二
妹の香織とは三つ違いだった。小学生の頃に腎臓を患ったため、入退院を繰り返していた。せっかく入った高校も出席日数が足りずに卒業出来なかった。それでも諦めず、家でコツコツと大検の勉強に取り組む、そんな真面目でまっすぐな妹だ。そして見た目も中身も本当に繊細で優しい子だった。
いつも微笑みを絶やさず、有紀や母親を気遣ってくれていた。父親不在の家庭を支えながら香織の治療のために一生懸命働く母親と、看護師を目指してバイトと勉強に励む姉のために、家事の一切を引き受けてくれた。
香織がいるから頑張れる……。いつも母親はそう言っていたし、有紀は香織のためにも看護師になりたいと思っていた。
香織には幼馴染のボーイフレンド、海斗がいた。香織にとっては良き理解者であり、親友でもあった。彼女……という立場ではなかったようだが、海斗はいつも香織を気にかけてくれていて、よく外にも連れ出してくれた。友人の少ない香織のために自分の友達を紹介してくれたりしていた。
有紀は香織の想いを知っていた。海斗もまた恐らく香織の事を好いていてくれたに違いない。そうでなければこれほど大事にはしてくれない。そう思えるくらいに暖かい絆が二人の間にはあるように有紀には見えた。
ちゃんと海斗に自分の想いを伝えればいいのにと、香織に言った事がある。
「でもね、お姉ちゃん。海斗には私みたいな女の子は似合わないよ。だって海斗って社交的だし、活発だし。私、何歳まで生きられるかもわからないし、……結婚したってきっと子供だって産めないだろうし。……好きだなんて言ったら、明るい将来を想像したくなる。それって、つらいよ。それに、海斗だって、私なんかにつながれない方がいいんだよ」
そう言って寂しそうに笑っている香織が可哀そうだった。こんなに優しい子なのに、人生のほとんどをあきらめているという事が切なかった。
ある夏、海斗は親しい友人達と海水浴に行くと言って香織を誘ってくれた。その中に立花莉子がいた。
立花莉子は海斗の友達の彼女だった。
まだ二十歳そこそこの友人たちの中で莉子は飛びぬけて目立っていた。
派手な化粧、露出の高い水着、そして他の女子にはない淫靡な、どこか邪悪な匂いのする色気……。言ってみれば、香織とはまるで正反対の女である。
その莉子は海斗と香織の関係に非常な興味を持ったらしい。
「彼女なの? 彼女じゃないの?」
と、さんざん香織を問い詰めたそうだ。
「彼女なんかじゃないよぉ。海斗は幼馴染で、昔からの付き合いがあるから……。多分、妹みたいに思ってるんじゃない? 同い年だけど、私、頼りないから」
香織がそう答えると、莉子は「ふぅ~ん」と意味ありげな返事をした。
あれはきっとやきもちだったと思うの。
海斗に対して?
ううん。彼女でもないのに大切にされている私に対して……。
香織は泣きながらほほ笑んでいた。
莉子は可哀そうなの。いつも誰かを求めていて、でもいつも誰かに裏切られて。だまされて、利用されて、誰かを引きとめるために、だまして、裏切って……。本当は可哀そうな人なの。
香織はビルの屋上の柵の向こう側に立っていた。春先の、穏やかな日差しの中、まるで日向ぼっこでもするかのように。
私に思い知らせたかったんだって。男なんて皆一緒だってこと。海斗だって、ただの男だってこと。私みたいな綺麗事にすがって生きている人間の目を覚まさせてやるんだって。
海斗は莉子に誘惑されて堕ちた。後ろめたさか、香織から少しずつ遠のいていった。
そしてある日、頭の悪い、血の気の多い、莉子の元カレと称するオトコに刺されて死んだ。
海斗の葬式には莉子の姿があった。立ちつくす香織に莉子は囁いた。
あんたが指一本触らせないから、アタシみたいな女に引っかかる。あんたのせいで海斗は死んだんだよ?
私のせいで海斗は死んだ……。海斗は何も悪くなかったのに、私のせいで死んでしまった。海斗、ごめんね。私、海斗に逢って、謝らなきゃ……。
ふわりと空中に舞い降りた香織は、そのまま地上まで堕ちて行く。白い羽根がふわふわと舞い散り、香織の身体の上に降り注ぐ……。
「香織!」
有紀は自分の声で目が覚めた。
真っ暗な部屋の中には目ざまし時計の音だけが響いている。
汗をびっしょりかいていた。
また香織の夢を見た。きっと斎藤が余計な事を言ったからだ。心の奥底でせっかく静かに眠っていた妹の亡霊がそっと起きてきたに違いない。
有紀はベッドから出ると洗面所に向かった。タオルで汗を拭き、寝巻を着替える。それからベッドに戻ってはみたが、すっかり目が冴えてしまった。とりとめなく過去の出来事が蘇ってくる。
香織の葬儀の後、香織の机の引き出しから有紀宛の封筒が見つかった。遺書と鍵が入っていた。
海斗への想いと母と姉への詫びの言葉が連なっていた。そして鍵の事が書かれていた。
同封の鍵は多分立花さんの部屋の合鍵です。海斗の遺品の中にありました。
海斗ったら返さずに逝ってしまったみたい。
申し訳ありませんが立花さんに返してあげてください。
私にはちょっと無理だから。
ほんと、ダメな弱い人間です。私は。
有紀は鍵を握りしめながら声をあげて泣いた。
莫迦な妹。なんてお人よしで、純粋で、無垢で、儚くて、弱い妹なんだろう。まるで天使のような……。本当に天使になってしまった。でも、生きていて欲しかった。傷ついて、少しずつ強くなって、そして生きて欲しかった。
その時、有紀は誓ったのだ。
この鍵は私が立花莉子に届けてやる。必ず。たっぷり利子をつけて。
<続く>