0 (読む必要のない)プロローグ
俺の名前は剣龍 牙叉。どこにでもいる普通の高校生だ。
とりあえず結末だけを簡潔に書けば、俺は突然、光速暴路のド真ん中でトゥヴェックに轢かれて死んだ。よける暇などなかった。そもそもなぜ自分がそこにいたのかさえわからなかった。トゥヴェックに衝突した瞬間、俺の体中の骨という骨は砕け散り、手足と首と胴体がバラバラにもげて飛散し、臓器と筋肉と脂肪から構成される数え切れないほどの肉片が、フォトンレールの四方八方に飛び散って周辺一帯を赤く染めた。つまり、俺は死んだ。
そして次の瞬間、ハッと気がつくと、俺はなぜか、コンビニのレジの前に突っ立っていたのだ。全く意味がわからなかった。ただ呆然とするほかなかった。とりあえず、深呼吸をしてみる。息を吸い、そしてゆっくりと吐いて、二、三度、目をパチクリ開け閉めしたあとで、周囲の気配を探る。嗅覚が最初の感覚だった。フライドチキンのジューシーでスパイシーな匂いが俺の鼻孔をくすぐった。何がなんだか訳がわからんが、とりあえずチキンでも一個買って食おうかという思考が働いたものの、すぐさま財布を持って来ていないことに気づき、ああしまった財布忘れた、と苦々しく唇をかんだ。
それはともかく、通常店員が立っているべきレジスターの後ろ側には、誰もいなかった。今は深夜帯なのだろうか。いや、違う。俺は左に顔を向けた。白い太陽光線が眼球に刺さる。その光量は思っていたよりも強く、予期せざる一瞬のまぶしさに、俺は思わず左手で両目の視線を遮断した。だがそれは太陽から直接目に入ってきたものではなく、窓際30センチの床に高角度から照りつけているのが反射したものだった。天井に蛍光灯が点いているにもかかわらず、コンビニの内部は夕方のように暗い。何にせよ、今は確かに昼のようだ。そして快晴だ。
ふと、男の泣きじゃくる声が背中の方向から聞こえたので振り向いてみると、コンビニの制服を着た作者が、俺に対して何度も何度も土下座していた。
「すみません! すみません! 本当にすみません! 全部、わっ、私が悪うございました! だから、許してください! おねっ、おっ、お願いします!」
作者の声に聞き覚えがあったのでまさかとは思ったのだが、やはり確かに、作者だった。間違いない、ここは作者が週5でバイトしているコンビニだ。
とはいえ、端的に言って、今の俺がおかれている状況というものが全く理解できないという状況に変わりはない。しかし、とにかく、ここで作者が謝罪している以上、たとえ理由はわからずとも、俺はひとりの被害者としてこの件を厳しく追及しないわけにはいかなかった。
「はあぁ!? おい、ふざけんなよテメー! 自分が何やったのかわかってんのか!? ぶっ殺すぞコラ!!」
俺は怒鳴り声を上げた。土下座中の作者の髪をつかんで無理矢理足を立たせ、顔を上げさせると、右の拳をぐいと握りしめ、いつでも殴れる体勢をつくって見せた。
「ひっ、ひいいぃ! ごっ、ごめんなさい! ごめんなさい! 許してください本当に! お願いですから!」
俺は左手で髪をつかんだまま、作者をぎろりと睨みつける。いったいどれだけの間泣きはらしていたのかは知らないが、作者の眼はすっかり赤く充血しきっており、だらしなく鼻水をたらし、口からはよだれさえ垂らしていた。ったく、汚ねえな、おい。別に俺だって、本当は殴るつもりなどなかったというか、なかったのだが、そのあまりにもふぬけた惨めな作者のツラにだんだん腹が立ってきたので、なんとなく気分で、反射的にかつ衝動的に、自分でも気づかぬうちに俺は作者の左頬に思い切りコークスクリューの右ストレートを見舞ってしまっていた。口よりも先に手が出てしまう、俺の悪い癖だ。
「ぐぼあ」
大量の運動エネルギーを加えられて宙に浮いた作者の体は、マンガ的な表現そのままに横方向のジャイロ回転をもって菓子類が置かれている棚へと激突し、盛大な音を立てて棚ごと倒れ込んだ。瞬間、スナック菓子やらケーキやらシュークリームやらといった類の商品がトランポリンのようにふわっと飛び上がって再び落下し、それから一拍おいて、掃除の不徹底さを証明する薄灰色のホコリが床一面に舞い上がった。そうして冷たい静寂があたりを支配する代わりに、天井のスピーカーから、毒にも薬にもならないディズニー映画のなんかのテーマソングが、過剰に冷房のきいた店内に、まるで膨張する軟体生物のごとく空間全体になまぬるく充満していった。
「ううっ、ううううぅ」
作者は棚にめりこんでうつぶしたまま、起き上がってきそうにもない。その光景を冷ややかな眼で見下ろしながら、俺は、この後とるべき行動のことを考えていた。もちろん、俺だって馬鹿じゃない。俺がここにいて作者に謝罪されていることと、話の最初で何の脈絡もなく、光速暴路でトゥヴェックに轢かれて死んだこととに関係性があることは、すぐに察せられた。そもそも、俺は死んだのにもかかわらずここに作者がいるということは、だ。つまり俺が立っているこの場所は死後の世界ではなく、作者の世界──すなわち現実世界なのだ。それが意味するものは何か。俺はいやな予感がした。
「うううっ、ゲホッ、ゲホッ、うえええぇ」
作者は両手で顔をおさえたまま、のろのろと体を揺らすばかりで、まだ起き上がってこない。まったく、性根の足りない作者だ。運動不足にも程がある。
俺は一歩足を踏み出し、もう一発殴ってやるかという雰囲気を漂わせながらすごんで見せる。
「なあー作者さんよぉ、こいつはいったいどういうことか、説明してもらえるんだろうなぁ? 俺は死んだんだぞ? この世からいなくなったんだぞ? 死んだってことはだ、今後アニメ本編にも原作小説にも、ドラマCDにもスピンオフにも出られないってことだよなぁ? 俺の出演がなくなったってことがどれほど重要な意味を持つか、まさか作者であるあんたが知らないってことはないよなあ? 俺は主人公の終生のライバル役で、ストーリーの最初から最後まで、レギュラー張れるって言ったよなあ? 作者さん、あんた最初に俺と約束したよなあ?」
「げ、ゲホッ、劇場版だよ。ゴホッ、ゴホッ、げ、劇場版アニメが、す、全ての、げ、元凶で」
「ああん? 劇場版が何だって?」
手のひらで頬をおさえ、ズリ落ちたメガネにかまう余力も無く、眼の焦点も定まらないまま頭を左右にだらしなく揺り動かしながら、作者が息も絶えだえにそう言った。
「劇場版? たしか、来年の春に公開予定っていうやつか?」
「そ、そう、それで、ゲホッ」
作者が手を伸ばして起き上がろうとする素振りを見せたので、俺は右手を差し出して立ち上がる手助けをしてやった。それでようやく作者に二足歩行の体勢が整ったのだが、両足の膝が気味が悪いほど異常に震えている。俺は「生まれたての子ジカ」というものを実際に見たことはないが、今の作者の様子はまさにそれそのものだろう、と思った。
「おいおい、意味がわかんねーぞ作者。劇場版が公開されることと俺が死ぬことに、何の関係があるんだよ」
「はあっ、はあっ、はあっ、だからそのう、わ、わかると思うんだけど、うっぷ、君は劇場版に出られないっていうか、今後出さないことが決められたっていうか、げほっげほっ!」
一度は自分の足で立ち上がれたものの、すぐにその体のバランスは崩れ、膝をささえる筋力が失われた結果、今度は体を傾かせて壁際のおにぎりコーナーに衝突する。その衝撃で、袋詰めにされたいくつもの三角形の黒い物体がぼろぼろと床へと落ちていく。はずれかかっていた安物の黒縁メガネも、今度こそは持ち主の顔からはずれて床へと落下し、いかにも安物のプラスチックといった感じの乾いた音を響かせる。
「はあ? なんでだよ? なんで俺は映画に出れねーんだよ。おかしいだろ。俺はレギュラーだぞ」
「いてっ、いててて……。違うんだ、ぼ、僕じゃないんだ。全部、アニメスタッフが、か、勝手にやったんだ、はあっ、はあっ、いてて、さく、作者の僕にも知らされてなかったんだよ、劇場版が終わったらリメイクするって、反乱を起こされたんだよ、裏切られたんだよ、あっ、ある意味、僕も被害者で、いててっ、あれっ、メガネ」
「……裏切られただあ?」
しばらくはすがりつくようにおにぎりコーナーの隅の壁にもたれかかっていた作者だったが、やがてなす術もなく体はずり落ち、床に尻をついて座り込んでしまった。
「はあ、はあ、だからその、監督が、い、言ったんだ、劇場版では」
「おいコラ。人と話すときは目を見てしゃべれや」
作者の体が恐怖におののく。
「ひっ……! す、すみません、だからその、だから、えっと、ぐへっ、げほっ、ごほっ、ごほっ」
作者が数度にわたってせきこむ。咳のたびに頭が前後に動き、汚らしく脂ぎった毛髪量に乏しい頭頂部分を俺の眼前にさらす。うーわ、こいつこの年でハゲが始まってるぞ。ドン引きだよ。こいつ、自分がハゲてるって知ってるのか? もしかして知らない? 自覚してない? 自分の頭を鏡で見たことないのか? シャンプーをしてないのか? というかもしかして風呂に入ってないんじゃないかこいつ? コンビニ店員なのに?
ああ、何ということだろう。というか、マジで何ということだ。こんな脆弱でしょうもないゴミカスのような人間によって、俺という存在は生み出されたというのか。俺はつくづく情けない、悲しい気持ちになった。もちろん、この男が人間の最下層に位置するクズであることは以前から(小説の第1巻あとがきから)知っていたことではあるけれども、今回改めてその事実を突きつけられるに至って、俺は再び第1巻ぶりに憂鬱な気分になった。
だがその一方で、こいつは俺を物語の世界から事実上抹殺した張本人でもあるのだ。俺をいきなり光速暴路のど真ん中に配置し、何の対策も講じさせないままにこの世からおさらばさせたのは、他ならぬこの作者なのだ。こいつはまごう事なき殺人者なのだ。俺の中に再び、怒りの感情がふつふつと湧いてくる。ふざけるな、この程度の制裁が何だというのか。これは犯罪者に対する当然の懲罰だ。もしくは出来の悪い生徒に対する教育的指導だ。
「そ、それでさ、監督が言ったんだ、劇場版ではオリジナルの、あ、新しいライバル役を立てるって、もっと清潔でさ、クールっていうか、さっ、さわやかなタイプの、僕は反対したんだよ、それで、き、君の存在はストーリーのテーマ的に邪魔だから、とりあえず退場してもらうって、か、監督が言ってきたんだ、もっと女性に受けるやつをって、いきなり、一方的に」
「何だそりゃ。まるで俺が、清潔でさわやかじゃねえみてーじゃねえか」
そもそもこの男が、清潔でもなければさわやかでもない。
「監督が、あいたたたっ、言ったんだよ、僕じゃないよ、本当だよ、僕は、うえっぷ、ちゃんと反対したんだよ、だからって一度も出さないのはおかしいでしょって、はあっ、そしたら、監督が、あ、あいつを出すとF1層の集客力がなくなるって、ほら、前のシーズンで君、ヒロインをレイプしようとしたことがあったし、それで」
「はあ? ふざけんなよ! それはお前がそういう展開にしたからだろ! 俺はお前が書いた話の通りに行動しただけだぞ!? 作者はお前だろ!? なんで俺が悪いみたいになってんだよ! こっちだって好きでレイプしたかったわけじゃねーっつーの! 責任転嫁してんじゃねーぞコラ!!」
「ううっ……、わかんないよ、はあっ、はあっ、僕も知らないけど、とにかくなんか、アニメ版の君、えらく評判が悪いらしくて、しちゅ、しちょっ、視聴者からも、ああ、あ、アニメスタッフからも、苦情がたっ、たくさん来てるって、かか、監督が言うんだ、はあっ、はあっ、あとツイッターも」
開いた口がふさがらないとは、まさにこの事だ。俺は唖然とした。冗談じゃない。なんでアニメ版の俺の評判が、本来の俺(つまり今しゃべってるこの俺、原作小説の俺)の評価を下げることになるんだ。確かに、演じているのはどっちも俺だ。小説における主人公の正当なライバル格である誇り高き転校生の俺も、アニメオリジナルのエピソードでシャンプーハットをかぶりながら竹槍を振り回しているのも、それはどちらも同じ俺だ。しかし、だからって、だからってこの仕打ちはあんまりだろう。
意識をもうろうにしながら作者の語る情報は断片的だったが、それでもこの段階で、俺はすでに事の真相にたどりつきつつあった。それは、俺が前々から抱いていた疑念を確信に変えさせる種類のものだった。
作者とアニメスタッフとの仲が悪くなっているという噂は、俺も以前から聞いてはいた。当初1クールの予定で始められたアニメ版はことのほかDVDの売り上げが良く、人気に後押しされる形で第2期が作られることが決まった。そして第2シーズンにおいてもその人気は衰えることはなく、視聴者ならびにスポンサーの拍手喝采とともにすぐさま第3シーズンの制作が発表された。人気はさらに爆発、またしてもDVDはバカ売れ、当然、原作小説もバカ売れだ。まさしく、飛ぶように売れるとはこのことだ。覇権アニメ、覇権小説、覇権作者。
ところが、第4シーズンに入ったところで、アニメのストーリーが原作小説に追いついた。それでこの業界の常套手段として、アニメオリジナルのエピソードが何話か挟まれることになったわけだが、その件に関して、作者とアニメスタッフとの間でなにかしらの一悶着があったらしい。いや、一悶着という言葉では済まなかったかもしれない。具体的な内容は俺も知らない。もともとそういうゴシップに興味はないからな。一応、アニメオリジナルキャラクターの声優を選考するのに作者が強く口出しした、というのがネット上での定説になっている。ここでいうアニメオリジナルキャラクターというのは、第4シーズンの第5話で何の前情報もなく唐突に現れた俺の二人の妹たちのことなのだが、その服装や性格、声質や語尾のアクセントに関して、作者は何度も製作会議の場で力説し、相当にアニメスタッフを困らせたと言われている。しかも、それら妹たちの設定(ものすごいお兄ちゃんラブなところとか)が当時放映されていた既存のアニメ作品とやけに酷似していたため、放送後、これはパクリじゃねえかと各方面から袋だたきにあう羽目になったらしいのだ。
断言できる。間違いなく、作者は天狗になっていた。パクリ疑惑に対してこの男がどのような反論を展開したのか、俺は知らない。だがその反論の結果として、こいつは業界内そして業界外における支持者を急速に失うという事態に陥ったのだ。適当に相づちを打つ製作スタッフたちの冷笑、肩書きに「元」をつけるようになったファンたちの嘲笑。皮肉。あいそ笑い。憐憫。無視。しかし、作者にとっての悲劇はそれだけでは済まなかった。当の作者自身から、唯一の武器であるはずの創作の才能が失われようとしていたのだ。執筆速度は遅くなり、ツイッターのつぶやきだけが増えていった。ブログの記事からは長文の活動報告が消え去り、代わりに、その日食べた料理の写真が貼り付けられるだけになった。だがそれさえも、二ヶ月以上持続することはなかった。そして、ツイッターでつぶやくこともなくなった。
読者心理、あるいは視聴者心理を考えれば、第4シーズンの最終話で俺にヒロインをレイプさせようとしたのは明らかに悪手だった。作者は今までにない斬新な展開だと言ってむしろ自慢げだったらしいが、全く時勢を読めていないとしか言いようのない大チョンボであった。そして、第4シーズンの最終話のスタッフロールに続いて、特報と称して第5シーズンと劇場版アニメの製作決定というニュースが同時に発表された。アニメスタッフの立場からしてみれば、ここが一世一代の大勝負をするべき場面だったわけだ。勝負とはもちろん、この無能な作者を国民的大人気アニメの物語世界から放逐するための、だ。
……もうここまでくれば、あとの展開は容易に推測ができるだろう。それから3ヶ月後、アニメ版の俺が光速暴路でトゥヴェックに轢かれて死んだのは、第5シーズンの第1話のAパートの最初のシーン、アニメが始まって2秒後だったってわけだ。第5シーズンが全編アニメオリジナルの展開になることは、事前に告知されていた。そもそも原作小説のストックが存在しなかったのだから当然だ。この間、作者は一冊も本を書いていなかったのだから。
そしていまや、アニメが原作を追い抜いたのだ。すなわち、アニメスタッフの地位と政治的発言力が、作者のそれを超越したのだ。おそらく作者は編集者に急かされてというか脅迫まがいのことを言われてそそくさと続刊を執筆することになったと思われるが、事ここに至っては、アニメの展開に合わせて話を書く以外に方法はなかったことだろう。かくして結果として、俺はアニメと(もはや作者の原作とは呼べない)原作小説とで、二回、トゥヴェックにはねられて死ぬことになったのだ。そして一ヶ月後には、今度はコミック版で三度目の死を遂げることになるだろう。
……馬鹿げている。まったく馬鹿げている。こんなもの、所詮は作者の自業自得だ。全ては作者の怠慢が原因なのだ。アニメスタッフに裏切られたと主張するなど、おこがましいにも程がある。だが、そのとばっちりを全面的にこうむったのはこの俺なのだ。そして、俺だけなのだ。アニメ内において、そして小説中において、俺以外の誰も記録抹殺罪的致命的ダメージを負っていないのだ。俺だけがストーリーから消滅したのだ。だとすれば、ここでどれだけ作者を殴り飛ばしても足りないではないか。死ねばもろとも、いっそここで殺してやろうか。ああそうとも。ここで作者を殺してやる。ぶっ殺してやる!
「……はぁ。……で? 俺はこれからどうなるんだ?」
俺は一呼吸ぶんの沈黙を置いた上で、そう作者に尋ねた。俺は、重ねて作者を殴りはしなかった。自分でも意外なほどの平静さ、冷静さで、俺は率直に作者に問いただすことが出来ていた。むろん、殴ったところで状況が好転するわけでもないという事情もある。だが、それよりもむしろ俺の心に浮かんだのは、殴るタイミングを誤ったことに対する、後悔の念だった。
そうなのだ。俺は、このタイミングで作者を殴らなければならなかったのだ。すいませーん、あなたは今後ストーリーには出てきませーん、はあーっ何だとふざけんなあーっ、ボカーッ、というプロセスを経て作者を殴る、それが正規の手順だったのだ。しかしもう手遅れだった。今さら殴ったところで、話の冗長が過ぎる。ひとりの登場人物のあるべき態度として、俺の暴力性を示す機会は、作中に一度だけあれば十分なのだ。もちろん本音では何度も靴の裏で踏みつけてやりたいとしても、だ。
「うっ、うううう。えーと、その事なん、だけど」
作者は座り込んだまま、うつむいてぼそぼそと呟くように言った。さっきまで力の抜けきっていた手がゆっくりと持ち上がる。おっ、立ち上がるつもりかと思って俺は再び右の手を差し出したが、作者の右手は俺の無言の申し出を完全に無視してコンビニの床をさするようになで回すと、ようやくプラスチックの固い感触――自分の黒縁メガネを探し当てたところで、ニンマリと不細工な微笑みを俺に向かって投げかけた。
「えへへ……。えっと、その、君には、べ、別の世界で頑張ってもらおうと思うんだ。い、異世界で」
「異世界? 何だよその、イセカイって」
「異世界は異世界だよ、ぼ、僕の作った異世界」
「はあ?」
「いや、だから、君はその異世界で、アイドルをプロデュ――」
その時、唐突に爆音が轟いた。驚いてコンビニの窓に目を向けると、外の道路を、十台ほどからなる暴走族のバイクの一団が歩くよりも遅い超低速で排気音をうならせ走行していた。ブオン、ブオン、ブオン。おそらくは一分にも満たない、数十秒のあいだだと思うが、耳をつんざく不愉快な騒音はコンビニという狭い空間全体に絶え間なく響きわたり、俺も作者も何もすることができず、ただぼんやりと外を眺めながら、暴走族が通り過ぎるのを待つより他になかった。あの、爆音を立てるバイクのどれかが、俺が日頃乗っている違法改造ヴェイクのモデルになっていたりするのだろうか。そんなしょうもない考えが俺の頭の中にふとよぎったが、今となってはもうどうでも良いことだった。なぜなら、俺はもう死んでいるのだから。
短い時間だったはずだが、ひどく時間が経ったように思えた。騒音公害が過ぎ去り、店内が再びディズニーの人畜無害なBGMに満たされたところで、作者がおずおずと口を開く。
「でっ、でもね、あ、安心してほしいんだ。君はその世界で主人公になれるんだよ。ライバルみたいな脇役じゃなくて、正真正銘、本物の主人公の役だよ。やりたかったんでしょ? 主人公役」
「なにっ、主人こ……いやいや、あのな、そういうことを聞いてるんじゃねーんだよ」
座り込む作者からは立ち上がろうとする意志や気概が全くうかがえない。そのくせメガネはきちんと顔に装着し直している。
「てめえの異世界のことなんかどうでもいいんだよ、こっちは。俺が言いたいのは、元の世界に帰らせろってことなんだよ。わかるか? 生き返らせろって言ってんだよ。 アニメスタッフのことなんか無視して、さっさとメインシナリオに復帰させろやって言ってんだよ! お前作者だぞ!? 作者なんだからどうにでも出来るだろ!!」
「そ、それは……。僕でも、む、無理なんです、ごめんなさい」
「はあ!? バカかお前! 作者のくせにふざけんな、クソが!!」
「ひいっ……!」
俺は衝動的に左の拳を振り上げ、レジのテーブルに向かって思い切り振り下ろした。ドンッ! 鈍い音とともにテーブルの表面がぐしゃりとへこむ。さして丈夫でもない板きれは見た目5センチほど陥没し、さながら隕石が落下したクレーターのような景観を作り出した。激しい衝撃が伝わり、フライドチキンやポテト、唐揚げを収めた温熱器がぷるぷると振動しだす。
「……まさか」
まさか。俺は本当に死んだというのか。あり得ないだろう。今まで冗談半分にしか聞いていなかった作者のたわごとが、ここにきて急に現実味を帯びて俺の背中にのしかかってきた。背筋に、言葉にできない類の悪寒が走る。いつの間にか、額から汗が流れ始めていることに気づく。この感情──絶望──を味わうのは、外伝3巻を含めた刊行中の文庫本全13巻の全エピソードにおいてたったの1度しかなかったのだ(コミック版では2回、アニメ版では4回ある)。
俺は死んだのだ。しかもただ死んだのではない。存在そのものを抹殺されたのだ。俺のライバルという役割がそっくりそのまま、女性層に媚びこびたさわやかイケメンにとって替わられたのだ。主人公にヒロイン、子分どもに老師さん、親父におふくろ、兄と弟に(アニメ版限定の)妹たち、女騎士に外務省職員、アーマード・ゴブリンプレジデントに歯みがき粉の大妖精、今まで俺と関わってきた全ての登場人物から、俺という人間がいたこと自体を忘れ去られ、回想シーンに出てくる機会さえも封じられてしまったのだ。
俺はもう一度左の拳を中空に配置した後、今度はストン、と、重力に惹かれるがままに力なくテーブルへと落とした。
「……はあー……」
それから俺はひとつ大きく、長く大げさにため息をついて見せた。この状況が、いかにも不本意だと誰の目にもわかるように。言いようのない無力感が俺の体に染みこんでいく。それを防ぐ術が俺には与えられていない。
作者が、俺の言葉を待っている。だから俺は、作者の望み通りの言葉を言ってやった。
「……それで俺は、その異世界とやらにどれくらいいればいいんだ?」
俺がそう言った瞬間、キラーンという効果音とともに作者の眼鏡からひどくアニメチックな閃光エフェクトが投射される。
「あっ! 行ってくれる気になったんだね!」
床に尻をつけたまま、げっそりとしていたはずの作者の表情がにわかに輝きだす。
くそっ、殴りてえ。
「黙って質問に答えろ、作者。俺はその異世界にどれだけいればいい? 5秒以内に答えろ。答えなかったらてめえの頭をサッカーボールのように蹴り飛ばす。はい、5」
「ふえっ!? ちょっと待ってよ、あのっ、そのっ、だから」
「4。あと、一年以上と答えても蹴り飛ばす」
「ああっ、あああああのその」
「3」
「ええっ!? は、早すぎるよ!」
ああまったくその通りだ。なにしろ俺は、お前の頭をサッカーボールのように蹴り飛ばしたくてうずうずしてるからな。
「2」
「あっ、ああああああああああ」
「1。死ね」
俺はおごそかにシュートの体勢を取り始める。左足の親指に力をこめ、わずかに前屈みになると同時に、スニーカーを履いた右足を威勢良く後方へ振り上げる。
「ああああー、じゃっじゃあワンクール! 1クールでいいから! 1クールいてくれるだけでいいから! ねっ! だからお願い! 蹴らないで!」
作者が、なかば狂乱ぎみにそう言った。頭のてっぺんからつま先まで体全体がピクピクとけいれんし、その顔は恐怖のために引きつっている。しかし、その顔はどうにも笑っているようにしか見えない。思えば最初に土下座していた時も、本人にしてみれば本気で謝罪しているつもりだったのだろうが、俺にはどこかバカにされているような気がしてならなかった。この男はいわゆる、悲しんでいても泣いていても笑っている顔に見えてしまうという、そういう奇特な顔面の持ち主であるらしかった。喜怒哀楽どのような態度をとっても他者を苛立たせる能力を持つこの作者という存在に、俺はほとほと嫌気が差してきた。率直に言って、もう帰りたいと思った。怒りよりもさらに大きな、「哀れみ」という名の感情が俺の中に芽生えつつあるのを感じた。
「……1クール……12話……3ヶ月……、か」
俺はゆっくりと右足を元に戻した。ゆっくりと言いつつ、足が地に着く瞬間に靴底のかかとの部分で床を強く叩き、乾いたしかし大きな破裂音を意図的に立てて見せた。俺の思惑通り、作者の体が反射的にビクッと震える。それを見届けた後で、その右足のかかとを起点に体を半回転させ、立ち上がろうともしない作者に背を向けた。俺の視線の先、5メートル向こうにコンビニの自動ドアがある。すなわち、この下らない茶番の出口だ。
三ヶ月。その言葉を、俺は心の中で繰り返し反芻し、消化しようと試みた。三ヶ月。まあ、ギリギリで我慢できる範囲かもしれない。三ヶ月といっても、30分アニメなら高々6時間だ。もちろん、これは単なる猶予に過ぎない。三ヶ月の間に状況が好転するという保証はない。むしろ、そうなる可能性は極めて低い。だが、結局のところ、全ては作者の問題なのだ。所詮、いち登場人物に過ぎない俺が出しゃばった所でどうにかなることではなかったのだ。俺はもう一度、深くため息をついた。これから訪れる三ヶ月という無益な時間に思いをはせながら。
さあ、幕引きの時間だ。もうこれ以上作者に訊くことはない。やるべきことは(やるべきではないことも含めて)全てやった。もうここに用は無い。俺は真正面を見据え、ガラスの向こう側に目をこらした。爆音バイクの後の反動からだろうか、外はひどく静かそうに感じられた。車の往来は無い。歩く人もいない。太陽の熱に当てられて、片道三車線の道路上の空気がゆらめいているのがわかる。どうやら外はかなり暑そうだ。季節は夏、天気は快晴、時刻は正午、まあそんなところか。俺は顔を上げ、あらゆる感情を押し殺し、無表情で自動ドアの方へ歩き出した。
だが、自動ドアまであと30センチという所で、俺の足が不意に止まった。そして自分でも気づかぬままに顔を右に向け、天井隅の四角いスピーカーに視線を移していた。店内のBGMが、いつの間にかディズニーから変わっていることに気づいたからだ。
どうやら、アイドルが歌っているらしかった。明らかに、初めて聴く楽曲だった。もともとアイドルのことは詳しくないので、誰が歌っているのかはわからない。アイドルが歌っているだけあって、曲調は明るい。歌詞の内容もその明るさに準じたものだ。一人ではなく、複数で歌っているようだ。だから正確にはアイドルグループが歌っていると言うべきだろう。歌の要所要所でハーモニーとユニゾンが現れては消え、優れた演出効果を作り出している。あるときは三人で、あるときは四人で、そしてあるときは五人で。総勢合わせて十二人で歌っているのだ。
自分の表情が和らいでいくのが感じられた。このコンビニに来てから終始怒り通しだった俺が、ここにきて初めて、ほっこりした気持ちになれたことを自覚できた。
純粋に、良い曲だと思った。
「そうか、十二人で歌っているのか」
俺はそう独り言を呟き、そして数秒後にぎょっとした。なんで俺は、この曲が十二人で歌われているとわかったんだ? およそ質が良いとは言えないコンビニのスピーカーで、全く知らないアイドルグループの曲を一回だけ聴いてその人数をはっきり断言できるなんて、果たしてあり得ることだろうか?
いいや、あり得ない。
俺の眉間にしわが寄り、再び険しい表情になる。出口のまさにその直前で、俺はドアに背を向けるように180度ターンをし、作者の方へ大股で一直線に歩み寄る。なぜこちらに向かってくるのかと、わずかに疑問の表情を見せた作者のアゴを、俺はノーモーションでサッカーボールのように思い切り蹴り上げた。
結果を描写する必要もなかった。俺はこの一分間で三度目のターンを行い、7歩あるいて自動ドアの前に直立する。ガラスの扉が、きしんだ音を立てて開かれる。そして俺は右足で一歩を踏み出し、閉じた世界の外へ出た。
太陽がまぶしかった。