おい! まだ質問が──」
そして作者は歩きながら、消えた。まるでそんな人物など始めから存在などしていなかったとでも言わんばかりに、幽霊のごとく半透明になり、空気に溶け込んでゆき、やがて音もなく、スムーズに消滅した。
全ては五秒とかからない出来事だった。そして俺は一人、草原に取り残された。
清潔感のあるそよ風が、胸のスカーフを不規則にはためかせている。雑草が相も変わらず、一定の周期で左右に揺らめいている。
周りに誰も居ないのにもかかわらず、俺は視線を落として二、三度悲しげに首を振り、大きくため息をついた。中腰になって膝に手をつき、自分の置かれた痛ましい境遇というものを目一杯アピールした。もちろん何の反応も起こらなかった。作者はこれを見ているのだろうか。見てないんだろうな。誰も見ていない以上それは完全に無意味な演技であったわけだが、それでも、今の俺にとっては必要な行為だった。
自己陶酔を十分に堪能したあとで俺は静かに顔を上げ、もう一度周りを見渡した。
「ん?」
そして気づいた。作者が歩いて消え去った方向、すなわち俺の視線のまっすぐ前方に、横にのっぺりと広がる建築物の集合体が見えた。青と緑以外の、赤や黄色といった明るい色彩を認識できる。それは屋根と壁の色だ。まばらな間隔をもって灰色の煙が立ち上り、風に流されて薄く拡散していく様が確認できる。街だ。距離は半マイルも離れていない。要するに結構近い。最初から存在したのであれば、絶対に見逃すはずもない。
つまりこれは……、いや、やめておこう。俺はこの物語の主人公なのだ。言い換えれば、俺はこの世界において責任ある地位を与えられているVIPなのだ。いやしくもこの物語の唯一の語り手たる俺サマが、この世界がパソコンソフトで作られた虚構の産物であるというまったく身も蓋も無い真実をぎゃあぎゃあと騒ぎ立て、話の無意味さと空虚さをいたずらに強化するような真似をするべきではないのだ。それこそまさしく墓穴を掘る行為だ。俺の磨き抜かれたアカデミー賞レベルの演技力は、呪術と魔法を含む各種物理現象の説得力と世界観のリアリティーを増強し、作品の品質を引き上げるために存在しているのであって、この世がメッシュにテクスチャマップを貼り付けただけの、薄っぺらいハリボテだということを露呈させるために存在するのではない。そんなのは自己否定もいいところだ。この世界がまるで現実に存在するかのように振る舞うこと、それは主人公である俺に課せられた高潔にして崇高な使命なのだ。
思考がまとまったところで、俺は街に向かって歩き出した。それ以外の選択肢はなかった。いや、本当は街に向かって歩き出さずに止まったままとか、もしくは街の見える方向とは逆に向かって歩き出すとか、舌を噛んで自殺するとか、そういう選択肢もあるにはあった。だが俺は街に向かって歩き出した。なぜならそれは俺が主人公だからであり、主人公はこういう場合、街に向かって歩き出すものであるからだった。もっとも、仮に俺が主人公でなく取るに足らない脇役の一人であったしても、俺は街に向かって歩き出したことだろう。