二
グレース・ビルディングは駅前の一等地にある五階建のビジネスビルで、建物全体に大きなガラス窓がたくさん入っているお洒落な外観だ。三階から五階にはビルのオーナーでもある不動産屋が入っているが、一階は美容院で、二階には佐倉メンタルクリニックが入っている。
佐倉メンタルクリニックは心療内科を掲げている開業医である。中が見えないようになっているガラスの自動扉をくぐると、それほど広いことはないがサロン風の待合室が目に飛び込んでくる。座り心地の良いゆったりした椅子と低いテーブルが二組あり、部屋の隅には大きなゴムの木が置いてあって、白っぽい部屋には程良いアクセントになっている。壁側には木製の高級そうな本棚があり、雑誌や新聞、数冊の本が大人しくきっちりと置かれていた。受付は木目調のカウンターで上品なほどよい温もりを感じさせる。何も知らないで入ってきたら病院の待合室とは誰も思わないだろう。カウンターの向こうにピンク色の白衣を着た中年のおばさんが座っていることを除けば、ちょっと上品なペンションのフロントとラウンジのようだ。もっとも、待合室と言っても、ほとんどが予約の患者ばかりなので患者同士が顔を合わす事は滅多にない。ごくたまに、時間より早く来た予約患者と、恐る恐る入ってくる初診の患者が重なるくらいだ。
「よくこれでつぶれないよね~」
カウンターの中で、暇そうに肘をついていた小山美樹子は大きなあくびを一つした。
「美樹子さん、堂々とあくびしすぎ」
待合室の本棚の整理をしていた看護師が苦笑いする。
「だって、有紀ちゃん、今日なんてさ、午前が二人でしょ、午後が一人でしょ。夜が一人。四人よ、四人! ドクターは石井ちゃんだけで、院長は奥さんと旅行中。よくつぶれないよね~、ほんと。知ってる?」
美樹子は急に声を潜めた。
「院長の奥さんって大きな病院の理事長の娘さんなのよ。院長は逆玉。このクリニックなんてさ、院長が趣味でやってるようなモンよ。患者さんはほとんど石井ちゃんが診てるんだし。石井ちゃんも大変よね、そのうち過労死しちゃうんじゃない?」
有紀は振り向くと人差し指を立てて唇に当てた。
「診察室に聞こえるじゃないですか。本当に口が悪いんだから」
有紀は困ったような顔で美樹子を見た。美樹子はどこ吹く風と言った表情でレセプトの入力をするフリを始めた。悪い人ではないが、噂話好きなのと人をすぐにおちょくる美樹子の事が、有紀は少し苦手だ。
上条有紀は佐倉メンタルクリニックで働き始めて二年目の看護師だ。ここに来るまでは市民病院の内科で勤めていた。今はここで働いている。
色白で小柄な有紀は物静かで穏やかな雰囲気をたたえている。セミロングの黒髪を後ろで一つにまとめ、化粧っ気もなく、地味な印象ではあったが、綺麗な二重瞼の大きな瞳が魅力的だ。口数が少なく、いつも静かにほほ笑んでいる事が多い彼女は、学生の頃は教官や同級生から、暗いだのどこにいるのかわからないだの、散々な言われ方をしたものだ。が、そんな所が院長の佐倉は一目で気に入ったらしい。
「なんてったって心療内科だからね。あんまり看護師が存在感ありすぎちゃ、患者さんがひいちゃうよ。ただでさえ受付が濃いから、看護師は物静かな方がいいな」
と、美樹子ににやにや笑いながら言ったそうだ。それ以来、美樹子には事あるごとに「どうせ私は濃いですから」と嫌味混じりにおちょくられる。
忙しい病院勤務と違い、ここでの仕事はなんともゆるい感じだった。少し遅い午前中に出勤して、夜間診療の終わる時間までの仕事だ。町医者とは言いながら、内科や整形外科のようにいつもお年寄りで溢れている事もなく、予約の患者がぽつりぽつりと訪れるだけ。パートタイマーの美樹子などは「暇すぎてボケそう」などとこぼす事があるが、有紀にとっては悪くはない環境だった。元々大きな病院の殺気だった空気は好きではなかったし、ナース同士の勢力争いやさや当てにも興味はなかったので、一人職場のこのクリニックは自分の性に合っている。もっとも、ここに来たのには、もう一つ別の理由があったのだが。
有紀は待合室の新聞の整理をし始めた。昨日の新聞を引き上げ、今日の日付の物と入れ替える。
ぱらりと一枚ページをめくり、すばやく目を走らせる。政治家の汚職事件の記事がでかでかと載っている。隙間を埋めるような小さな記事は、どこかの会社の社長の訃報や火事の記事くらいだ。
地方版のページをめくってみる。連載のコラムと、地元の小学校のイベントの記事、小さな交通事故の記事。特に気を引く記事はなかった。
有紀は新聞を閉じ、きちんとたたむと本棚に置いた。そして唇の端に薄い笑みを浮かべた。
午前中の一人目の患者は時間通りにやってきて、時間通りに帰って行った。二人目の患者の時間までは一時間近くある。
「あの患者さんってさ、いっつも遅刻だよね」
美樹子が伸びをした。あくびに伸びに、全く遠慮がない。と、急に入り口の自動扉が開いた。美樹子は慌てて座りなおした。
「おはようございます」
扉から入って来たのは美樹子も有紀も知らない二人の男だ。細身ののほほんとした中年男と、大柄なイノシシのような若い男。二人とも背広姿だ。
「お忙しいところすみません。私、こういう者で」
中年男が背広の胸ポケットから金色の桜の大門のついた手帳を取り出し、中の写真を見せた。
「橋本警察の速水と言います」
連れのイノシシ男も同じように手帳を見せ山本と名乗った。
美樹子は激しく瞬きした。
「はあ、警察の、方?」
カウンターの中にいた有紀も振り返る。
「ここの責任者の方はいらっしゃいますかね。ちょっと患者さんの事でお聞きしたいことがありまして」
見た目と同様にのほほんとした口調で刑事は美樹子と有紀を交互に見た。
「院長はただいま不在で……。診療担当の石井がおりますが」
「あ、とりあえず、いいですかね。その先生とお話させてもらっても」
「少々お待ち下さい」
有紀は軽く会釈するとカウンターの奥の扉を開け、隣の診察室に入った。
「石井先生」
「ん。なんですか」
石井は机に向かってカルテを書きこんでいる。
「警察の方が来られていて、先生とお話がしたいと」
石井は手を止めて、顔を上げた。
「警察?」
「はい。患者さんの事みたいですけど」
ゆっくりと顔をこちらに向ける。縁なし眼鏡の奥の、いつも笑っているような優しげな目に訝しげな色が浮かんでいる。
「わかった。お呼びして」
有紀はうなずくと、診察室の扉を開けた。
「どうぞ、こちらへ」
二人の刑事はへこへこと診察室の中に入って来た。
「いやいや、綺麗なクリニックですな。高級ホテルのロビーみたいで、病院とは思えない。ここでコーヒーでも飲んだら、尻に根が生えそうです」
なんとも緊張感のない口調に、石井はほっとしたような表情を浮かべた。
「患者さんが少しでもくつろげるような雰囲気を大切にしたいものですから」
「はあ、やっぱりリラックスしていると心を開くってなモンですわな」
「そうですね」
「いやいや、取調室もこんなんにしたら皆口が軽くなりますかね」
そう言いながら速水はからからと笑う。どうやら冗談らしい。どう反応すべきか石井は悩んでいるようだった。
「冗談はさておき、ちょっとお話を聞かせていただけたらと思いまして。で、すみませんが、先生のお名前は?」
「石井と申します」
石井は机の端に無造作に置いてあった名刺入れから名刺を出すと刑事に渡した。
「はあ、石井先生ですか。今日はすみません。急にお邪魔して。少しだけ時間、大丈夫ですかね」
速水は石井と有紀を交互に見る。石井は小さく頷いた。
「三十分くらいでしたら。次の患者さんが来られるまでですが」
「いやいや、長くはとらせません」
有紀は診察室の端に置いてあった丸椅子を二つ出すと、石井の前に置いた。
イノシシ刑事は座らずに、扉の横に立ったままで手帳を出したが、速水は石井の前に丸椅子をずらすとどっかりと座った。
「あ、お嬢さん、ここの看護師さん? あなたもここで話を聞いてもらっててよろしいですか」
部屋を出ようとした有紀を速水が引きとめたので、有紀は仕方なく立ち止まり、石井から少し離れた場所に立った。
「先生は、立花莉子さんって言う女性をご存じですか」
「立花莉子……。はい。ここの患者さんですが」
「はあ、やっぱり」
「立花さんが……どうかしましたか」
「ええ。一昨日、部屋で亡くなってるのが見つかりまして。部屋を訪ねた男友達が第一発見者でした」
「……亡くなった」
石井が一瞬言葉を失い、有紀の顔が微かにこわばった。
「状況から見て自殺の線が濃厚なんですが、一応変死という事で色々と調べなければならんのですよ」
「……そうですか。上条さん、カルテを」
石井は有紀を見た。有紀は頷いてカルテ保管庫へと向かった。
スチール製の引き出しを開け、た行のタグを探す。
立花莉子。
散らかった部屋の中で倒れている女の姿を想像する。手首から流れる血がソファーの下で血だまりになっていたことだろう。大きな大きな赤い池。あの女の命の流れ出た痕。
有紀は黄色いファイルを手に取ると診察室へと戻った。石井に手渡す。石井の顔はいつもより白く見えた。そうだ、あの女を担当していたのは石井だった。自分の患者が変死となれば、多少なりともショックは受けるものだろう。
石井はカルテを広げようとして、思い直したように手を止めた。
「蛇足だとは思いますが、カルテは個人情報です。外部には出さないで頂けますか。特にマスコミには。精神科や心療内科の患者さんには特に配慮していただきたい。やはり世間の偏見が根強いので」
「ああもう、それは当然です。お約束します。それに、こんな言い方をしてはなんですが、若い娘さんが自殺したからって、そうそうニュースにはなりませんや」
速水の軽い口調に石井が眉をひそめた。有紀の目から見ても、石井は稀にみる良心的なドクターだ。患者に対しても、職員に対しても誠実だった。警察にとってはありふれた事件であっても、石井にとっては大きな事件であるに違いない。
「早速拝見いたします」
速水は軽い調子で頭を下げるとカルテを受け取った。パラパラと中身に目を通す。
「立花さんの主治医は、石井先生ですか」
「はい」
「どんな娘さんでした?」
「簡単には説明しづらいですが、大変精神的に不安定で。不眠や鬱傾向なんかも強くて、投薬とカウンセリングで対応していました」
「投薬と言いますと?」
「精神安定剤と、向精神薬が中心でしたが、服薬管理はあまりちゃんと出来ないようでした」
「処方箋のコピーもらえます?」
「いいですよ」
石井はパソコンに向かった。
「いわゆる鬱ですか」
「いや、彼女の場合は……」
石井の口が重くなる。
「非定型の躁うつ……という診断ではありますが。病気というよりは、元々の性格的な影響も大きかったとでもいいましょうか。感情の起伏が激しくて、自分ではなかなかコントロール出来ない面がありました。アダルトチルドレンってご存知ですか? 彼女はその典型のような人でした」
「アダルトチルドレン……。知ってるような知らないような」
「かいつまんで言えば、子供時代に親から愛情を受けずに育ったんです。両親からの虐待を受けているケースがほとんどで、彼女もそうでした。そのせいで、人間関係を作るのがあまり上手くなかったようで、色々とトラブルが多かったようです。子供の頃からリストカットを繰り返していたようで」
「最近の彼女の様子はいかがでしたか」
「最近といっても……ここ三カ月ほど来院されなかったので」
「調子は良かったって事ですかね」
「いえ、多分彼女自身はそう思っていたかもしれませんが……。彼女が『調子が良い』という時は、大概飛ばし過ぎるというか、やりすぎる事が多かったみたいです」
「やりすぎる?」
「活動的になりすぎる。無茶なペースで仕事をしていたり、何かにハマって夢中になりすぎてたり。体力と気力が続く限り頑張りすぎるというか……。そういう時は強気ですから、自分にブレーキがかけられない」
「ほう。で、ガソリンが切れたらここに来る?」
「……まあ、そう言う事が多かったようです。結局張り切り過ぎてクビになったとか、交際していた人と別れたとか、頑張った事が裏目に出て、一気にどん底に落ち込む……」
「で、やっちゃう訳ですな」
速水は手首を切る真似をした。石井が小さく頷く。
「難儀ですな。そういう人間が傍におったら、周りも疲れますなぁ」
「そういう言い方をしないでください」
石井が鋭い口調で遮った。速水は少しびっくりしたように目をぱちぱちさせている。
「立花さんに限った事ではないけれど、皆、どうしようもなく苦しいから自傷行為に走る。痛みによってしか生きているという実感が持てない。その背景も色々です。そんな軽々しい言い方はあまりにも心ないと思いませんか」
「参ったな。いや、申し訳ない」
速水は頭を掻きながら謝罪した。
「我々は日々色んなタイプの人間に接しているので、どうやら少々デリカシーに欠けるというか、人の心の機微に対して鈍感になっているのかもしれませんな」
思わぬ叱責に速水がへこへこと頭を下げるのを見て、石井の表情がいつもの柔らかさを取り戻した。
「看護師さん、あなた、なにか立花さんについてご存じの事はありますか?」
速水がふいに矛先を有紀に向ける。有紀は首をかしげて見せた。
「いえ、診察時にしかお会いしなかったので。カルテに書いてある内容以上は存じません」
「そうですか……。カルテ、もう少し見せてもらってもいいですか?」
「もうじき患者さんが来られるので、ここではちょっと。隣の部屋で」
石井はそう言うと有紀に目配せした。有紀は頷くと二人の刑事を隣の応接室へと案内した。
「すんませんね。すぐ終わりますから」
二人の刑事は革張りのソファーに腰を下ろすとカルテの内容を写し始めた。有紀はそれを黙って見つめていた。
二人の刑事は三十分近くカルテを調べて、帰っていった。
「ねえねえ、立花さんって、あの派手なお水のオネエサンよね?」
刑事が出て行くなり、美樹子は有紀の傍に飛んできた。
「自殺したんだって? 気の毒にね。でもま、見るからに不安定な感じだったもんね。遅かれ早かれって感じ?」
美樹子はしたり顔でうんうんと頷く。
「しーっ。診察室に聞こえるってば」
有紀は小声でたしなめた。美樹子は口を押さえて肩をすくめた。
<続く>