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短編集Ⅲ

あなたへ

作者: 有里

 黒い背表紙に、白に近い明るいグレーでタイトルが描かれている。

 本屋にやって来た客がそれを手に取るか取るまいかの要である肝心の表紙は、ふたりの人間が向き合う形の、あの有名な騙し絵をモチーフにした影絵だ。

 手に取って裏返すと、定価1800円のバーコードの上に500円のシールが貼ってある。それだけでも安い。だがそれに加えて、500円シールに半分重なるくらいのところに105円シールが貼られている。つまり、中古本として100円にも満たない値段で買い取って500円という値を付けたものの、それでも売れない為に、セール品の105円コーナーに移動させられたのだ。

 そこには同じ表紙の本がまだまだ数冊並んでいる。105円が一冊二冊三冊。周りに並んでいる本は、黄ばみや日焼けが目立つような古いものばかりだった。

 急に悲しい気分になって「愛のある部屋」をもとあった場所に戻す。

 俺は、中古本や古本という類いの店では本を買わない主義だ。それがたとえ自分の書いたものでも。

 本は、誰にも触れられていない――暴かれてないまっさらな新しいものを正規の値段で買いたい。年代物や初版や絶版したものなど特定のものを求めて古本屋を物色するのならともかく、新書として本屋に並んでいるものをわざわざ中古で買うのは、未だに納得できない。

 一度か二度読んだだけで本を売ってしまう人は、どんな思いで本を読んでいるのだろう。

 本というものは、初めて夢中になって読んで、その興奮が醒めない内にまた何度か読んで、そして飽きた頃もしくはあえて時間を置いて忘れかけた頃にまた読む。そうすると紙面上の文字だけじゃなく、その裏側に隠された意味、言葉にならない透明のなにか――著者が真に伝えたかった何かがじわじわと染み出てきて、初めて読んだ時と違った味わいに気付くことができる。それが読書のおもしろさだ。

 職人が何年も何十年も使い込んでようやく手に馴染んだ道具は、もはや腕の延長というに相応しいのと同じように、その本に込められた著者の思いと重なって、いつの間にか読者は本を書く著者自身になる。その時こそ、読者の最高の楽しみの瞬間であり、読書の醍醐味だ。


 「愛のある部屋」は、去年作家としてデビューして10年の節目に書いた作品だった。

 仕事場となっている自宅のリビングでその原稿用紙の束を見ていると、随分苦労して書き上げたのであろうひどく乱れた字と、推敲の跡があちこちに残っている。まるで幼い頃の、薄れた写真を眺めているような気分だ。懐かしさと共に、ここに()がいる――と感じる。

 小説はあくまでフィクションであり虚構であり、現実のものではない。登場人物たちも、探せばすぐそこにいそうな人間でありながら、実はそうではない。そんな虚構を虚構とせず、より肉感的に、生々しく、読者にとって身近なものにするには、やはり虚構の中に自分自身も飛び込まなくてはならない。著者も、読者も。

 俺はいつもひとつの本を書き上げた後には、自分が磨り減って魂が半分以上持っていかれたような気分になる。そして改めて読み返すと、そこかしこに俺自身を感じるものだ。よく、小説に登場する人物を自分の息子のようだ、分身のようだなどと話す作家がいるが、それも頷ける。

 俺にとっては、どの登場人物も俺だった。

 男でも女でも、たとえ真逆に思える性格の人物たちでも、彼らは俺だった。

 売れない画家の嶋津豊はもちろん、同棲8年目になってもプロポーズしてくれない恋人に不満を募らせる秋元由香里も、世間には公表出来ない同性愛に悩む真宮光一と崎原佳那汰も、旦那に愛想つかしてホステスとして働き始めた主婦・深津亜美も、ひとりで三つ子を育てるシングルマザー・小林裕美子も、独身のまま四十代になって将来に不安を感じ始めた雑誌編集長・野中一義も不倫問題で家庭に居場所のないタクシー運転手・廣瀬達也も。誰もかれもが俺だった。

 彼らの言葉は、俺の言葉だ。彼らの中あちこちに、俺が持つあらゆる一面、一面が現れている。しかしそれは、たとえば嶋津豊個人を通して、嶋津豊個人の言葉でもあった。嶋津の唯一の、彼らの唯一の――…小説とは、そういうものでないといけない。

 そしてまた、語りすぎてもいけない。小説は豊潤な「偽り」に満ちたものだから。

 小説の言葉にリアリティーや真実味を生み出すものは、その偽りでもあった。愛という言葉はもちろん愛を語ると同時に憎しみをも、その他の感情をも表す。真実のみを描写するのでなく、あえて偽りの描写で真実を語るものこそ、本物だ。

 その欺瞞の裏に、真実はない。それは、欺瞞こそが真実になってしまうからだった。


「こないだのインタビューが載ってる文芸座談二月号、送ったはずだけど、見たか?」

 しばらく鳴り続けていた電話を取れば、相変わらずのだみ声が言った。長く世話になっている出版社で、ひとつ気に入らないことがあるとすれば、このだみ声の編集者だ。

「すぐに返事しないってことは、その辺探してるだろ」

 石田は俺と同い年で、デビューした当時からの付き合いだ。

 やつの電話はいつも、連載の催促や出版のトラブルや、俺が嫌いな仕事の依頼の連絡ばかりだった。

「ああ、それとな、来月の――」

「しばらく休載するって言っただろう? お前もいいって言ったじゃないか。今更書けなんて言われても、無理だからな」

 受話器を肩に挟んで、机の右側に積み上げられた沢山の資料、厚い本をひと塊りずつ丁寧に床に下ろしていくと、これまた分厚い歴史書の下からA4より少し大きめの封筒がはみ出ている。封筒の薄い黄緑色は、いつも石田の出版社が使うものだ。掴んだ感触で、中身が石田の言う雑誌だと分かる。

「そう言うなよ、先生。こっちもちょっと、困ったことになってんだよ。緊急なんだ。……おい、聞いてるか? あっ、おい、切るなよ、おいっ」

 石田が「先生」なんて呼ぶ時には、碌なことがない。

 このインタビューの記事だって、ひどいものだ。言ったことが全部、勝手に編集されるんだから。文芸座談なんて、誰が読むんだ。

 こういう類の雑誌は、記事になったものに自分が喋ったことの三分の一でも載っていれば万々歳というくらいだ。記事にする過程で既に、俺の手から離れて他人の意図するものになるのだから、とても危険だ。もしこういうインタビューを読んで勘違いされたら、堪ったものじゃない。

 自分の言葉(アイデンティティー)を他人に弄くられているような嫌な気分。誰かが俺の仮面をつけて、嘘八百を並べてる。

 それは偽りでも何でもなくて、ただの質の悪い、予測不能の子供の悪戯に遭遇するよりも酷い嘘なのだ。

「ああ、もう、うるせえ! 石田お前いい加減に――」

 さっきから絶えず鳴り続けている電話は、一瞬ふっと静かになって、またうるさく鳴り響く。それが二度か三度か続いて、いい加減電話線を抜いてしまおうかと思ったが、その前に受話器に向かって怒鳴ってやれば――俺は思いもかけない声を聞いた。

「なに怒ってるの――ああ、もしかして、例のインタビュー記事? この前、私も病院の待合室で読んだの。これ、あなたが読んだら怒るだろうなって思った」

 ひゅ、と喉が鳴った。声が上擦って、「う」とか「あ」とか無意味な言葉で返事をする。動悸がした。

「よく分かったなって? これでも、先生の熱心な読者だから」

 俺にはこの言葉が、彼女の本心からなのかお世辞なのか、分からない。だけどもしも本当に、彼女の本心からだったとしても、それならどうして――そう思ってしまう。

「……それで、今度の日曜のことだけれど。また四時には迎えに行くから、それまで利奈のことお願いね。利奈、来週のこと楽しみにしてるから」

「あ、ああ、うん、……」

 未だに、この調子に慣れない。ひと月前も何も言えなくて、頷くことだけしかできなかった。今回も同じだ。自分ではいつもと変わらず冷静でいるつもりなのに、実際は一言返事するにも戸惑っている。

 無言になったら切れてしまう気がして、焦って声を出す。

「それで、その、お前は、……」

「……今のところ落ち着いてるかな、病院変えて良かったみたいよ。――それじゃあ、来週」

 切れた電話は、もう鳴らない。

 思えば、彼女は最高の読者だった。だけど、彼女が俺に求めたものは作家の俺じゃなかった。


「ねえパパ、今度は、利奈にも読める本を出してよ」

 近所の商店街にあるケーキ屋で買ってきたチーズケーキを食べて、さっきまで夢中になってテレビゲームをやっていた利奈が、唐突に言う。

「これ、パパのでしょ」

 利奈が両手で翳したのは、テーブルの隅に置き忘れていた「愛のある部屋」だ。利奈はしたり顔で、

「家にあるもの。でもね、ママが利奈にはまだ早いって言うの」

 と付け足した。

「もうハリー・ポッターだって読んじゃったのに」

 少し不満げに唇を尖らせて、本を膝の上に乗せる。母親に言い付けられているからか、それを開いて見ることはしないものの、悔しいのか悲しいのか、不思議な表情をしている。

「パパは利奈が好きなものを読めばいいと思うから、読みたいものを読みなさい」

 俺がこのくらいの時には、どんな本を読んでいただろう。

 俺が利奈くらいの頃は、アルセーヌ・ルパンシリーズを夢中になって読んでいた。児童書だからといって侮るべからず。俺は特に、新潮文庫の堀口大学が訳したものが好きだ。あの古めかしさが気に入っていた。ただし「813」「続813」は偕成社のものが良い。今また読み返しても、きっと夢中になる。

「そうして利奈、気に入った本があったのなら、それをずっと大切にして。パパのじゃなくてもいいから、五年十年して大人になって、また読み返してみて」

 じっと、素直できれいな瞳を見詰める。

 子供の目は、どうしてこんなにきれいなのだろうと、いつも思う。ただ無垢なだけでなく、時に力強く、確かに、見るものを見ている目だ。

 利奈は、うんと大きく頷いた。

「じゃあ――パパ、またね」

 利奈が振り返り、手を振る。少し寂しそうな顔は、母親が手を引いたことで、前を向く。

「じゃあ、……ありがとう」

 おう、と一言返して、思い切って、手を振る。

 ふたりの姿がエレベーターの中へ消えて、ぎこちなく、手を下ろす。利奈と過ごしたのはたった数時間というのに、部屋の中は、何かが欠けたような違和感でいっぱいだった。

 資料で散らかった机に着いて、受話器を取る。

「もしもし――俺だけど。この前、言っていたやつ、短いものなら書くよ」

 電話の先で、だみ声が不思議そうに、

「どういう心境の変化だよ」

 と疑っている。

 灰皿を引き寄せて煙草を探しながら、石田の言葉を考える。積み上げた本の上に、文芸座談が置いてある。それが滑り落ちて、大きな音を立てた。床に一緒に落ちたライターを拾い上げて、雑誌をもとに戻す。

「俺は……書くことしか、できないからな」

 しばらくして、石田が分かったと頷いた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 気に入った本を買って、それを何度も読む。私も同じです。買ったものばかりではなく、時が過ぎて、時間があると思い出したように自分が書いたものを何度も読み返す。そこにまた次の〈ヒント〉が生まれる…
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