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 目的の喫茶店は古い洋館を模した赤レンガのお洒落な建物だった。中もアンティークなインテリアでコーディネートされていて、落ち着いていた。コーヒーの芳ばしい香りが満ち溢れる暖かい空気に包まれ、有紀はほっと一息つく。

 窓際の席に案内された。レトロな椅子は意外なくらいに心地よい。

「あなたとこうして座るのは二回目ですね」

 石井がおしぼりで手を拭きながらさりげなく言った。

 そう言えば立花莉子の事を調べに刑事が来た夜、石井に誘われて居酒屋に行った。石井の沈痛な面持ちを思い出し、有紀は気持ちが硬くなるのを感じた。

「今日はあなたと一緒で良かった。一人で音楽聴いて、黙って電車に乗って、一人寂しく家に帰ると、妙にわびしく感じるんですよ」

 有紀の気持ちとは対照的に、石井の口調には翳りはない。立花莉子の事は石井の中でも『終わった事』になったのだろうか。

「もう大丈夫ですか?」

 口にしてから有紀は後悔する。わざわざ尋ねる必要がどうしてあるのだろう。

「なにが?」

「……立花……莉子さんの事」

「ああ。あの時は確かにショックでした」

 石井はふうっと溜息をついた。

「立花さんは……自分なりに思い入れがあった患者さんだったから、本当にショックでした。研修医時代から彼女の事を知っていたから」

「え?」

 初耳だった。

「担当患者って訳じゃなかったんですよ。彼女、中学生だったかな。集団療法のメンバーだった」

 という事は十年くらい前の話だ。

「グループの中でもトラブルの多い子だった……。集団療法の場ですら居場所がなかった。なんとかしてあげたいと思ってたんだけど……僕もまだ未熟でしたから。いや、今も未熟ですけどね」

 有紀はふいに心の奥底がひっかかれるような気がした。

「可哀そうな子でした。両親からの虐待、薬物依存、セックス依存、まだ十代だというのに……。彼女を思いやる人が誰もいなかった」

 石井は遠い目をしていた。あの女の話は面白くなかったが、口を挟むのははばかられた。

「なんとかしてあげたい。……典型的な陽性転位で、医者の領分をはみ出した感情だって今ならわかるけど、当時は僕も若かったし、未熟だった。……いや、でも結局彼女を救えなかった。いつまでたっても未熟者だな」

「人が人を救えるなんていうのは、幻想です」

 有紀は静かに、しかしきっぱりと言った。石井は目を瞬かせ、一瞬言葉をうしなったようだ。

「……きついなぁ」

 しばらくして、石井が苦笑いしながら呟いた。

「妹を助けたいと思って看護の道に進みました。でも結局何も出来ませんでした」

「妹さんを……そうですか」

「人に人は救えない」

「そうだろうか」

「そうです」

 人は人を貶める事は出来ても、救う事など出来ない。有紀は心の中で呟いた。

「私、看護師をやめようかと思ってます」

「え? そうなの?」

 石井が目を見開く。

「医療から離れて、全然違う仕事しようかと思って」

「なんでまた」

「私には看護師は向いてないから」

 血に汚れた手で人の命を助けるような仕事に従事するべきではない。白衣の天使などという称号は自分には相応しくない。天使の羽根はもうちぎれてどこかに行ってしまった。

「そんな事は……。もう次の仕事は決まったの?」

「いえ。探しているところですけど、クリニックは年度末にはやめようと思ってます」

「佐倉先生に、その事は?」

「まだ言ってません。美樹子さんにも。石井先生が初めてです」

「そうなんだ……。光栄というべきか、なんというべきか」

 石井の顔に困惑の表情が浮かんでいる。

「年度末なんて、もう一カ月ほどしかないじゃないか。佐倉先生、悲しむだろうな。なんか残念だなぁ」

「すみません」

 有紀は頭を下げた。

 その後二人の会話は途切れがちになり、コンサートの話を思い出したようにしながら、早々に喫茶店を後にしたのだった。

 看護師をやめて、クリニックを去る。石井と会う事もない。あの女の事はもういいじゃないか。理由はどうであれ、死んだのだから。あの女の命と引き換えに、自分の身を十二分に汚した。それで終わり。

 言葉少なに隣を歩く石井の横顔を見ながら、有紀はぼんやりとそんな事を考えていた。そう。確かにその時はそう思えた。

 

     

<続く>

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