堕ちた天使
そもそも斎藤の前で動揺し、倒れかけたというのは一生の不覚だと有紀は後悔したが手遅れだった。結局斎藤はふらふらしている有紀をマンションまで送り届け、その後も頻繁に有紀の前に姿を現すようになったのである。
そのまま相手にしないという事も出来たはずだったが、有紀の中にはどうしてもひっかかる事があった。立花莉子の傷だ。
腹部を刺した傷。そこがどうしても腑に落ちない。立花莉子が意識を取り戻して、自分で刺したのだろうか。いや、仮に彼女の目が覚めたとしても、それはあり得ない。なぜなら、自分がどうして手首を切っているのかわからなかっただろうから。リストカットを繰り返していたとしても、今回に限っては彼女自身死のうとは思っていなかったはずだ。自分で腹を刺して、きっちり死に切ろうなどと思うはずがない。
そこには間違いなく、第三者の姿があった。
誰が? 立花莉子は自分が殺したのではないのか? 私のつけた傷では彼女は死ななかったという事なのか?
一度生まれた疑問は不可解な粘着力で有紀の心の中にへばりついて離れなかった。
人間とは不思議なものだ。
殺すつもりで計画し、実行した。そして結果的にはちゃんと死んでいる。それでいいではないか。そう思う反面、言いようのない怒りも込み上げる。それは自分の獲物を横取りされたライオンの気分にも似ていた。そして、同時に、もしかしたら自分に罪はないのではないかという思いもほのかに生まれていた。
あの女を死に追いやるという計画を、なんの迷いもなく企てたという訳ではない。憎しみと常識と良心がせめぎあい、長い事苦しんだのだ。その末に有紀は覚悟を決めた。自分の手を汚す事になってもいいから、復讐を果たしてみせる……と。
しかし実際には自分が殺したのではないかもしれないという事実が有紀の心の中の瀕死の良心をはげます。あなたの手は汚れてないのではないか?
いや、そんな都合のいい事は考えていない。有紀は自分の心を否定する。当然、自分も地獄に落ちる覚悟で臨んだ計画だ。莉子を地獄へと突き落とす事が出来るなら、自分も地獄に堕ちたってかまわない。そう思ったからこそ実行したのだ。
なのに、どうして、こんなに動揺しているのだろう……。
ハイエナのようなしつこさなどという比喩があるが、それは斎藤のためにあるような言葉だ。斎藤はまさにハイエナばりの嗅覚で立花莉子について調べているようだった。立花莉子の職場関係、交友関係、果ては警察まで、どこからともなく情報を仕入れてくる。そしてそれを何故かいちいち有紀に報告するのだ。
「蛇の道は蛇」
三度目に斎藤に会った時、斎藤はにやにや笑いながら有紀の顔を覗きこんだ。
「俺も裏稼業が長いから、ツテが色々ありましてね」
有紀はぷいっと顔をそむける。
がちゃがちゃと騒々しい、場末の居酒屋だった。煙草の煙と安い油物の匂いが入り混じり、酔っ払いの莫迦笑いが騒々しく満ち溢れる。
部屋の隅の二人席に押し込められるように座っていた。
「結局莉子の死因は出血多量。それは間違いない」
立花莉子の手首から噴きだす赤い血の噴水を思い出し、有紀は一瞬目を閉じた。
斎藤は日本酒専門のようで、いつも冷酒を注文する。いくら飲んでも酔わないようだった。
「たまにはアンタもどう?」
ウーロン茶しか飲まない有紀に勧めるが、有紀はかたくなに拒否する。飲めない訳でもないが、こんな男の前で酔っ払って余計な事を喋ったりしたら大変だ。
「じゃあ、何が一体問題なんですか?」
「手首の出血量が半端じゃないのに、わざわざ自分の腹刺す気力って残ってるか? 腹が先か、手首が先か。って担当刑事がぼやいてた」
クリニックに来た刑事の事だろう。
「普通に考えりゃ、誰かが介入しているって考えた方が自然だろ?でも、大方自殺の線で片付くだろうってさ。その方が無難っちゃ無難だ。警察だってわざわざ時間かけて捜査したいヤマでもない。こういのを捨てヤマって言うんだ」
捨てヤマとは味気ない表現だと有紀は思った。よくよく調べれば捨てヤマでない事は有紀が一番よく知っている。
斎藤の唇がにやりと笑う。
「警察も暇じゃない。わざわざほじくり返して調べるよりも、真剣に調べなきゃならんヤマは他にあるだろ。それに莉子には余計にややこしい事になりそうな客がついてたみたいだしな」
「ややこしい事になりそうな客?」
「そ。あいつ、なんやかんや言いながらご指名ナンバーワンのキャバ嬢だったし、その前に働いてたキャバクラでも結構色んな客がついてたらしいし。くだらない地方議員とかが闇の接待でああいうネエチャンを使うことも少なくない。いかにも面倒くさそうだろ? もっとも莉子はエッチして金をもらえりゃ文句はなかっただろうけど」
ふいに斎藤は有紀を見て笑いだした。
「何よ」
「アンタ、本当にお硬いねぇ。そんな露骨に嫌な顔しなくてもさ。ま、アンタみたいな白衣の天使から見りゃ、莉子なんざやりたい放題の盛りのついた雌猫みたいなモンなんだろうけど」
「そんな事言ってません」
「顔に書いてる」
斎藤は面白そうに有紀の目を覗きこんだ。有紀は斎藤から目をそらし、不機嫌な表情でウーロン茶を飲む。
その通りではないか。次から次に男をたらし込んで、それで生きていた淫乱女。
「別に莉子の肩を持つ訳じゃないけど、アイツはアイツなりに結構苦労してんだよ」
斎藤は腕組みをするとうんうんと頷いてみせた。
「アイツ、すぐに自分の境遇を喋りまくるから重みがないんだけど、アイツから聞いた話が全部本当なら、そりゃ、可哀そうな女だって」
「そんな事、どうでもいい」
有紀は立ちあがった。立花莉子を弁護するような話は一切聴きたくない。盗人にも三分の理? 冗談じゃない。反吐が出そうだ。
財布から千円札を出してテーブルの上に置く。
「私の分、これで足りるでしょ。じゃ、失礼します」
「おい、まだアンタの揚げ出し豆腐来てないよ?」
「いりません。貴方が食べてください」
有紀はそのまま表に出た。
莫迦莫迦しい。私は一体何を気にして斎藤みたいないかがわしい男と逢っているのだろう。あの男は立花莉子と同じ種類の人間だ。私が最も疎ましく、忌まわしく思っている人種だ。
有紀はマフラーを巻きなおすと早足で歩き始めた。
後ろから走ってくる足音が聞こえてくる。
「なあ、有紀ちゃん!」
追いついた斎藤は有紀の肩に手をかけた。
「なれなれしい呼び方しないで」
有紀はその手を払いのけると睨みつけた。
「もう貴方に逢う事もありませんから。呼びつけないで」
「なに、急に」
「もう結構です」
「知りたいんだろ? 立花莉子の事」
「いいえ! もう充分。立花莉子がどんな人間だったかなんて、知りたくもない。立花莉子が可哀そうな女? ふざけてる。あんな女、死んで当然よ。あんな女をかばうような人間も最低。顔も見たくないわ」
「妹さんを自殺に追い込んだから?」
「貴方に何がわかるの!」
有紀は持っていたカバンで斎藤を殴った。斎藤が慌てて後ろに下がる。
「痴情のもつれだの、三角関係だの、面白半分で香織の事をほじくり返さないで! どれだけ香織が、母が、追い詰められて傷ついたか」
込み上げる怒りで身体が震える。いけない、こんなに興奮してはいけない。有紀は斎藤を睨みつけながら深い呼吸を幾つかした。
「……あんな女、何度でも殺されればいいのよ」
斎藤が気圧されたような表情で有紀を見つめている。
有紀は踵を返すとそのまま走りだした。
<続く>