三
夜になり、最後の患者の診療が終わっても石井は診察室から出て来なかった。美樹子は決まった時間になったらさっさと帰宅する。有紀は人気の無くなった待合室の掃除を終えると診察室を覗きこんだ。
石井は窓の前に立ち、外を見ていた。
外は真っ暗で、ガラスは鏡となり室内の様子を映し出していた。ガラス越しに見える石井の表情はひどく疲れて悲しそうだった。
「先生」
有紀が声をかけると、石井は振り向いた。
「帰るの?」
「はい」
「僕も帰ろう……」
そして帰り支度を始めた。
クリニックの玄関を出て、戸締りをすると石井は有紀を見た。
「上条さん、食事、付き合ってくれる? なんか、気が滅入ってしょうがない」
有紀は一瞬迷ったが、石井のどことなくつらそうなほほ笑みをみて頷いた。
駅前の路地を少し入ったところにある居酒屋は、ちょっとした穴場で他の店よりも落ち着いていた。居酒屋とは言いながら和風のバーのような佇まいが売りらしい。口コミで人気がある店だ。
「案外混んでるね。いつももう少し空いてるのに」
「週末ですし」
年末でもある。忘年会の客も多いだろう。有紀と石井は店の奥まった場所の二人席に向かい合って座る。
おしぼりを持ってきた若い女の子に石井はビールを、有紀はウーロン茶を頼む。店員が立ち去ると石井は大きな溜息をついた。
「参ったよ」
「……立花さんの事ですか」
「うん」
熱いおしぼりで手を拭きながら、石井は視線を落とした。
「私相手じゃ、気晴らしにならないんじゃないですか?」
「ん?」
「美樹子さんならともかく」
石井は小さく笑った。
「落ち込んでいる時に彼女のパワーについていけるはずがないでしょ」
それはそうかもしれないと思って有紀は小さく笑った。
「でも一人で過ごすには、ちょっときつい……」
悲しそうな表情だった。
「……先生、患者さんが亡くなる度にそんなに落ち込むんですか?」
有紀は押さえた声で尋ねた。石井は苦笑いを浮かべた。
「あなたは確かERの経験があったんでしたっけ。生死がせめぎ合う職場ですもんね。慣れてる?」
「慣れてるとかそういう問題でもないと思いますけど」
有紀が無表情に呟く。
「ごめんなさい。失礼な言い方だった」
「いいえ」
沈黙が訪れた。
人の死に慣れているのではない。他人のために流す涙はもうどこにも残っていないという事だ。まして、立花莉子のために流す涙など、一滴たりとも持ち合わせてはいない。
有紀は心の中でそう呟いた。
ビールとウーロン茶が運ばれてきた。二人は適当に見つくろって注文をする。女の子の店員は元気な笑顔で厨房に戻り、オーダーを通す。
「……元気だな。あんな元気な女の子は何があっても乗り越えて行けるんだろうな」
石井は優しいまなざしで店員を見ていた。
「警察はどこまで彼女の事を調べるだろう……」
有紀は怪訝な顔で石井を見た。
「カルテは丁寧に見ていたみたいですけど?」
「うちにある情報はそれほど細かいところまでは書いてない。彼女がうちに来てからの情報だけだろ? せいぜいここ二年半」
「そうですね」
「彼女の成育歴とか、そんなのも調べるのかな」
有紀は上目づかいで石井の様子を伺う。どうしてこの医者はそれほどまでに立花莉子にこだわるのだろう。確かに担当医ではあった。が、彼女が自殺未遂の常習者である事は彼が一番よく知っているはずだ。死ぬ気があるのかないのかはともかく、今度は未遂では済まなかった。ようやく目的を達成した。それだけではないか。
「優しいですね、先生は」
少し嫌味も込めて有紀は呟いた。石井は有紀を見て、何度か瞬きをした。
「そういうのじゃ……」
石井は悲しそうな目で有紀を見た。
「そういうのじゃない……」
なにがどう違うのか。そんな事、有紀には関係なかったし、興味もなかった。あの女が死んだ。そう、有紀の予定通りに、あの女は死んだ。警察ももうすぐ自殺として片付けるだろう。有紀にとってはそれだけの事だ。
その後、石井の口から立花莉子の名前が出る事はなかった。ぽつぽつと世間話をし、有紀は何度か石井のグラスにビールを注いだ。なんともそっけない飲み会だったが、少し酔いの回った石井の顔に笑顔が戻ったのを見て、有紀は少しほっとした。
次の朝、石井はいつも通りに穏やかな笑顔と共に出勤してきた。院長の佐倉も旅行から帰って来て、診察を始めた。立花莉子の件で警察が来た事は美樹子から報告を受けていたようだが、それに対して特に何も言わなかった。「それは残念だったね。若いのに可哀そうだね」で終わりだった。石井と違い、佐倉は割り切った態度で患者と接しているのがよくわかる。もっともたいがいの医者はそんなものだ。
刑事が来院して一週間が過ぎても、特に警察から連絡が来る事はなかった。立花莉子の件は自殺で処理されたのだろう。有紀は朝刊の地方版をチェックするのをやめた。これで全ては終わったのだ。
そう確信していた。
<続く>