生きる価値のない女
R15指定です。一部性的描写があります。それを目的とする小説ではありませんのでR18指定にはしておりませんが、お気をつけください。また、思想・倫理観においてもあくまで問題提起として取り上げたものであり、決して不道徳や反社会的思想を推奨したり、法律順守に異を唱えるものではありません。小説として楽しんでいただき、それぞれの倫理観に向き合う機会になれば幸いです。
あの女はひどい女だ。他人の事をハンバーガーの包み紙くらいにしか思っていない。お腹が減ったらむさぼり食って、食べ終わったらくちゃくちゃに丸めて、ゴミ箱へ投げ込んで、はい、おしまい。そしてすぐに、次は何を食べようかとメニューの前で小首を傾げて考えている。
そうやって今まで何人の男を、いや、人間を傷つけ追い詰めてきたのだろう。
許せない。
許せない。
許せない。
どうして神様はあんな女がこの世に存在する事を許すのだろう。
有紀は暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる八階建てのワンルームマンションを見上げていた。
築年数は二十年近いらしいが、見た目にはそこそこ小奇麗に見える。家賃は自分が住んでいる部屋よりもきっと少し高い。
有紀の立つ場所から見える窓には三割ほど灯りがついているだけだ。年末も押し迫ってくると、ワンルームマンションは留守が増える。旅行に行ったり、帰省したり、人が休む時にこそ出勤して稼いだり、身軽に動ける人が多いのだろう。
有紀は一つの窓を見つめていた。
さっき灯りが点いたばかりだった。あの女が帰って来たのだ。いつも通り酔っ払って、おぼつかない足取りで、得体のしれない男の匂いを身体中にまといながら。
耳に装着したイヤホンからは部屋の中の音がガサガサと流れてくる。
散らかった部屋の、乱れっぱなしのベッドの上に倒れ込んで、さっきまで一緒にいた男の悪口を大声でわめく。呂律の回らない舌で、聞くに堪えない下品な言葉を並べながら、ひとしきり騒ぐ。
這いつくばりながらバスルームへ移動する。嘔吐する音がしばらく続き、今度は泣き喚く。
また這いつくばりながら、今度は冷蔵庫の前へ。冷蔵庫を開けて、無造作に突っ込んであるジュースの ペットボトルを掴んで蓋を開ける。そして一気に飲み干す。
音を聞いているだけで、あの女の行動が手に取るようにわかる。あの女の部屋の様子は細かな絵が描けるくらいに熟知している。あのだらしない、散らかり放題の部屋の中で、もうすぐあの女は眠りこけるのだろう。前後不覚で……。
有紀は腕時計を見た。時計の針の進みが随分と遅いように感じる。そんな時は今までにあった色んな事をゆっくりと思い起こすのだ。そう、あの女への憎しみがいつまでも色あせないように。気持がしぼまないように……。
イヤホンからひっきりなしに流れていた声は次第に少なくなり、やがて静寂が訪れた。
その時が来た。
有紀はマンションに向かって歩き出した。
このマンションの玄関には防犯カメラがない。見た目の綺麗さは気にするが、セキュリティーなどに気を使うようなオーナーではないらしい。そして住人もそんな事にはあまりこだわらない人種が多い。だからこそ、あんな女でも住める。
廊下は冷たい蛍光灯の光で満ちていた。奥の蛍光灯が一つ、不規則に点滅している。
有紀は目的の部屋の前に立つと、ポケットから鍵を出した。手袋をした手には鍵の温度は伝わってこないが、長い時間ポケットに入っていたのできっと温まっている事だろう。有紀の体温と憎しみをたっぷりと吸い込んで……。
この鍵は過去を封じ込める鍵であり、未来を開ける鍵。この鍵を差し込めば、もう後戻りは出来ない。
有紀は鍵を鍵穴に差し込む。もう迷いはない。
がちゃり
重々しい音が静まり返った廊下に冷たく響いた。
静かに鉄の扉を開け、有紀は滑り込むように中に入った。そっと扉を閉める。そして靴の上からビニール製の袋を履き、そのまま上がり込んだ。
まずは玄関の隅に置きっぱなしになって枯れている植木鉢の中から、盗聴器を回収した。
そして部屋の奥を見る。八畳の洋間は有紀が思い描いていた通りの状態になっていた。
床にはコンビニの袋やペットボトル、空になった弁当の入れ物、脱ぎ散らかした服などが重なっている。
何度来てもあきれるような汚れっぷりだ。ゴミ置き場みたいな部屋に連れ込まれた男共はこの部屋を見てどう思うのだろう。性欲が萎えないのだろうか。
臭いがしそうなゴミの山の向こうの、不潔なソファーベッドの上であの女が眠りこけている。有紀はゴミの山を遠慮なく踏みつけながら女の元へと進んだ。
見事な大の字だ。それもキャミソール姿。茶色いロングヘアはすっかり寝乱れ、閉じた瞼には黒くて長いつけまつげが張り付いたままだ。眠り姫というにはあまりにもひどい。有紀は顔をしかめた。
女の手には空のペットボトルが乗っている。有紀は辺りを見回して、転がっている白い小さなキャップを探した。それはすぐに見つかった。二日前に忍び込んだ時につけた「印」がある。間違いない。そのキャップと手の上のペットボトルを自分のカバンに放り込んだ。
ベッドの下には病院から処方された精神安定剤が入った白いビニール袋がある。それを引っ張り出すと、白い錠剤を包装から出して自分のカバンに入れる。
そこまでの作業を終えると、有紀は前後不覚で眠っている女を氷のような冷たい瞳で見下ろした。
汚れた食器で埋もれているキッチンへと向かい、キッチンの引き出しからぺティナイフを出す。誰かから引っ越し祝いにでももらったのだろうが、こんなナイフ、きっとこの女は使ったことがないに違いない。このナイフは今までに何か切った経験があるのだろうか。
「やっと出番だよ……」
ナイフを握り、女に近づく。
力なく垂れた左手をそっと触り、反応を伺う。大丈夫。ぴくりともしない。
有紀は白い左手首にナイフを当て、静かに動かす。薄い直線が浮かび上がる。
横目で女の反応を見る。大丈夫。アルコールと精神安定剤の効果は絶大だ。
ナイフで数本の傷をつけた。どの傷も浅いので、大して血は出ない。それでも赤い紐のように女の手首を流れて行く。
「これが、最後」
そう呟くとナイフを握りしめた。瞳に強い殺意が宿る。
ナイフを手首に強く押し当て、一気に引く。
一瞬の間の後、血が噴水のように噴き出し、眠りこけている女の身体や顔に血しぶきが飛び散った。
女の身体を左下にして横に向け、左手をベッドの下に落とす。みるみるうちに血だまりが出来ていく。
そして右手にナイフを握らせる。
何度もシミュレートして、ようやくたどり着いた最期のポーズだ。
自分の血を浴びた女の顔がわずかに歪む。
「遅いわよ。今頃起きても」
有紀は冷ややかに呟いた。
「アンタはこのまま死ぬんだから」
ゆっくりと立ちあがり、自分の足のビニールに血がついていないか、血を踏んでいないかを入念にチェックする。
大丈夫。
有紀は来た時と同じようにゴミの山を踏み越えて玄関に立ち、足のビニールを外した。
振り返ると朱に染まったあの女の姿が見える。もう二度と逢う事はないだろう。
有紀は静かに部屋を後にした。
<続>