再びの復讐
十日ばかりが過ぎた。有紀はいつも通りの日常を送っていた。
クリニックは相変わらず、のんびりと時間が流れ、美樹子はあくびをしながらカウンターの陰でこっそり週刊誌を読み、有紀はいつも通りの仕事をこなしていた。
斎藤はあれ以来姿を見せず、有紀の周りに立花莉子の匂いを感じさせるようなものはなにもない。
まるで何もなかったかのようだ。
斎藤と関係を持ったからと言って、自分の中で何が変わったのか、有紀にはまるで実感はなかった。胸元にポツンとつけられていた斎藤の唇の痕もすぐに消えたし、破瓜の痛みすら二日ほどで消え失せた。自分自身への嫌悪感が生まれたということもなければ、斎藤への思慕が湧いたということもない。残ったのは軽い失望感だけ。
こんなものか……。
もう少し自分の中の何かが変わるのではないかと、実は少し期待もあったのだ。それが何かは自分でもわからない。香織への負い目なのかもしれないし、自分の価値観なのかもしれないし、もっと他の物なのかもしれない。もしかしたら、立花莉子への仕打ちに対する贖罪の気持ちが湧きあがるのではないか、そんな恐れにも似た予感があったが、結局なんの変化もなかった。
所詮、こんなものだ……。
それにしても、莉子が何故こんな行為に執着して次々と男をたらし込んできたのか、ますますもって理解できない。やっぱりあの女は愚かだ。そしてあんな女にひっかかる男も愚かなのだ。そんな愚かな人間に羽根をもがれて死んでしまった妹が、ひどく哀れに思えた。
「なにか良い事あったの?」
診察室を掃除していた有紀に佐倉が声をかける。
「はい?」
有紀が振り向くと、佐倉は回転椅子にふんぞり返って腕組みをしながらにやにや笑っていた。よく日焼けしているのは正月にハワイに行ったからだろう。にやにやしている口元の白い歯がやけに目立つ。ただでさえドクターには見えないのに、ますます見えない。
「いや、最近上条さんが綺麗になったって美樹子さんが言ってたからさ」
「はい?」
思わず目を瞬かせる。
「そう言われて見ればそうだな~っと思って。なんか目がさ、潤んでるって言うか、艶っぽくなったって言うか」
「そうですか?」
思わず首をかしげてしまう。
「化粧品変えたとか」
「変えてません」
「サプリをたくさん飲んでるとか」
「飲んでません」
「彼氏が出来たとか」
「出来てません」
有紀はきっぱりと否定した。斎藤の顔が一瞬脳裏に浮かんだが、瞬殺した。あんな男を彼氏だなんて思いたくもない。
「おっかしいなぁ。君の変化はきっと女性ホルモンが増えたんだと思うんだけどなぁ。フェロモンがこう、じわ~っと」
「いい加減にしてください。セクハラですよ、セクハラ」
佐倉はぴっと小さく舌を出して見せた。
佐倉はいつものんきで、少々お調子者のような印象を受けるが、人懐こい笑顔は石井のそれとはまた違っていて、初対面でもまるで友達だと勘違いしそうな敷居の低さを感じさせた。通院患者に言わせれば、癒されるのは石井で、喋りたくなるのは佐倉らしい。有紀にもわかるような気はする。
「ところでさ~、有紀ちゃん、クラシックは聴く?」
「クラシックですか?」
「そ」
「時々。嫌いではないです」
待合室の有線のチャンネルをクラシックに合わせるのは有紀だ。美樹子はすぐにK-popのチャンネルを選ぶ。
「家内の甥っ子がさ、ピアニストの卵なんだよ。で、初リサイタルするんだけど、なかなかチケットがはけなくてね。良かったら聴きにきてやってよ」
「いつですか?」
「今度の日曜日。あ、もしかして、デート?」
「ちがいますってば! 日曜日空いてます。リサイタル、行かせてもらいます」
「ほんと? いやあ、助かるわ。これ、チケット」
佐倉はデスクの引き出しを開けるとチケットを取りだした。
「一枚でいい? 彼氏のはいらないの?」
「一枚でいいんですってば」
佐倉は有紀のしかめっ面をみて楽しそうに笑いだした。
佐倉の甥はまだ音大を卒業して間もないが、国内のピアノコンクールではなかなか良い成績を残しているようで、これから売りだしたいという駆け出しの音楽家だった。が、まだ大きなホールを借りるような身分ではなく、地元の市民ホールでのリサイタルである。市民ホールとは言え、席の数は三百ほどあり、なかなか満席にはならないものだ。
有紀は席につくと周りを見回した。せいぜい七割程度の入りといったところか。それでも上等だろう。
「上条さん」
ふいに声をかけられる。びっくりして声の方を見ると石井が立っていた。いつもポロシャツを着ている印象が強い石井だが、今日は少し改まったジャケットを羽織っていた。クラシックのコンサートというのを意識しているのだろう。
「あなたも佐倉先生にチケットを?」
「はい。先生も?」
「はい」
顔を見合わせて、二人してくすっと笑う。有紀は周りを見渡した。
「佐倉先生も来られてるんですか?」
「いいえ、佐倉先生は学会出張を名目にどこかに雲隠れです」
石井が笑いながら答えた。
「人にチケット押し付けて……」
「佐倉先生ならきっとコンサートの最中にいびきかいて寝ちゃいますよ」
違いない。有紀はその図を想像してくすっと笑った。
「隣、空いてますか?」
「はい。どうぞ」
石井は有紀の隣に座った。
「よく来るんですか? クラシックのコンサート」
石井が聞いてくる。
「いいえ。もっぱらCDです。コンサートは、十年ぶりくらいかしら。年末に第九を聴きにいったくらいで」
「僕も普段はCDですよ。それにしても佐倉先生の甥っ子さんが、ピアニストなんて初耳でした」
「奥様の甥っ子さんでしょ?」
「そうでしょうね。だって佐倉先生、医局の飲み会ではいつも堀内孝雄でしたから」
石井が思いだし笑いをする。佐倉の事だ。モノマネなんかをしながら熱唱するのだろう。
「そっちの方が想像できます」
有紀も思わず笑い出した。
リサイタルが始まる頃には客席は八割程埋まっていた。
今時の線の細い青年が舞台に登場し、ピアノを奏で始める。
複雑なメロディーラインはきらきらとした輝きを帯びていて、時折不協和音のような響きを含んでいる。その和音はふいに心を揺るがせるような不安さを持ちながら、それでも滑らかに空間を流れて行く。
ピアノの音色の奔流に身をゆだね、有紀は目を閉じた。
流れはうねり、よじれ、ゆっくりと、急に速さを増しながら、有紀にまとわりつく。目まいを覚えるような音楽の渦は、ふいに斎藤との交わりの時に感じた波を思い起こさせた。心を乱すような不協和音の、どこか官能的な響きに有紀は浸っていた。
コンサートは途中で休憩をはさみ、二時間足らずで終わった。お約束のようなアンコールを聴き終わり、聴衆が席を立ち始める。会場のざわめきがにわかに高まった。
有紀はふうっと深い溜息をついた。正直なところ、ピアノばかりの二時間は長く感じられた。
その様子を見た石井がにっこりと笑いかける。
「お茶でも行きましょうか」
「そうですね」
二人は席を立ち、通路の人の流れがひとしきりおさまってから歩き始めた。
外は日が傾き、黄昏色に染まっている。
「夕ご飯にはちょっと早いかな」
石井が腕時計を見た。
「ちょっと歩くんだけど、美味しいコーヒーを出してくれる喫茶店があるんです。そこでいいですか?」
「はい」
二人は歩道を歩き始めた。
「リストにドビュッシー……。これ見よがしの選曲だったのが今一つだったなぁ」
「そうなんですか?」
石井はクラシックに詳しいようだ。
「超絶技法なんだって。弾きこなすのが大変らしいですよ」
有紀は首をかしげながらもう一度手にしたパンフレットを見た。確かに前半はドビュッシーの曲、後半はリストの曲が並んでいた。
「でも、前半の曲、嫌いじゃないです。後半は……ちょっと寝てしまいましたけど」
有紀が肩をすくめると石井が笑いだした。
「確かに。横見た時、気持ち良さそうに寝てた」
「やだ。見てたんですか? つついて起こしてくれればいいのに」
有紀は軽く石井を睨む。
「いやいや、いい音楽というのは気持ちよく眠られるというのが僕の見解ですから。あなたが眠れたということは、きっと彼はいいピアニストなんですよ」
石井が笑いながら答える。その屈託のない笑顔が新鮮に見えた。静かで穏やかなほほ笑みは見慣れているが、こんな風に声を出して笑う石井を見るのは初めてかもしれない。
「どうかしました?」
有紀の視線に気がついた石井は怪訝な顔をする。
「いえ……」
有紀は慌てて首を振った。
「わかった。きっと僕の事、クラシック・オタクだったんだとか思ってるでしょう」
「いえ……はい」
石井はくすくす笑い出した。
「上条さんって結構面白いですね」
「そう、ですか?」
「ええ。正直な人だなぁ……と」
有紀は首をかしげる。
「最近綺麗になったって噂ですし?」
「またその話。石井先生まで」
思わず唇をとがらせる。
「いやいや、冗談は抜きにして、ちょっと変わりましたよ。何かふっきれた感じがするというか」
一瞬どきっとする。
「ふっきれた……というよりは、開き直ったんです」
自分で言ってから納得する。そうだ、開き直ったのだ。三年越しの復讐を果たし、斎藤に身を任せる事で自ら堕ちるところまで堕ちてやろうと決めた瞬間に。
「そう、開き直ったんです。多分」
<続く>