II-3
気象学的にいって、このような気候であれば、この一帯は森林地帯でなければおかしいだろう。
草原を黙々と歩きながら、俺はまずスマートフォンを確認した。電源ボタンを押すと、瞬時にメニュー画面が表示される。壊れてはいないようだった。電池の量も十分にある。画面の中のアナログ時計は午後の一時半を指していた。朝八時に起床したルーベイ城のあの空間から、時間の流れが続いているかのようだった。それから日付を見た俺は、はて、と首をかしげた。
そこには「渾貔節一日(月曜)」と記されていた。
「なんじゃこりゃ。バグってんじゃねーか」
俺はそう呟かざるをえなかった。これが俺の今いる世界の日付の表し方なのか、それとも単に壊れているだけなのか。その割には時間の方は普通の12時間表記だ。まだ世界の設定が定まっていないのかもしれない。なにしろ、さっきまで無かった街がポッと現れるような始末だからな。
次に俺は、作者が文庫本に挟んだ謎の黒い紙を確認しようとした。が、そう思った瞬間に腹がぐうと鳴り、自分が空腹であるという事実に気づかされた。そうなのだ。よくよく考えてみれば、俺は朝八時に起こされ試練にかり出され、訳もわからないままに地面の中に沈み、草原に飛ばされたかと思うと作者を怒鳴り散らした挙げ句逃げられて、指示されるがままに何が待ち受けているとも知れぬ未知の街に向かってすごすごと歩いて、そして、今に至るまで何も食べていないのである。
「腹が減ったな……何か食べないと……」
俺を見ている観客など誰もいないのに、俺はさも近くに人がいるかのように、自分の空腹感を表明する独り言を無意識に呟いていた。そして、またやってしまった、と己をさいなんだ。気をつけているはずなのに、治らない。自身の状態に変化があったときにその感想をいちいち声を出して報告し、俺を見ている(あるいは見ていない)客の反応をうかがうというのは、アニメや小説の登場人物に特有の職業病であり、この物語の主人公である俺もまた例外ではなかった。実際のところ、俺はこの悪癖を恥じていた。
何にせよ、俺は腹が減っていた。それは演技ではなく事実だった。確か、アイテムボックスにうどんがあったはずだ。とりあえず一度足を止めて、ここで腹ごなししてから街に入ろうか、と俺は思案した。ひとたび街の中に入ればどんなイベントが起こるかわからないし、そうなると安全にメシを食う時間を確保できるかどうかおぼつかなくなる。というわけで、俺はアイテムボックスを開いた。
「(アイテムボックス・オープン!)」
もう街まで1ハロンの距離まで近づいている。街の詳細部分が大分はっきりしてきた。色もとりどりな三角屋根のアパルトメントが、高さを同じくしてそこそこ規則的に立ち並んでいる。どうやら、わりあい大きな街であるらしい。少なくとも村ではない。街とは言っても、現代風の都市ではない。空を見ても、光速暴路のフォトンレールが蜘蛛の巣のように張り巡らされている、いうわけではなかったからだ。飛行機もヴェイクも飛んではいないし、軌道エレベーターも核融合ヴォルヴァントもそこには無い。俺の視界の範囲で判断する限り、街には四階建て以上の高さの建物は存在せず、そのシンプルな三角屋根の表面から、もの静かで牧歌的な空気を柔らかに醸し出していた。さながら水彩画のような、もっと昔の時代、そう、中世の時代の雰囲気だ。つまり文明レベルが3未満だということだ。壁を見れば、たくさんの四角い窓が鏡のように太陽光を反射して輝いている。窓のうちのいくつかからは、洗濯物とおぼしき白い布状の何かが竿を通して外に吊り下げられ、風を受けてぱたぱたとせわしなく翻っている。大地に目を向ければ、建物の周辺部分にだけ低い樹木がまばらに植わっていた。木の種類はここからでは分からない。
見えるのはそれだけだった。街壁はない。柵も、石垣もない。畑もない。動物も、人の姿も見られない。凹凸の一切ない、道路の一本も引かれていないだだっ広い草原に集合住宅の群れだけが直接建設され隣接しているというのは、すこぶる異様な眺めだった。
アイテムボックスは開かなかった。
「あれっ!?」
起こるはずのことが起こらなかったため、俺は一瞬気が動転した。そしてまた独り言を言ってしまった。何か間違えたか? そんなはずはないと疑りつつも、俺はもう一度気を静め、心の中で念じた。
「(アイテムボックス・オープン!)」
しかし何も起こらない。二度、三度と、執拗にアイテムボックスの呼び出しを試みる。だが、俺の前にアイテムリストのウィンドウが現れることはなかった。何度繰り返しても結果は同じだった。
「おいおい、マジかよ……」
アイテムボックスが機能しない。これが意味するところはつまり、今俺の置かれている状況が非常に芳しくないということだった。まずいな、うどんを食えない。いやいやそうじゃない、事態はもっと深刻だ。アイテムボックスを使えないということは、当然、アイテムボックスに収められた武器、防具、アイテムも現世界に出すことができないということだ。しかし何より一番の問題は、現金もその中に入れたままだということである。札束を詰め込んだアタッシェケースに加え、金塊、銀塊、ダイヤモンド、十六年かけて貯め込んできた占めて5兆8300億デシンク相当の私有財産を、俺は引き出せなくなったのだ。
俺は舌打ちをした。くそっ、しまったな。こういうシチュエーションを想定していなかった自分に腹が立つ。これは俺の失態だ。今までアイテムボックスに頼りすぎていたのだ。リスクマネジメントを怠った罰だ。
俺が今いるこの異世界自体にアイテム使用禁止の縛りがかけられているのか、それとも俺自身に封印が施されているのか、それは分からない。が、ただ一つはっきりしているのは、恐らくこの物語が終わるまで、俺のアイテムボックスが使用可能になることは決して無いだろうということだ。あるいは終わってからも。資産凍結。財産の差し押さえ。
俺は新しい世界に飛ばされ、以前の経歴を全てリセットされたのだ。それはある意味では当然のことだったが、どうにも理不尽だ。もちろん、ここで仮にダイヤモンドの指輪を持っていたところで、それを現地で換金できるという保証はないが。
いまや俺は無一文の身だ。俺はただただうろたえ、狼狽していた。しかも作者が言うには、まだ第1話も始まっていないのだという。こんな馬鹿な話があるか。とはいえ、街に入ってさえもいないのに、いささか悩みすぎではないのかと、自分で思わないこともない。それだけ俺は神経衰弱しているのだと、空っぽの胃をさすりながら冷静に自己分析する。そうだ、慌てる時間じゃない。元気を出そう。いやがらせはこれだけか? オラオラ出てこいよ作者、使えないのはアイテムボックスだけか?
「あっ。まさか」
俺はハッと気づき、もう一度yフォン(俺のスマートフォンの機種名だ)を手に取りメニュー画面を表示した。そしてyアプリのアイコンをタッチし、インストールしたアプリの一覧表に素早く目を通す。
やっぱりだ。テレポーターのアプリが消えている!
テレポーターだけではない。ポータブル錬金釜も、アイテム鑑定エキスパートも、メモリエディタもプロテクトブレーカーも、ナオン強制奴隷化光線も赤外線カメラも、俺がちまちま調べて集めた便利アプリが全部消えている。何てこった……!
そりゃあ、テレポーターが使えたら速効でルーベイ城に戻るに決まっているのだから、これを抹消する理屈はわかる。でも、他のやつは消さなくたっていいじゃないか。奴隷化光線が物語の出来を左右するほど影響を及ぼしたことがあったか? 赤外線カメラがイベントの進行を妨げたりしたか? こんなのただのお遊びアプリじゃないか。なんで作者は俺の些細な幸せまで奪おうとするんだ。結局これも復讐か? コンビニで殴った腹いせか? ルーベイ城なんか戻りたいとも思わないが、テレポートアドレスに登録した46人の愛人たちはどうなってしまうのだろう。今後の生活が心配だ。
怒りに身を震わせながら、俺はアプリ一覧を凝視する。あ、パズカプは残ってるな。とりあえず起動してみる。起動できた。そしてログイン。ログインできた。どうやらアカウントは無事なようだ。戦士一覧をタッチしてみれば、ちゃんと鯉もいる。元気に池を泳いでいる。良かった。さすがにこれまで消されたら、人生の楽しみが全て無くなってしまうところだった。これなら暇潰しには困らないな。まあ、不幸中の幸いといったところか。むろん、今の自分が圧倒的に不幸であることに変わりはないが。
スマホの状態をあらかた確認し終えて、バケツ一杯ぶんの絶望感をたっぷり浴びたところでスマートフォンから目を離すと、俺はもう街のすぐ入り口まで来ていた。
「!?」
何が起きても驚くまいという心がけはしていたつもりだったが、それでも俺は、この仕打ちには絶句するしかなかった。俺は確かに、街まで二百メートルの地点で停止していたはずなのだ。
俺は門の前に立っていた。大きな門だった。アーチ状をした石造りの、質素だがなかなか堅牢そうな門だ。三歩ほど後ずさりし、門の左右を見ると、高さ十五フィートはある強固な石の街壁が地平線の先まで果てしなく続いていた。どうなってるんだ、これはかなりの大都市ではないか。その割には門番はおらず、鉄板を張られたぶ厚い木製の扉も無造作に開け放たれたままである。そりゃあ、開いてなかったら俺が困るにしても、だ。
突然現れたのは門だけではなかった。俺はいつのまにか草原ではなく、街道の上に立っていたのだ。正方形のタイルを規則正しく並べた古風な石畳の街道が、草原のはるか向こうから門を通って街の内部まで一直線に伸びている。もちろん言うまでもなく、ついさっきまで道路なんてものは存在していなかったのだ。俺が道路の上に乗ったのではなく、道路が俺の下に生成されたのだ。今。この瞬間。だが、そのような主張は無意味だった。
要するに、元・王子様の俺様は、なにか重大な失態を犯して城から追い出され、一文なしの無職のまま、珍妙な服を着て、街道を歩いてここまでやって来たのだと、作者から後付けで説明されているのだ。ああそうとも、全てが後付けだ。俺にそういう役割が「今」与えられたのだ。そしてこれから、第1話が始まるのだ。残念なことだが。
「中世ファンタジーだ」
俺はぽつりと呟いた。別に珍しいことじゃない。俺が登場人物として演じてきた世界の七割は中世ファンタジーだ。このような導入には、むしろ慣れているとさえ言える。ただ、そのせいで、自分のことを時代劇役者だと世間に認識されているのが許せないだけだ。
門の上部を見ると、アーチに沿って扇状の看板がでかでかと掲げられていた。白ペンキを塗られたアルミ板に黒字で街の名前が記されており、そのフォントは丸ゴシック体だった。大小さまざまな虹色の音符や星マークが、文字の周辺部を埋める感じでそこかしこに散りばめられていた。
看板にはこう書かれてあった。
《ベイシュテルンの街へようこそ♪》
俺はフン、と荒っぽく鼻息を立てた。
「ベイシュテルンの街、ね」
俺は街の名前を馬鹿正直に読み上げると、目をつむって歯を食いしばり、手のひらを開いて左右の頬を強めに三度叩いた。それから腕を広げて深呼吸をし、パチリとまぶたを開いて覚悟を決めると、街壁の内部へ、毅然とした態度で歩を進めていった。
「負けるものか」
それは独り言ではなく、自分に向けて言った言葉だった。