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 翌日、仕事から帰るとマンションの前に斎藤が立っていた。いつものラフな格好ではなく、ジャケット姿だ。あのトレードマークのような怪しげなサングラスも外していた。手に何やら紙袋を下げている。一瞬マンションを訪れたセールスマンかと思ったくらいだ。

 斎藤は有紀の姿を見つけると神妙な表情で頭を下げた。

「ごめんなさい。謝ります」

 無視して通り過ぎようと思っていたのに、有紀は思わず立ち止まってしまった。

「なんの真似、一体」

 一瞬あっけに取られたが、すぐに昨日の憤りが蘇って来た。

「もう逢わないって言ったでしょ。帰って」

 そしてマンションに入ろうとしたが、斎藤は再び深々と頭を下げた。

「余計な事を言いました! ごめんなさい!」

 莫迦でかい声だった。二階のベランダで洗濯物を取り入れていた主婦がびっくりして覗きこむのが見えた。

「ちょ、ちょっと」

「反省してます! 許して下さい!」

「やめてよ、格好悪い」

 有紀は慌てて斎藤の腕を引っ張った。お構いなしに斎藤は大声で謝りながら最敬礼の深さでお時儀をする。

「申し訳ありませんでした!」

「だから、やめてってば!」

「お詫びにシュークリーム買ってきました!」

「わかったから!」

 無理やりマンションの入り口の方へと斎藤を引っ張って行く。

「一体どういうつもりよ!」

 怒鳴りつけたいのを必死でこらえ、声を押し殺しながらマンションのエントランスへと入る。外でこんな事を続けられたら、しまいにはベランダというベランダに見物人が出てくるではないか。

 エントランスに入ると、有紀は怒鳴りつけようと斎藤から手を離した。その途端にエレベーターから上階の住民が下りてきた。それもまた運悪く、顔見知りだった。有紀はぐっと言葉を呑みこみ、小さく会釈する。

 その隙に斎藤はエレベーターに乗り込んだ。

「……なに乗ってるのよ」

 有紀は怒りを噛み殺しながらエレベーターに乗り、斎藤を睨んだ。

「三階だったよね」

 斎藤が間髪をいれずボタンを押し、エレベーターの扉が閉まった。

「いい加減に!」

「まあまあ、そう言わずに」

 斎藤は噛みつきそうな勢いの有紀の唇に自分の人差し指を突きつけた。思わず、うっと言葉につまる。

 エレベーターが三階に着くと斎藤はさっさと降りて、有紀の部屋の前に立った。

「なんでこんなとこまで来る訳?」

「なんでって、だから、謝りに来た訳よ」

「謝りになんて来なくていいじゃない。別に貴方は自分のお仕事をなさっているだけでしょ。私はもう付き合いませんというだけで」

「いやいやいや。俺はだね、心から反省している訳ですよ。必要以上にアンタを傷つけてしまったな~と思ってさ」

「全然、心がこもってませんけど……」

 だんだん疲れてきた。この男、予測不可能だ。

「本当だってば。だからシュークリーム買ってきたんだって。アンタ、呑まないしさ。せめて甘いものでも食べてもらって、許してもらおうと思って」

 紙袋を差し出す。受け取るべきか拒絶するべきか……有紀は迷った。

 斎藤は有紀の右手を掴むと強引にシュークリームの袋を手首にかける。ずしりと重い。

「随分重いんですけど?」

「うん、でかいやつが六つ入ってる」

「莫迦じゃないの! 私一人で食べきれるはずないでしょ?」

「うん。俺の分も入ってるから」

 しゃあしゃあと言ってのける斎藤に有紀は頭がくらくらしてきた。一体どういう神経の男なのだろうか。

「世間的な流れでは、ここで、普通は『しょうがないわね。コーヒーでも淹れてあげるわ』って展開になるはずなんだがな」

「はあ?」

 有紀は思わず素っ頓狂な声を出してまじまじと斎藤を見た。突拍子もない斎藤の言動にすっかり毒気を抜かれてしまった。

 有紀は大きな溜息をついた。

 負けた……。

「……どうぞ。お望み通り、コーヒーでも淹れてあげる」

「そうこなくちゃ」

 斎藤はにやりと笑う。その笑みはいつもの斎藤だった。


「へ~、綺麗にしてあるな。女の一人暮らしってのは普通こういうものだわな」

 1DKのせせこましい部屋だが、有紀の部屋はきちんと片付いている。シンプルな生活が好きなので、余計な物は置かない事にしていた。ローテーブルと少し大きい棚、簡素なクローゼットと収納のついたベッド。小さなサイズのテレビとオーディオが棚の二段目を占めている。

 有紀は小さなキッチンでコーヒーを入れ始めた。

「どっかの誰かとはえらい違いだな……」

 斎藤の呟きが耳に入る。莉子のゴミ箱部屋を思い出し、心の中で一緒にするな……と呟いた。

 滅多に使わないお客様用のコーヒーカップにコーヒーを入れるとローテーブルへと運ぶ。

「俺の事嫌いな割には待遇いいじゃん?」

 斎藤は袋からシュークリームを出すとテーブルの上に置いた。

「さっさと召しあがってお帰りください」

 有紀は相手にするのが面倒臭くなってきて、クッションを部屋の隅に置くと、そこに座った。

「アンタもこっちに座ったらいいでしょが。そんな端っこに座らなくても」

 斎藤は手招きをする。

「何が悲しくて貴方と差し向かいでシュークリーム食べなきゃならないのでしょう?」

「冷たいね~。氷のようなそのクールさが……いいねぇ」

 斎藤はシュークリームを手に取ると有紀の前に突き出す。仕方なくシュークリームを受け取る。この男からはいつも何か無理やり手渡される。

「キャバクラのネエチャンの間で人気のある店でさ。いつ行っても行列してる。美味いらしいから、ま、食って」

 有紀は深い溜息をついた。

 有紀がシュークリーム一つを食べきる間に、斎藤はぺろりと二つ、あっという間に平らげていた。

「俺さ、昨日はマジで反省したんだって」

 コーヒーを飲みほして一息ついた斎藤が口を開いた。

「確かに立花莉子の事を調べてるのは、下心があるからだ。記事にして、金にしようっていう下心がな。あいつの交友関係を調べりゃ、記事を表に出す前に気前よく原稿を買ってくれるような輩も何人かいる。それに自分の潔白も証明しておかなきゃならん。警察……というか速水っていうオッサン刑事は相変わらず俺の事を容疑者の一人に入れてるみたいだし。そりゃ、まあ、アイツ騙して男と別れさせて、ナンボか貰ってっからな。黒いと言われても仕方ない。でもさ、莉子のヤツ、自分は二股も三股も平気でかけるくせに他人の二股は許せないっちゅうヤツだったからな。正直、俺の事なんか別に好きでもなんでもなかった。そのくせに、結構あっちこっちである事ない事言いまわってたみたいだから……。割にあわない話だぜ。その上に、冤罪でうっかり臭いメシ食わされるなんてお寒い話だろ? だから調べてる。……でも、アンタと何回か逢って、なんかこう、ちょっと調子が狂ったっつうかさ。目的がちょっと変わってきてるなって……」

 有紀は怪訝な顔で斎藤を見る。斎藤はぽりぽりと頭を掻いている。

「アンタは、言ってみりゃ、莉子と真逆な女だ。というか、俺が今まで知ってる女の中でも、一番異色だ」

 何が言いたいのか……。有紀は困惑した。

「核シェルターばりに鎧被って、氷みたいな冷たい目ぇしててさ……。そのくせ、時々怖いくらい熱い目ぇするし……。いや、なんて言うか、生臭くないって言うか」

「だから……なんなの」

 斎藤は目を細めて有紀を見つめていた。今まで見た事のない瞳の色だ。肉食動物の目だ……と、思った途端、斎藤の身体が動き、有紀は斎藤の腕の中にいた。

「ちょっと!」

「アンタが欲しいって思った」

 逃れようと身をよじったが、あっけなく抱きすくめられる。耳元に息がかかるような近さに斎藤の顔があった。

「冷たいアンタがどんな顔で男に抱かれるのか、そんな事考えてるとさ、無性にアンタが欲しいって思った」

「莫迦じゃないの、ちょっと、離してよ」

「嫌だね。俺を部屋に入れたのが間違い」

「信じられない」

「意外に単純にひっかかった。ガードが堅い女程、騙されやすいとは言うけどさ。いいかい、男を簡単に部屋に入れるもんじゃないよ、赤ずきんちゃん」

「ふざけないで、いい加減にして」

 有紀は斎藤の頬を引っ叩いたが、全くひるむ様子もなく斎藤は有紀を押し倒し、両手を押さえつけた。

「ふざけてない。思いっきり本気」

「それ以上やったら犯罪よ。警察に被害届出すからね」

「どうぞ。冤罪はごめんだが、アンタを抱けるんならしょっ引かれてもいい」

 斎藤の力は強かった。有紀は怒りに燃える目で斎藤を見上げた。

「最低」

「その通り。自覚はある」

「誰かに頼まれたの? その、別れさせ屋とかなんとか。それともあの女の遺言か何か? 香織の関係者をとことん苦しめてくれとか?」

「そんなはずないだろ。……アンタ、よっぽど莉子の事憎いんだな」

「そうよ」

 有紀は唇を噛みしめた。そして低い小さな声で、しかしはっきりと呟いた。

「殺したいくらいにね」

 斎藤がじっと有紀の目を見つめている。

「その目だ……。その目がたまらない」

 ゆっくりと顔を近づけてくる。有紀は顔をそむけた。斎藤は有紀の耳元に唇を寄せる。

「アンタの、その憎しみをもっと知りたい」

「お金にはならないわよ」

「金のためじゃねぇ。第一、アンタの事調べたところで、誰が金くれるんだ」

「あなたが、払うの。……高くつくわよ、きっと」

「じゃ、リボ払いで」

 斎藤の言葉に有紀は抵抗する気力が失せた。どこまで本気でどこまで冗談かすらわからない。

 どうにでもなれ……。有紀はふうっと力を抜いた。待ってましたとばかりに斎藤の顔が首筋に埋まる。

 真上にある照明のカバーに埃が積もっているのが目に入った。

 ああ、たまには掃除しなくちゃ……。

 ぼんやりとくだらない事を考えた。

 二十代も後半になっていたが、有紀はまだ男を知らなかった。周りが遊びまわっているような歳にはバイトと学校で必死だったし、香織が亡くなってからすぐに母親も倒れ、そのまま亡くなった。恋愛をするような余裕はどこにもなかったし、そんな浮かれた気分にもならなかった。人生の楽しみを何も知らずに死んでいった香織の事を思うと、自分が好きな人を作って、恋愛を楽しむという事が酷い犯罪のようにさえ思えた。だから全て封じ込めてきたのだ。

 有紀が無抵抗なのをいいことに、斎藤は手際良く器用に服を脱がせていく。手慣れているという感じだった。

 この男の事が好きな訳ではない。こんな男を好きになるはずもない。煙草と酒の匂いの沁みついた、女好きで、性欲の強い、理性の利かない動物的な男。こんな男に身をゆだねるなんて、どうかしている。

 でも、今となっては少しくらい汚れたところでなんの問題もない。だって、既に私は血で汚れているのだから。地獄に堕ちる事は既に決まっている。ならば、とことんまで堕ちるのも悪くない。

 そんな思いがうねるように心の中を流れて行く。その流れを増幅するように、時々身体の芯が疼くような別の波が押し寄せる。その波にさらわれるのが悔しくて、唇を噛みしめる。

「なんでそんな顔するんだよ」

 斎藤が耳朶を舌先でなぞりながら囁く。ぞくりと肌が粟立つ。嫌悪なのかそうでないのか自分でもよくわからない。ただ斎藤の唇が頬を掠め、耳たぶを甘く噛まれる度に、体中に電気が走る。

 この男はよっぽど遊んでいるのだろう。腹が立つくらいの余裕で有紀の身体を指と舌と唇で弄ぶ。そして的確に有紀の、自分自身ですら知らない感覚を呼び覚まして行く。

 捕食される兎が感じる恐怖。これから食い散らかされるという拷問。いや、決してそれだけではない。不安の奥底に開けてはいけない秘密の箱がある。その箱を開けた瞬間、きっとおぞましくも甘美な何かが濁流のように流れだすに違いない。その流れに身を任せ、流れ着く先……。それはきっと美しい楽園ではない。それだけは確信が持てた。

 濁流に押し流されてたどり着く世界。あの女が住んでいた忌まわしい世界……きっとそれは地獄。

 有紀の指には斎藤の指が絡められている。この手が自分を地獄へ連れて行ってくれる。望むところだった。

 有紀はその指を握りしめた。


<続く>



 

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