①知られなかった物語
穏やかな田舎の村に住む、特別美しいわけではないが心優しい娘が
ある日 生き倒れ、記憶を失った男を拾った。
二人はいつしか惹かれあうが、男は実は王族で…。
なんて物語は今や王道となった物語だ。
けれどもし、この男に恋人や妻子がいたとしたら?
これは裏側ストーリー
語られない物語
それでも確かに、そこに存在していた
①知られなかった物語
世界は理不尽で満ちている。
だが、理不尽を嘆くばかりでは何も変わりはしないのだ。
そう教えてくれたのは、私の大切な人だった。
だから、あがいてみようじゃないか。
さぁ、始めよう。
これは語られない物語だ。
バンっと騒々しく一室の扉が開かれた。
扉の前で入室を戸惑っていた侍女がひどく驚いて目を瞠っていたが、扉を開けた自分の主人を見ると泣きそうに顔をゆがめた。
そんな侍女に主人は苦笑いをこぼす。
「心配掛けてごめんね。もう大丈夫だよ、シンリィ。」
「リーゼリエ様の〝大丈夫〝は信用なりません。」
声を震わしながら、それでも即答する侍女、シンリィの彼女らしさにリーゼリエは微笑んだ。
「手厳しいなぁ。でも、本当に大丈夫だよ。いいこと思いついたんだ。手伝ってくれる?シンリィ。」
「リーゼリエ様の〝いいこと″は城の者にとって〝悪いこと″でございます。」
ぴしゃりと言い放たれ、リーゼリエは身に覚えがありすぎて思わず目が泳ぐ。
「ですが、仰せのままに。リーゼリエ様。私が生涯お仕えするのは貴女様だけでございます。」
そう言ったシンリィの声はもう震えてはいなかった。
リーゼリエはまっすぐ向けられる目に困ったように笑う。
「ありがとう。」
先の戦で行方不明になっていた夫が帰ってきた。
無事で帰ってきたのは何よりだ。
けれど、夫は記憶を失っていた。
代わりに女を連れていた。
いっそのこと、記憶を失くしていなかったらボコボコにして、それですんだというのに。
バンっとまたしても騒々しい音が響いた。
今度は扉を開く音ではなく、机をたたく音だった。
それは城の一番大きな会議室からで、その音に次いで男の怒声が飛んだ。
「貴女様は正気でいらっしゃいますか!?」
それは会議中に突然乱入してきた女…リーゼリエに向けられたものだった。
だがしかし、顔を真っ赤にして憤る男とは対照的に、リーゼリエは冷静…と言うよりは余裕があるように見えた。
「正気よ、正気。何をそんなにかっかしてるの? 私みたいなじゃじゃ馬でも何とかできたんだから、あんな大人しい人、貴方たちなら簡単でしょう?」
そんなリーゼリエの物言いに議員たちはいつにも増してざわつき、怒鳴った男はさらに憤る。
「そのようなことを申し上げているのではございません! それではまるで貴女様のお立場がー…」
しかし、それを制したのは議員の中で唯一冷静だったこの国の宰相だった。
「卿よ。少し落ち着かれよ。」
短く静かなひとことは、しかし、ざわついていた議員たちまでをも黙らせる迫力があった。
「さっすが。」
それを見てリーゼリエは茶化すように笑った。
しかし宰相は眉ひとつ動かさず、リーゼリエを見返す。
「それは、ほんとうに貴女様のお望みなのですね?」
「ええ、そうよ。」
即答してから少しの沈黙が生じた。
空気が張りつめ、だがそれもつかの間。宰相が小さなため息をついて沈黙を破った。
「わかりました。では、貴女様のお望みのままに。」
その答えにリーゼリエは微笑んだ。
「ありがとう。」
その笑顔があまりにも清々しかったため、宰相は少しだけ顔しかめた。
だがそれを隠すようにリーゼリエの手を取ると、ひざまずきその手の甲を額にあてた。
「ですが、私は貴女のことを忘れはしません。リーゼリエ王妃。」
そんな宰相にリーゼリエは先ほど、シンリィに見せたものと同じ笑みを浮かべる。
そして、ひざまずく宰相に合わせるようにかがむとそっとささやく。
「――――――――。」
それから、すくりと立ちあがると軽やかに扉まで歩いていき、まるで戯曲のワンシーンのように扉を開け放つ。傾きかけた陽の光が急に差し込む。
眩しさに目がくらんで、思わず目を細める。
その時には、もう扉の外に出たリーゼリエが仰々しく礼をする。
「それではみなさま。」
その顔は逆光で見えなかったが、その声は何よりも軽やかだった。
「どうか、お達者で。」
ぱたんと、あっけなく扉は閉まり、議員たちはそれをただ見ていることしかできなかった。
「…閣下。何故、王妃様を行かせてしまったのですか?」
リーゼリエが出ていってからしばらくの間沈黙が続き、それに耐えかねたように怒鳴った男が宰相に静かに尋ねた。
しかし静かにというのは落ちつきを取り戻したふうではなく、なんとか激情を押し殺している様だった。
そもそも、こんなにも議会を騒がせたリーゼリエの爆弾発言とは。
それはさきほど、リーゼリエが言っていた”いいこと”だったりする。
やはり、リーゼリエのいいことは城の者にとって悪いことだというシンリィの言葉は真理をついていた。
リーゼリエのいう"いいこと”
現王妃が城から出てくから、王の連れ帰った娘を王妃にしたげてよ。
幸か不幸か、リーゼリエは王妃の座についていたものの、その姿は非公開としていた。
それは、リーゼリエが平民だったことや、特別美しくなかったということもあったが、
何より、彼女自身がそれを望まなかったからであろう。
それでも、平民であったリーゼリエは正式に王妃になるまでに途方もない努力をしてきた。
そうであるのに、途中で急に現れた何の努力もしていない娘にこうも簡単に王妃の座を譲ることが男には理解できなかったのだ。
だが、宰相は男に冷たく言い放った。
「貴殿はあの方の一体何を見てこられたのです?
あの方が地位や名誉が目的で王妃であったわけではないことぐらい明瞭でしょう。
あの方が王妃であったのは、陛下がこの国の王であったからこそ。
“その陛下”がいなくなってしまった今、王妃の座に何の未練があの方にありましょう?
それとも、貴殿は"今の陛下”と"あの娘子”のいるこの城に、あの方を縛りつけておくのがよいとでも?」
宰相の言葉に男は押し黙ることしかできなかった。
そんな男を一瞥して、宰相は今度は議員たちに言葉を向ける。
「あの方は優秀なお方だった。手放すには惜しいというのはもっともな意見だ。
だが、あの方は陛下が不在であったこの二年間、ほんとうに尽力してくださった。
陛下のいないこの国のために。」
そこで一息おいて、ぐるりと議会を見渡す。それは彼女とその夫が築いた議会だ。
「もう、あの方を解放してさしあげよう。」
そのひとことは、静かな会議室に響きわたった。
パァンと今度はこぎみのいい音が響いた。
予想をかなり上回る衝撃に男はヒリヒリと痛むほほを押さえることもせず呆然としていた。
あわてて、一人の娘が男にかけよる。
「あー、ちょっとスッキリした。」
一方男に平手をかましたリーゼリエはひらひらと叩いた手をふる。
「ごめんね、これはもう八つ当たりなんだけど、その顔みてるとつい、ね。
だから、別にあなたの謝罪が気に食わなかったわけじゃないのよ?
というか、そもそもどうして謝ってるわけ? 私、あなたに何かされたっけ?」
「それは…っ!」
「私に謝らなきゃならいのは、前のあなたであって、今のあなたじゃない。」
ぴしゃりと言い放たれた言葉に男は押し黙るしかなかった。
リーゼリエはそれを納得したように眺めると、男に寄り添う娘に目を向けた。
「一つ、きいてもいいかな?」
びくりっと娘の肩が揺れ、酷く怯えた目でリーゼリエを見上げる。
「…はい。」
ようやく絞り出した声も小さく、ふるえていた。
そんな娘の様子にリーゼリエは小さく苦笑いする。ずいぶんと恐れられたものだと。
リーゼリエは何もしていない。娘は自身の行いの罪悪感からリーゼリエを恐れているのだ。
(これじゃあまるで私が悪者。)
リーゼリエからしてみれば、娘が加害者である。それでも、娘からすれば加害者はリーゼリエだ。
(まったく、つくづく人ってのは自分本位ね。)
心がスッと冷えていくようだった。苦笑いも消える。
「貴女には、今この限りだけ二つの選択肢があるわ。
一つは今すぐ荷をまとめて故郷へ帰り、彼を忘れ平穏に生きる道。
もう一つは、この王宮と言う名の地獄で彼を支えて生きる道。
さぁ、どちらを選ぶ?」
「彼を支えます。それがどれほど大変であろうとも。」
娘は即答した。
そのことにリーゼリエは安堵する。
もし少しでも迷おうものなら、故郷に追い返してやろうと思っていたからだ。
迷うぐらいの覚悟なら王宮では生きていけない。
だが、それにはリーゼリエがもっと嫌なやつになる必要があった。それはいささか面倒だった。
「そう。」
リーゼリエはひとことで返事をすると、今度はまた男を見る。
「って彼女が言ってんだから、あんたは何からも彼女を守りなさいよ。」
そう言うと同時に、男の胸倉を掴み上げて無理やり身体を起こさせる。
「私を不幸にしといて、彼女まで不幸にしたら許さないわよ?」
にっこりと笑う顔はしかし、目が笑っていなかった。
予想以上の怪力と迫力に男は気押されそうになったが、しっかりとリーゼリエを見返した。
「そんなことはしないと誓います。」
その瞳は、別人のように変わってしまった前の男と重なった。
「よし。」
リーゼリエはそれに満足そうに笑うと、男の胸倉を離す。
「それからもう一つ。国民を不幸にしたらその首、はねに来るからね」
そう言ったリーゼリエの表情は、彼女の生涯で最後に見せた"王妃としての表情”だった。
その気迫に気圧された二人をほったらかして部屋の扉に向かう。
「健闘を祈るわ。」
最後にそれだけ言い残して、リーゼリエは部屋を出た。
リーゼリエが自室に戻るとすでにシンリィがひかえていた。
「手はずは整いました。」
リーゼリエはシンリィの有能さに改めて感嘆する。
「ありがとう。」
「リーゼリエ様、やはり私をともに連れて行ってはくれないのですか。」
シンリィの問いにリーゼリエは苦く笑った。
「未来ある伯爵令嬢のあなたを堕落の道には巻き込めないよ。シンリィには幸せになってほしいの。」
「貴女を見捨ててつかむ幸せなどほしくありません。」
「私だって同じだよ、シンリィが不幸になることがわかってて私に付き合わすことはできない。」
「どうして私が不幸になると決めつけるのです?」
「じゃあ、シンリィこそどうして私が城を出ることで不幸になると思うの? “私を見捨てる”なんて言うんだから、そう思っているんでしょう?」
リーゼリエの容赦のない言葉にシンリィは言葉が紡げなかった。思わず泣きそうになる。
そんなシンリィを見て、リーゼリエは申し訳なさそうに笑って言う。
「ごめん。ちょっと意地悪言った。でも、本当に大丈夫よ? 私は不幸になるために城を出るんじゃない。幸せになるために城を出る。でも、その幸せはシンリィにとっての”幸せ”ではない。だから、シンリィは連れていけない。」
シンリィはただ泣くのをこらえて、それでもリーゼリエの目を見つめる。
そんな彼女をリーゼリエはいとおしく思う。
ここにきてから、いろいろなことがあった。彼女はそのかたわらでいつも支えてくれた。
親友で、兄弟のようで、あの人がいなくなった今、何よりも大切な人。
リーゼリエはシンリィの額に自分の額をあてる。
「ねぇ、シンリィ。幸せになって。そしたら、私も幸せになってみせる。」
それでもシンリィはうなずかなかった。ただまっすぐにリーゼリエの瞳を見据える。
それは彼女の意地だった。リーゼリエは微笑った。
彼女は彼女らしく在る。今までも、これからも。
だからリーゼリエも自分らしく在ろうと思う。今までも、これからも。
さぁ、はじめよう。
これは語られない物語だ。
それでも自分らしく在れるように。
理不尽に屈しないために。
「今まで、本当にありがとう。シンリィ。」
リーゼリエがシンリィから離れると、シンリィは挑発的に言った。
「…私は必ず幸せになってみせます。」
“だから、貴方も幸せになれ”と。
「互いの身に、神の加護がなきことを。」
シンリィは最後にそう言って笑った。
リーゼリエも、そのおかしな別れ言葉の、しかし意味深な言い回しに心から笑った。
そして、城を後にする。
これは、知られなかった王妃のお話。