追憶 記憶の中のあなた
僕の憧れの人は黒いドレスしか着ないようになってしまった。華奢な体型を覆う質素なデザインのドレス。化粧も気持ち程度で、華美に飾り立てた姿は見せなくなった。昔から派手な格好をする人ではなかったのだけれど。
僕とマルス兄さんに向けられていた、あの懐かしい笑顔は、今でも心の暖かなところに記憶されている。今はその笑顔に、少し寂しげなものが含まれるようになってしまった貴女。
黒い服を着るのも、笑顔が寂しくなったのも、全てあの日からだ。マルス兄さんは罪なことをしたね。本当に、罪なことをしたよ。
――――◆――――
オリエ先生と出会ったのは、僕が十歳でマルス兄さんが二十歳の時だった。
「アルト、またサボりか」
後ろからそっと近づいてきたマルス兄さんは、僕の首根っこを掴むとそのまま持ち上げた。僕の靴の裏が地面から離れる。将校とはいえ、軍人になるための訓練を受けている兄は、細く見えて意外と力があるのだ。
「わああ! マルス兄さん? ごめんなさい。ごめんなさいってば!」
恐る恐る首を後ろに回すと、マルス兄さんの静かな怒りを湛えた青い瞳が僕を凝視していた。兄は軍庁舎から帰ってきたばかりなのか、濃紺の制服を着たままだった。すらりとした長身だから、その姿の映えること。士官学校を優秀な成績で卒業したマルス兄さんは、今は陸軍に籍を置いていた。僕にとって軍服姿の兄さんは英雄で、憧れだった。
「……何故ここにいる?」
僕を地面に降ろした兄さんは、冷ややかな声音で僕を詰問した。長兄のキース兄さんだったら怒鳴り散らすところなのだけれど、次兄のマルス兄さんは押し黙って怒るから、余計に怖い気がする。休みの日には乗馬を教えてくれたり、銃器のことを教えてくれたり、大好きな兄だけれど、静かに怒るこの時だけは本当に怖いと思う。
「えーと。ほら。観察! そうそう、理科の観察しようと思って! 花の観察です。新しく来る先生にやる気のあるところを見せたかったんです」
僕は早口に捲し立ててニコリと笑った。僕とマルス兄さんが今いるのは、うちの裏庭。花園として区画されている一角に、ブランコやシーソーなどの遊具が配置されている。何代前かの子煩悩な当主がガーデンデザイナーに置かせたものらしい。
「……ほう?」
マルス兄さんは渋い顔をする。白皙の美貌の、その眉間に皺が寄っていた。
それはそうだろう。こんな場所に来ておいて勉強する気だったも何もない。しかも、僕は今まさにブランコに手を掛けようとしていたところだ。
実は今日は僕のための新しい家庭教師が来る日なのだけれど、僕はその新任挨拶をすっぽかしてここにいるのだった。僕は観念して両手を挙げて降参のポーズをとった。
「だって勉強なんかつまらないんですもの。新しい先生には気の毒だけれど、むしろ、初めからそういう不真面目な生徒だと理解して頂いた方が親切というものでは、とも思いまして」
「アルト、お前は口の減らない……」
「ふふふ」
僕の無邪気な笑顔を見て、マルス兄さんは呆れた顔で溜息をついた。いつものことだ。なんだかんだと言いながら、この兄は年の離れた弟の僕を諌めきれない甘いところがある。僕はさらに言い訳しようと口を開いた。
その時、風が吹いた。
季節は丁度、春から夏へと移りゆく時期だった。爽やかなその風は、僕たち兄弟の頬を撫で、花園で青々と輝く木々の葉や草を躍らせ、溢れるように咲き誇る薔薇やマーガレット、クチナシの花を揺らした。思わず風の行く手を目で追った僕たち兄弟は、花園の入り口の門が開こうとていることに気が付いた。
その門に手をかけていたのは、淡い空色のドレスを纏ったレディだった。
「仲のよろしいご兄弟ですのね」
そう言ってふわりと優しく微笑んだ顔はたいそう美しく、普段おしゃべりな僕ですら、言葉を紡ぐことが出来なくなってしまうほどだった。
「ご当主様にご挨拶に行きましたら、お二人はこちらだろうとおっしゃられたので、失礼とは存じますが来てしまいました」
当主――ああ、長兄のキース兄さんにも僕のサボりはばれていたのか。後でキース兄さんにも怒られることが確定してしまった。
「マルス様とアルト様ですわね? 初めまして。わたくし、オリエ・マギエラと申します。この度はアルト様の家庭教師を仰せつかり、たいへん光栄ですわ。よろしくお願い致します」
品よく礼をする僕の新しい家庭教師。白い帽子と手袋が眩しく見えた。華奢な体つきと、大きな緑色の瞳の所為で幼く見えるけれど、女学校を出ばかりだとすればマルス兄さんの少し下くらいだろうか。ゆるやかに波打つ栗色の髪が縁どる顔は、人形のように愛らしく、白磁のように白く、僕は胸がドキドキした。
「アルトです。よろしく、オリエ先生」
僕の差し出した手をオリエ先生は優しく握ってくれた。柔らかくて暖かい感触を掌に感じる。
「さっきの僕たちの話、聞いていました?」
「はい」
オリエ先生は口元に手を当ててクスリと笑った。
「なかなか手強い生徒になりそうで楽しみですわ」
「ふふふ」
先生の気安い様子に安堵して僕は笑った。よかった。結婚のために辞めた前の先生だったら、とたんに機嫌を悪くする言動だったはずだ。僕のユーモアを分かってくれるなんて、なんて素敵なレディだろう。
「でも、理科の観察というのは良いことですのよ。かのニュートンが木から林檎の落ちる様子から万有引力の法則の着想を得たように、何気ない日常のものが理科の学習を助けてくれますわ」
オリエ先生は身を翻して、シーソーの傍に寄った。
「せっかくですからこれを使って『てこの原理』について実験してみましょうか。物理学の基本としては分かりやすいテーマですわ」
オリエ先生はシーソーを使って、支点・力点・作用点の関係と、重さのつり合いについて解説し、実際に自分が乗ったり、僕を乗せたりして解説をしてくれた。ふーん、分かりやすい。僕は先生の説明に感心した。
そしてこの時、「ああ、この人にはずっと敵わないのだろうな」、僕の中でそんな予感が漠然と生じた。けれど、それは決して不快な印象ではなく、洗い立ての柔らかなタオルで包まれたような、心地よい感覚だった。
シーソーから降りて、ふと横を見上げると、マルス兄さんが惚けた表情で僕らのやりとりを見ていた。真面目なマルス兄さんは、ポンポン進む僕たちの会話に戸惑っている様子だった。
「マルス兄さん、大丈夫ですか?」
僕が声を掛けると、なぜかオリエ先生の方が赤くなってマルス兄さんに頭を下げた。
「あ、わたくし、マルス様がいらっしゃるのに、勝手に授業を。お気遣いもできず、お恥ずかしいですわ。学問のことになると周りが見えなくなってしまうのです」
「あ……いえ……こちらこそ、挨拶もせず、失礼しました。当主の弟のマルスです」
あれ、マルス兄さんの耳が微かに赤い。へえ、と思って、僕はニヤリと笑った。
「マルス兄さんったら、もしかして照れているんですか? ああ、マルス兄さんは真面目だから、こんな綺麗な女性とお話するのに緊張しているのでしょう? ふふふ!」
ちらりと上目遣いに見ると、意外なことにマルス兄さんの顔が真っ赤になっている。おかしいな、いつもだったら静かに睨みつけられそうなものなのに。そんな兄の様子には気付かぬ様子で、オリエ先生は朗らかに笑った。
「まあ、アルト様、お上手なことを言って。お世辞を言われても授業の手は抜きませんよ?」
「いえ。僕はお世辞なんて言いませんよ。オリエ先生は本当にお綺麗ですもの。ねえ、マルス兄さん?」
僕に水を向けられて、兄は困ったような表情で微かに唸った。僕は兄に勝ったような心持ちになり、軽快な気分だった。けれど、マルス兄さんが僕の言葉に同意するために首を縦に振った瞬間、今度はオリエ先生の白磁のような顔が真っ赤に染まったのだ。
あれ?
僕は上気した頬のまま見つめ合う二人を交互に見上げてみたが、その二人の世界に入り込めそうにないことに衝撃を受けた。
あっという間に兄さんに負けてしまった!
――――◆――――
オリエ先生は住み込みの家庭教師として屋敷の一室を与えられた。決して広くはないその部屋に先生が持ち込んだ荷物は、僅かな身の回りのものと大量の書物だった。
日中は僕に勉強を教えてくれて、授業がない時には、屋敷の雑務を手伝ったり、本を読んだりして過ごしていたようだ。
授業のない日に僕が先生の部屋に遊びに行くと、大抵は窓際の椅子に座って本を開いていた。いつも笑顔で僕を出迎えてくれて、自分の蔵書の中から僕にも読めそうなものを貸してくれる。僕は先生の傍の椅子に腰かけてその本を開き、この時ばかりはおしゃべりな僕も口を閉じた。暖かな日差しに照らされた、この柔らかな時間が僕は大好きだった。
「アルト……授業はきちんと受けているか?」
そんな風にマルス兄さんが僕の勉強に口を出す回数が増えた。
「はい。しっかり勉強していますよ。僕の授業態度については、オリエ先生に直接聞いたらいいじゃないですか」
僕は澄まして答えた。オリエ先生の名前に僅かに動揺する兄に、微かな優越感を覚えながら。
「確か今は客間に飾る花が必要だとかで、花壇の花を摘むのを手伝っていますよ?」
暗に「オリエ先生に話しかけてきたら?」と僕に言われ、兄の表情に戸惑いの色が混じった。寡黙でいつも氷のように冷静なマルス兄さんが、微かでも狼狽する様子を見るのは面白かった。でも、やっぱりどこか面白くない。だってオリエ先生は僕の先生なのに。
でもなあ。少し助け船を出してあげないと、この真面目な兄は何もできないのではなかろうか。弟ながら、そんな不遜な心配が胸を過った。
「そういえば、先生もマルス兄さんと話したがっていたような気がしたなあ」
「そうなのか?」
仏頂面でほとんど動かない兄の表情に、僅かに喜色が広がったのが分かった。
「僕の勉強の進め方で相談したいことがあるとか。先生からはマルス兄さんに話しかけづらいのかもしれないから、話しかけてみては?」
「わかった」
踵を返した兄の長身の背中を目で追いながら、僕は溜息をついた。
あーあ。僕はなんて紳士なのだろう。
これがきっかけだったのかは分からないけれど、以後、兄とオリエ先生が親しげに話す様子をしばしば見かけるようになった。先生は休日には古本屋を巡るのを趣味としていたけれど、兄が非番の日にはそれについて行って、兄が重たい本を抱えて一緒に帰ってくるような姿も見られた。可憐に微笑むオリエ先生と、僅かな笑みを口の端に示す兄の姿を見るのは、嬉しい半面、少し胸がチクチクと刺されるような感覚を僕に教えてくれた。
――――◆――――
「マルス兄さんには感謝してもらいたいものです」
僕は家族の食卓でカチャカチャと音を立てながら、ディナーの肉料理をつついていた。
「アルト、もう少し大人しく食べなさい」
長兄のキース兄さんが不機嫌そうに眉根を寄せる。四年前に亡くなった父から伯爵を継いだ兄さんは、僕にとっては父代わりだ。家のこと、外のことを当主として取り仕切る兄さんのことを尊敬もしているけれど、細かいことに一々にうるさいと思うことも多々ある。
「キース兄さん、マルス兄さんがオリエ先生と仲良くできているのは僕のおかげだと思いませんか?」
僕はキース兄さんの機嫌を損ねないようにナイフとフォークを丁寧に扱いながら、ニコリと笑った。
「ませたことを言うな。まったく、アルトの口が減ることはないな」
「ふふふ。アルトさんは本当にお口がお上手ですわ」
キース兄さんの横で、昨年嫁いできたイブ義姉さんが笑うので、キース兄さんもつられて笑った。義姉は金色の巻き毛の、きれいな人だった。「キース兄さんには勿体ない美人」と僕は常々口にしている。
僕の隣では、マルス兄さんが憮然とした表情でパンを千切っていた。微かに耳が赤い。怒りのためだろうか、それとも照れのせいだろうか。
「お義母様とオリエさんのお母様は同級生でしたのよね?」
イブ義姉さんが傍らの母に視線を向けた。
「ええ。オリエさんのお母様は女学院卒業後はマギエラ男爵のご子息に嫁がれて。でも、あちらのおうちでは色々と親族間での諍いがあって……財産も与えられず、お父様とお母様は家を追い出されてしまったのです。お父様は学問に秀でた方だったので、間もなく大学教授として身を立てられたのだけれど、ご苦労されたせいか、すぐに亡くなられて」
「母娘でご苦労されましたのね……」
母と義姉は溜息をついた。
「オリエさん自身、元のご身分であれば、働かなくとも良縁に恵まれたでしょうに」
「幼い頃からお父上より教育を受けてらして、学問や教育に関わるお仕事ができて幸せだとおっしゃられていましたわ」
「しっかりされているのね」
お母様とイブ義姉さんは感心したように頷き合う。
「アルトの教師だけでなくて、屋敷の仕事も手伝ってくれて本当に助かるわ」
「この前、自動車が動かなかった時、運転手と一緒になって修理してくれましたの」
「お父様は機械工学にも通じてらっしゃったから。オリエさんは文学にもお詳しいのよ。この前、わたくし、友人に詩集を頂いたのだけれど、詳しく解説してくれて。お友達にそれをお話したら、随分感心してくれて、鼻が高かったわ」
うちの女性陣はおしゃべりだ。父が亡くなって落ち込んでいた母は、義姉が来て話し相手となったことで明るさを取り戻し、オリエ先生が来たことでさらに活力を取り戻したように見える。家族はオリエ先生のことを気に入っていた。僕はそれが嬉しかった。
「そういえば、マルス兄さん、オリエ先生が美術館に行きたがっていましたよ。今度一緒に行かれたらどうです?」
「休みがあれば」
マルス兄さんはそれだけ言って、食事に戻った。キース兄さんが思案気に眉根を寄せた。
「マルス、最近、休みが少ないようだが?」
「対策会議が多いので」
マルス兄さんの回答はあっさりしたものだったが、キース兄さんは表情を険しくした。
「やはり、あの噂は本当なのか? 隣国の不穏な動きを軍部が捉えたとか」
キース兄さんは貴族院の議席を持っているから、政治活動も仕事のうちだった。その伝手で得られる情報は、しばしば新聞よりも早く家族にもたらされた。
マルス兄さんは一瞬、スプーンを持った手を止め、目を逸らした。
「……それについては、まだ何とも言い兼ねます」
明るかった食卓が、日が落ちたように暗くなってしまった。僕は兄二人の話す内容はよく理解できなかったけれど、不穏な空気を感じ取ることはできた。僕はその空気が不快で、それを吹き飛ばしてしまいたかった。
「マルス兄さん、そんなことより、絶対にオリエ先生と美術館に行ってくださいね! 油断してると、僕がオリエ先生を連れて行ってしまいますよ?」
あははははは、と馬鹿なほど、大きな声で笑った。いつものキース兄さんだったら行儀が悪いと叱り飛ばすところだけれど、今日は一緒に笑顔を浮かべてくれた。お母様と義姉さんも笑ってくれた。マルス兄さんはしばらくは無言だったけれど、珍しく笑顔を浮かべて僕の方を見た。
「わかった。連れて行くよ」
けれど、結局、兄さんがオリエ先生を美術館に連れて行くことはなかった。
――――◆――――
時代はあっという間に転がり、事態は空回りをして物事を悪化させる。
もともと僕たちの国と隣国とは良好な関係が築けていたわけではない。剣で戦う時代から、互いの領土を狙って争い続けていた経緯がある。しかし、この年、国王陛下は自分の息子である王太子殿下を特別親善大使として隣国に送った。産業革命の影響を受けて変化する世の中、資源確保、貿易、技術開発など国家間で協力していくべきと判断したためだった。
しかし、これが失敗した。隣国曰く、僕たちの国は隣国に不平等な条件で国家間協力をする条約を締結し、隣国を実質支配しようとしているというのだ。そして、国王は王太子を隣国実質支配の総督としようと目論み、今回の訪問はそのための布石であると主張した。身の危険を感じた王太子は帰国しようとしたが、これを妨害して、ついに隣国は殿下を幽閉するに至った。
間もなく隣国から宣戦布告がなされ、国境を破って軍隊が侵入するまで、そう時間はかからなかった。
当然、マルス兄さんは戦地へと派遣されることになった。
――――◆――――
「それでは行って参ります」
「マルス、お前に神のご加護のあらんことを」
陸軍の濃紺の制服と制帽を身に着けたマルス兄さんは、邸のエントランスに並ぶ長兄のキース兄さんとその妻であるイブ義姉さん、僕、母、家の使用人たち、そして、オリエ先生に一礼すると背を向けた。そのまま扉を開いて庭を横切り、門前に停められた黒い車の中へと消えた。
マルス兄さんは背を向けてから車に乗り込むまで、僕たちを一度も振り返らなかった。その寡黙な後ろ姿はマルス兄さんらしいと思いつつ、僕は無性に悲しくなった。
昨日の夜、マルス兄さんは僕の部屋に来て、自分が戦地に行っている間、オリエ先生の言うことをよく聞くように、そして、何かあれば先生を守ってほしいと僕に言った。兄はいつも以上に真剣な表情で、僕はその顔がなんだか恐ろしく、黙って頷くことしかできなかった。
マルス兄さんは先生にも、何か言葉を伝えたのだろうか。
僕は心の中に不安が噴き出すのを否定することが出来なかった。季節はそろそろ冬を迎えようかという時期で、晴れ渡った空の色とは裏腹に、庭の木々の寂しい色が僕の不安を煽るのかもしれなかった。
隣を見ると、美しいオリエ先生の顔が歪んでいた。潤んだ目からは今にも涙が零れそうだった。でも、唇を一文字に引き結び、毅然とした姿勢を崩すまいと気を張っている様子が伝わってくる。そんな姿を見つめることしか出来なくて、僕は悲しかった。
「キース兄さん、イブ義姉さん、今日の授業はお休みでいいでしょう?」
「そうだな。それがいい」
「そうね。オリエさんもお休みになって」
僕とオリエ先生に視線をやったキース兄さんとイブ義姉さんは、優しく微笑んだ。
「……わたくしなら、大丈夫です」
「でも……無理しなくてもいいのよ。わたくし、オリエさんの方が心配だわ」
心配そうに眉根を寄せる母に、オリエ先生は申し訳なさそうな顔で微笑んだ。
「リラ様、ご心配おかけして申し訳ございません。でも、わたくしは本当に大丈夫ですわ。さあ、アルト様、参りましょう。お兄さん達に負けない立派な大人になれるように、しっかり勉学に励まなければなりません」
オリエ先生はそう言うと、優しい微笑みを浮かべながら僕の手を取った。けれど、その顔は少し青ざめていて、僕は心の中がきゅっと痛くなるのを感じた。こんな状態の先生には休んでもらいたいけれど、もしかしたら、授業をしている方が、気が紛れるのかもしれない。僕はオリエ先生の言うことにおとなしく従うことにした。
いつもは授業中に茶々を入れて話を脱線させて楽しんでいる僕だけれど、今日だけは真面目に勉強する。それで先生の気が少しでも紛れるのなら、おとなしい生徒にでも、優秀な生徒にでも何にでもなってやろうと思った。
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花と緑と華やかさに溢れていた街は、戦争のおかげでみるみる色を失っていった。まずは物資が手に入らなくなった。戦地にいる兵たちに物資を供給しなければならないのもあるが、隣国が僕たちの国の主要道路や運河の要衝を中心に攻撃を仕掛けていることが混乱に拍車をかけていた。物が少なくなれば、経済も生活も回らなくなる。職を失う人達も出始めた。遠いと思っていた戦火だったが、じわじわと僕たちの生活を圧迫していた。しかも隣国は、爆弾を積んだ飛行船を実戦投入する準備をしているという噂も聞いた。
人々の心は次第に余裕を失っていった。
――――◆――――
「順番にお並びになって」
イブ義姉さんの少し疲れた声が庭に響いた。キース兄さんが領地から掻き集めた物資を、職を失った人や病気の人、それらの家族、戦地に働き手を取られて困っている人達に配給していた。この作業は使用人たちだけでなく、僕と母と義姉と、そして、オリエ先生も手伝っていた。
オリエ先生は兄を送った後、前以上に勤勉に働くようになった。それは働きすぎだというほどに。僕の授業の他、空いている時間に家の雑用を次々とこなす様子は使用人たちが戸惑うほどだった。寝る直前まで繕いものをしていたり、庭師より早起きして庭の清掃をしていたり。僕たちが配給活動を始めると、その作業にも熱心に取り組んだ。
僕たちが無理をしているのではと心配しても、取り合ってくれなかった。以前は兄とよく行っていた古本屋にも行かなくなり、息抜きの時間をほとんど取っていなかったと思う。そうやって、兄のいない寂しさを誤魔化し、戦地にいる兄への不安を紛らわせていたのかもしれない。
でも、そんな生活を続けていて体を壊さないはずがなかった。発熱や気分の悪さを隠して働いていたことが分かり、僕たち家族はしばらく部屋で安静にするようオリエ先生を説得した。
「わたくしも手伝いますわ」
説得の甲斐なく、青い顔をしたオリエ先生がふらつく足取りで屋敷から出てきた。
「だめです、オリエ先生。しばらくはお休みしてください。約束したでしょう?」
僕は慌てて先生の行く手を塞いだ。枯れ木を冷たい風がいたぶる辛い季節で、僕たちは厚手のコートを身に着けていたのに、先生は薄手の上着を纏っているだけだった。
「さあ、お部屋に戻りましょう」
「でも……申し訳ないですわ。家庭教師ですのに体を壊して、その職務も全うできず、皆様のお手伝いもできず……それでも、皆様によくして頂いて」
「そんなことはオリエ先生が気にする必要のないことです。ねえ、お母様?」
「そうですよ。さあ、オリエさん、お部屋に」
義姉と共にオリエ先生の肩を抱いた。心配になるくらいに細い肩。義姉が心配そうな表情でオリエ先生の顔を覗いている。先生の目は僅かに涙ぐんでいた。
僕は自分が悔しかった。
自分では先生を支えられないのだろうか。オリエ先生を守ると、マルス兄さんと約束したのに、オリエ先生に無理をさせてしまっている。僕には兄さんのようにオリエ先生を守ることができないのだろうか。それが悲しくて悔しくて、僕は下唇を噛みしめた。
その時、邸に黒い車が入っていた。
その後部座席から降りた人物は、戦地に旅立った時のマルス兄さんと同じ紺色の制服を身に着けていた。それが何故か不吉なものに見えて、僕は眉根を寄せた。マルス兄さんの制服は誇らしげに輝いて見えたのに。
その人はキース兄さんに向かって敬礼した。
「キース・ウォルテリア侯爵、陸軍大尉のレインです。弟君が戦地にてご立派な最後を遂げられたと、そのご報告に上がりました」
大尉はそのまま敬礼のポーズを崩さなかった。
まさに、時が止まったような感覚だった。息が詰まって、しばらくの間、その人の言ったことの意味を理解することが出来なかった。
「嘘です……」
溜息のような微かな言葉を残して、オリエ先生の体が支えを失った人形のように倒れた。
「オリエさん! おお、マルス……そんな!」
母の短い悲鳴が響く。
僕はオリエ先生が地面に倒れてしまわないように必死で抱えた。冬の風で冷えた先生の体は温かみがなく、目の閉じられた青白い顔は陶磁で作られた人形のように見えた。
オリエ先生はそれから三日三晩眠り続けた。とにかく熱がひどい。医師に診せると、ストレスで体調を崩しているところに、性質の悪い病気にかかったらしい。しかし、物資不足で医薬品が満足に手に入らないという。
「王都に行けば薬が手に入るはずです。僕に行かせてください」
「何もお前が行く必要はないだろう」
「いいえ。邸のみんなには仕事があるし、マルス兄さんのこともある。それに、僕はマルス兄さんと先生を守ると約束したのです」
キース兄さんは溜息をついた。
僕は早朝に馬に跨り、出発した。
僕はマルス兄さんに教えてもらったとおりに馬を操った。街を抜け、森を抜け、街道を抜けて一路王都を目指す。刺すような冬の寒さ、空腹、長時間乗馬していることでの体の辛さ、そんなものは気にもならなかった。ただただ、願っていた。
お願いです、マルス兄さん。オリエ先生は連れて行かないでください! 僕はまだ、先生とたくさんお話がしたいんです。絶対に守るから。兄さんの代わりに僕が先生を守るから。だから、オリエ先生を連れて行かないでください!
――◆――
僕が薬を手に入れて帰った翌日、先生は目を覚ました。でも、オリエ先生の顔からは表情が消えていた。明るい色の服は着なくなり、黒のドレスを纏うようになった。
ただ、僕たち家族には決して弱音を洩らさなかった。
家族を失って悲しんでいる僕たちのことを弁えてのことだと思う。特に、夫に続いて息子を失い、陽を失ったように部屋に閉じこもる母を気遣ってくれた。花を摘んでは花瓶に飾り、母の好きな詩集を見つけては朗読し。そのおかげで母は次第に心を取り戻した。
僕はそんなオリエ先生の傍にできるだけいるようにした。先生の話を聞いて、先生に話を聞いてもらって。次第にオリエ先生にも笑顔が戻った。以前より寂しい笑顔になってしまったけれど。
戦争はその後一年ほど続いて、どちらの勝利宣言もなく停戦協定が結ばれた。そこから、街も次第に元の華やかさを取り戻していった。
その後、僕が十二歳で寄宿学校に入るまで、先生は僕の家庭教師をしてくれた。
先生のおかげで僕は色々な知識を身に着け、そして、色々な感情を知った。喜びも、悲しみも、苦しみも、妬みも、憧れも、慈しみも。僕はやっぱりこの人には敵わなかった。
先生はその後、奨学金をもらって大学に入った。この時代の女性としては珍しいことだった。学位取得後は、子供達のための私塾を開いたことを手紙で知らせてくれた。あの頃の僕にしてくれたように、分かりやすい授業を子供たちにしているのだろう。
――――◆――――
僕はマルス兄さんが亡くなった年齢と同じ二十歳になった時に、オリエ先生の私塾へ挨拶に行った。先生は背の伸びた僕の姿に驚き、「やはりマルス様に似てらっしゃる」と言って笑った。寂しさの滲んだ笑顔だったけれど、僕は先生が笑顔でいてくれたことに安堵した。
僕が「弁護士を目指して今は法学を学んでいるのです」と報告すると、先生は目を細めて微笑んだ。相変わらず、可憐で、人形のように愛らしい表情だった。
「オリエ先生、僕が弁護士になったら結婚してくれませんか」
オリエ先生は目を見開いて、けれど、すぐクスリといたずらっ子のように笑った。
「まあ、アルト様、お上手なことを言って。お世辞を言われても授業の手は抜きませんよ?」
塾の子供に呼ばれて、オリエ先生は僕に背を向けた。変わらずに、黒い喪服のようなドレスを着続けるオリエ先生の姿に、僕は渋い笑みを浮かべながら溜息を零すことしかできなかった。
僕はマルス兄さんにも敵わないんだな。
【終】