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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

男は砂漠の宮殿でシーシャを嗜む

ちなみにシーシャとは水煙草のことです。

 荒涼とした砂漠の丘。

 闇に浮かぶ星の砂。

 しん、と佇む宮殿の中。

 シーシャを燻らす男が一人。

 耳を劈くほどの静寂の中、水煙草独特の、こぽ……こぽ……と泡の弾ける音だけが響く。

 大理石の城に一人、男はいた。

 ここらではあまり見かけない、白い肌の男。撫でつけた黒髪は砂粒一つついていない。陶器のような白い顔に、いやに不釣り合いな光を宿した黒い瞳をした男。彼を描くには白と黒さえあれば事足りると錯覚するほど、色のない男だ。緩く尖らせた唇から吐き出される細い紫煙を除けば、男が生きているかどうかさえ酷く曖昧にさせられる。

 男は黒曜石の瞳を下に走らせた。

 男の目に映るは、赤。

 頽れ、踏みにじられ、蹂躙されたものたちの、血だ。

 あるいは斬られ、あるいは殴られ、あるいは撃たれ、あるいは絞められ、あるいは捻られ、あるいは抉られ、あるいは削られ、あるいは潰され、あるいは轢かれ、あるいは砕かれた死体たち。

 よく見れば、男の黒には複雑な色がある。

 血だ。乾いた赤が黒く酸化している。つややかな黒髪を撫でつけているのは紛れもなく赤い血だった。男はそれを厭うことなく、悠然とシーシャを吸い続けていた。

 男はたいした興味もなく、それらを見た。

 そして彼らを嘲笑うかのように、煙を吐き出す。

「……つまらん」

 男がいるのは彼らよりも遙か高い玉座。しかし男は王ではない。この宮殿の王は、あの死体の山のどこかにいるだろう。王も従者も下働きも妾も、姫も王子も皇太子も関係ない。男にとっては等しく人であり、今やただの死体だ。どこぞで今も血を流すか腐り始めている肉に過ぎない。

 溜息のように一際大きく煙が揺れる。

 男は睥睨する。

 自分が殺した人だった死体を。

 何の感慨もなく、男は死体を見る。

 徐に立ち上がり、玉座の階を降りる。

 一歩、一歩、踏み出す靴は黒。足を包む衣も黒い。

 喪服の如き黒の衣は異国の絹で織られた衣。男の体によく合ったスーツ。首に巻き付けられたスカーフだけが男の中で唯一の色彩。水煙草の硝子と同じ、瑠璃の色。深い瑠璃色のスカーフは白と黒の間で光沢を放つ。

 男は死体の山の裾野に立った。山はなだらか。その頂は男の胸のあたりだろうか。シーシャの甘い煙を纏った男は死体の山から無造作にある一体を引きずり出した。

 女の死体だ。

 死体の山の中でただ一人、男と同じ肌の色をした女の死体。

 褐色の肌の死体の中で、それだけが唯一男と同じ。

 この国の衣装を纏い、この国の言葉を話し、この国の人間として生きていた女の死体を、男は引きずり出した。男の無骨な指が女の白い腕に食い込む。すでに失われていった体温の残り香すらない、冷たい死肉を、男は怯むことなく掴み、そして抱き寄せた。

 細い腰に腕を回し、左手で死体の右手を取る。女の体はだらりと力なく崩れたが、なぜかその光景は不思議と美しい。すらりと伸びた男の長身のせいだろうか。ヴェールに顔を包んだまま息絶えた女の、どろんとした目が、虚空を睨む。

 男はそのまま一歩を踏み出した。固い音。男の靴の踵が鳴る。

 アン、ドゥ、トロワのリズムを刻み、男は女の死体と踊る。堆く積まれた死体の山を中心に、まるでダンスホールを滑るかのように男は踊る。死体の手を取り、男は静かに踊る。

 音楽はない。鼻歌もない。何の曲を男は奏でているのだろう。それを知るものは男以外に誰もいない。

 その男は決して若くはないが老いているわけでもない。しゃんと伸びた背筋、一筋の白もない黒髪、洒脱な装い。軽快で優雅なその足捌きには男の育ちの良さが滲み出ている。

 しかし男と踊るのは淑女ではなく死体。

 白い肌は紙のように白く、青い瞳は白く濁り始めた死体だ。

 それでも男は踊り続ける。

 女の体からよそよそしい体温が消え果てても、もはや一滴の血すら落ちなくとも、鳶色の髪が一房、地に落ちようとも――。

「ねえ」

 男の足が止まった。

「どうしてその人と踊っているの?」

 黒い瞳が声の主を見る。

 ――少女だ。

 大理石の広間の隅に、少女が一人、膝を抱えていた。褐色の肌、亜麻色の髪。二つの瞳は突き抜けるような海の色。

 男は悟った。この少女も異分子だと。

 男と、死体の女と同じ、異分子だと。

「ねえ、どうして?」

「これは俺の妻だったからだ」

 男は答えた。

 このまま黙っていることもできたのに、男は少女の問いかけに答えることを選んだ。

「この国の人じゃないのに?」

「ああ。そうだ」

「どうして奥さんはここにいたの?」

「このハレムの王に拐かされたからだ」

「どうして?」

「知るか。知ったこっちゃねぇ」

「いつさらわれちゃったの?」

「今から十年も前だ」

「どうしてそれまでおじさんは来なかったの?」

「妻がどこにいるか虱潰しに探していたからだ」

「やっと見つけたの?」

「ああ、十年目の悲願だ」

「じゃあどうしてみんな殺しちゃったの?」

 一瞬、男は黙った。

「ねぇ、どうして?」

 少女はそれでも尋ね続ける。

 男は力なく重力に従う妻の死体を片腕に抱き、初めて少女を真正面から見据えた。

 少女の瞳は男のスカーフの色に似ていた。シーシャの瑠璃色にも似たその透明な瞳を、男はただじっと見つめ、答えた。

「王は妻を慰み者にした。王子たちは王と共にこいつを弄んだ。妾たちはこぞって妻をいじめ、側女たちは異人の妻を毛嫌いし、見て見ぬふりをした。そして最後に妻は殺された。王と王子の狂乱で、妻は殺された」

「だから殺したの?」

「そうだ」

「なんで知っているの?」

「この国に商売しに来ている知人に妻が手紙を渡したからだ」

「すごいね」

「ああ、気丈な女だ」

「だからみんなを殺したんだね」

 男は一度も少女から目をそらさない。離さない。

「遠い異国の地に来て、女を拐かし、犯し、殺すことが死に値しないのなら、世界はとっくに滅んじまうよ。分かるか、小娘」

「……よくわからないけど、なんとなく、わかる」

 少女はそっと目を外した。

 瑠璃色の目は大理石の床を泳ぎ、小枝のような指先が滑らかな床の表面にのの字を描く。

「あたしはお父さんもお母さんも知らない。いつの間にかここにいて、台所の隅っこで生きてきたから。もしかしたらあたしの家族も王様とかに殺されちゃったかもしれない。そう思うとね、おじさんの言うこと、あたし、何となく分かる気がするんだ」

「……そうか」

 男はそれだけ言うと、妻の死体をそっと床に安置した。

「お前、この中に親はいないのか?」

 少女はことりと頷いた。

「この中にいるかもしれないけど、あたしは知らない」

「聞いたことはないのか?」

 ――生きていた時に。

 少女は首を振った。

「喋ると殴られたから」

 男は思った。

 いつからこの少女は声を出すことを止めたのだろう。今話している言葉は、一体どれほどの時を経た言葉なのだろう。

「でもその人はちがったの」

 少女は死体の女を指さした。

「あたし、その人のご飯を運ぶの、仕事だったの。運んでいくとね、にっこり笑ってお礼を言うんだ。頭も撫でてくれるの。言葉も教えてくれたし、字も教えてくれた。すっごく優しい人だったよ」

「だけど殺されちまった」

「うん。殺されちゃった」

 少女は項垂れた。

「なんだか寂しいな」

「……そうだな」

男は床に横たわる妻の傍らに膝をつく。半開きの目をす、と閉じてやり、手を腹の上で組ませてやる。そして男の胸元を彩っていたスカーフを解き、死した妻への餞とする。

「持って行け。お前が俺に買ったものだが、お前にやるよ」

 瑠璃色のスカーフを剥き出しの女の腹に掛け、男はそっと十字を切った。少女も真似をして十字を切った。

「ねえ」

 祈りを終えた少女が口を開いた。

「おじさん、ここに住むつもりなの?」

 男は横目で少女を睨んだ。黒い瞳に少女が映る。少女は何の感情も湛えず、じ、と男を見る。

「だって王様も王子様もみんな殺しちゃったじゃない。おじさん、ここの王様になるの?」

「俺ぁ王なんざ興味ねぇよ。そんなくだらねぇもんにはならん」

「じゃあどうするの?」

「どうもしねぇよ。これから国に帰る。それだけだ」

「おじさんの国はどこにあるの?」

「この砂漠を越えて街から海へ出る。船に乗って何ヶ月かすれば俺の国だ」

「海ってそんなに広いの?」

「ああ。広くて深い」

「……見てみたいなぁ」

「ならついて来ればいい」

「え……」

 少女は耳を疑った。今まで少女にそんなことを言ってくれた人間など、ただの一人もいなかったのだから。

「この宮殿にいたお前の主はもういない。お前はもう自由だろう。ここに残るも、俺と来るも、一人でどこかに行くも自由だ。好きにすればいい」

 体が震えた。

 今までの十数年の人生の中で、見たことも聞いたこともないものを男は言った。少女の頭の中に「自由」という言葉はなかった。男の妻だった妾の一人が言っていたかもしれない。けれども少女は知らなかった。

「ねえ」

 少女は震える声で男に尋ねた。

「自由って、どんな匂いがするの?」

 自分が今、どんな顔をしているのか。少女は知らない。

「どんな色なの?どんな音を立てるの?どんな大きさ?どんな……」

 ぱた、

 大理石の床に、しずくが落ちた。それが自分の涙だと、少女は気づかなかった。

「……痛いのはない?お腹空くのもない?つらいのも、苦しいのも、いやなこともないの?」

 頬を伝う涙が温かく少女を濡らす。男の姿が滲む。瑠璃色のスカーフをなくした男はただの白黒のように見える。男の顔が分からない。どんな顔をして少女を見ているのか、少女には分からない。

「ねえ、おじさん……教えてよ」

「知るかよ、そんなこと」

 男は答えた。

「自分の目で、耳で、鼻で、肌で感じてみろ。自由はそこから始まるんだ」

「う……あああああああああああ…………」

 初めてだった。

 声を上げて泣いたのは、これが初めてだった。

 生まれた時から息を潜めて生きてきた少女が、生まれて初めて腹の底から声を出した。少女の声は広間中に響き、拡散し、反響した。男はそれを黙って聞いた。泣いている少女を慰めるでもなく、抱きしめるでもなく、男はただ黙って聞いていた。それどころか玉座まで戻り、再びシーシャをふかし始めた。

「ああああああああああ…………ああああああああああああああ……」

 少女の泣き声の響く宮殿に、シーシャの甘い煙が漂う。男の口から吐き出される紫煙が少女を取り巻く。

 少女は喉が涸れるまで泣き続けた。泣き止む頃にはもう日が昇り始めていた。

「決断の時だ」

 男が静かに言い放った。

 少女は涙を拭い、男を見た。

「あたしを連れてって」

「上出来だ」

 男は初めて笑った。

 それからの行動は早かった。男は自分にべったりとついた血糊を行水で落とし、ついでに少女の体も洗った。少女はただされるがまま男に洗われ、新しい服を着せられた。そして少女の案内で食料庫に行き、持てるだけの食料と水を詰めた。

 二人は旅支度をし、宮殿をあとにする。

「どうやって街まで行くの?」

 少女は尋ねた。

「駱駝くらい拝借したって罰は当たらんだろう」

「たくさん殺したのにそういうこと気にするんだ」

「してねぇよ。置いていくぞ」

「あ、待って」

 少女は見てみたかった。外の世界を。自由の色を。

 男について行けばそれが見られると思った。




 砂漠を往く駱駝が二頭。

 前を歩く駱駝に男と少女。後ろの駱駝には当座の食料と水を積んで。

「あたし、自由の匂い、嗅いじゃった」

 駱駝に揺られ、少女は呟いた。

「自由って、シーシャの匂いがするんだね」

 手綱を握る男の胸に抱きついて、少女は自由の匂いを満喫した。砂埃を少し吸い込んだけれども、少女にはそれすら自由の匂いだった。

「ねえ、おじさん」

「何だよ」

「何であたしを殺さなかったの?」

 男は溜息をついた。

「……ちみっちゃくて見えなかったんだよ」

 少女の問いに対する答えを、男は持ち合わせていなかった。

 事実、男自身にも分からなかった。なぜあの宮殿でこの少女だけ殺さなかったのか。たまたまハレムに来ていた、この少女より幼い王子すら殺したのに。奴隷も側女も使用人もすべて殺したのに。なぜかこの少女だけは殺さなかった。

 男は彼女が妻の話し相手になっていたことなどこれっぽっちも知らなかった。なのに男の手は、この少女の血を流すことを選ばなかった。ただ、それだけだった。

「うそぉ」

「嘘じゃねぇよ」

 嘘じゃない。

 けれどそれはたぶん、本当でもない。

 見えなかったのは、この少女の妻に対する「悪意」だったと、男は思うことにした。そして復讐鬼と成り果てた自分にも、そんなことを思う部分があるのだと思うと、溜息に似た笑いがこみ上げた。

「ふふ」

 男よりも先に少女が笑った。

 男の心の内を読んだかのように、くすくすと笑い始めた。

「気持ち悪い笑い方すんな」

 ばつが悪くなり、男は突っ慳貪な態度を取った。

「はぁい」

 子供らしい返事を返し、少女は黙って男の腕の中にいることを選んだ。規則的な駱駝の足並み。仄かに香るシーシャの移り香。少女はかつて感じたことのないほどの安堵を覚えた。




 砂の国。金色の世界。

 駱駝の揺れとシーシャの香り。

 黒い服の男が、亜麻色の髪の少女と二人。

 罪を嘲笑うかのような苛烈な日差しが二人を見下ろしている。

感想等ありましたらどうぞお書きください。

よろしくお願いいたします。

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