『犯人は、昨日の私』
人は、ときどき自分の記憶よりも、自分の直感のほうを信じるべき瞬間がある。
たとえば、見覚えのない置き手紙を見つけた朝。
たとえば、開けてはいけないと書かれた冷蔵庫の前に立ったとき。
たとえば、玄関の向こうから、自分自身の声が聞こえたとき。
これは、あるひとつの部屋で起きた、説明のつかない朝の話だ。
そしてたぶん、誰にでも起こりうる“最悪のすれ違い”の話でもある。
どうか最後まで、扉を開けずに読んでほしい。
午前七時十二分。
目を覚ました綾瀬真琴は、自分の部屋の天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。
枕元に、見覚えのないメモが置かれていたからだ。
冷蔵庫を開けるな。
警察を呼ぶな。
八時十分になったら、必ず黒い電話に出ろ。
そして何より、
昨日の自分を信じるな。
真琴は一人暮らしだった。
昨夜はたしか、編集プロダクションの仕事を終えてまっすぐ帰宅し、コンビニ弁当を食べ、シャワーを浴びて寝た。それだけだ。酒も飲んでいない。
なのに、机の上にはメモがもう一枚あった。
包丁は一本足りない。探すな。
背筋が冷えた。
部屋を見回す。カーテンは閉まっている。鍵も内側からかかっていた。荒らされた形跡はない。
だが、静かすぎた。妙に。
真琴は恐る恐るベッドを降り、キッチンへ向かった。
シンクはきれいに洗われている。まな板も乾いている。異常はない。
だが、包丁立てを見ると、たしかに一本分だけ空いていた。
喉が鳴った。
「なに、これ……」
思わず冷蔵庫に手を伸ばしかけて、メモを思い出して止める。
冷蔵庫を開けるな。
なぜだ。中に何がある。
そのとき、玄関のドアが三回、ゆっくり叩かれた。
コン、コン、コン。
真琴は息を止めた。
チャイムではない。ノックだ。妙に遠慮がちで、なのに確信めいている。
「……どなたですか」
返事はない。
覗き穴をのぞく。
誰もいない。
けれど、ドアの下の隙間から、白い紙が一枚差し込まれた。
震える指で拾い上げる。
覗いても無駄。私は死角にいる。
八時十分まで外に出るな。
生きたければ。
真琴は紙を落とした。
誰かがいる。
自分の行動を見ている。
しかも、家の構造を知っている。
スマホを探すと、テーブルの上にあった。
警察に電話しようとして、画面を見て手が止まる。
発信履歴の一番上に、見知らぬ番号への通話記録が残っていた。時刻は午前二時十四分。通話時間、四分三十八秒。
覚えがない。
さらに、ボイスメモのアプリに赤い未再生マークが付いていた。
再生する。
ザー、というノイズのあと、自分の声が流れた。
『明日の私へ。落ち着いて聞いて。時間がない。説明してもたぶん信じないだろうけど、本当のことだけ言う。私は今、あなたより“あと”にいる』
真琴はスマホを取り落としそうになった。
『八時十分に電話が鳴る。その相手の言う通りにして。警察は呼ばないで。冷蔵庫は見ないで。見た瞬間、あなたは“確定”する』
“確定”?
『私は最初、悪い冗談だと思った。でも違った。これは罠じゃない。“仕組み”なの。今日の夜、あなたは人を殺す。しかも、自分の意志で。止めたければ、電話に出て』
音声はそこで切れていた。
真琴は床に座り込んだ。
頭がついていかない。未来の自分? 何を言っている?
だが、声はたしかに自分だった。息の吸い方も、語尾の震えも。
時計は七時四十九分。
そのとき、また玄関が叩かれた。今度は二回。
コン、コン。
「やめて!」
叫んでも返事はない。
代わりに、玄関の外から女の声がした。
「開けないで。そのままでいて」
真琴は凍りついた。
その声も、自分の声だった。
「私が誰だかわかるよね」と外の声は言った。
「昨日のあなたは失敗した。だから、今日はやり直し。お願い、開けないで。八時十分の電話が鳴ったら、受話器を取って。“地下には行かない”って言うの」
地下?
このマンションに地下などない。
「意味わかんない……」と真琴は呟いた。
外の自分は続けた。
「冷蔵庫を開けたら終わり。中を見た瞬間、あなたは“自分が何をしたか”を理解して、同じ選択を繰り返す。だから見ないで」
「何をしたのよ!」
しばらく沈黙があった。
そして外の声は、泣きそうに答えた。
「私たちは、もう一人の自分を殺した」
その瞬間、部屋の黒電話が鳴った。
ジリリリリリ。
真琴は跳ねるように振り返った。
古い固定電話だ。入居時から置いてあったが、一度も鳴ったことはない。
八時十分。
真琴は受話器を取った。
「はい……」
男の声がした。低く、穏やかな声だった。
「綾瀬真琴さんですね。落ち着いて聞いてください。あなたの部屋は現在、時系列の歪みに巻き込まれています」
真琴は何も言えない。
「あなたは今朝、三つの可能性に分岐しました。ひとつは冷蔵庫を開ける真琴。ひとつは玄関を開ける真琴。最後が、電話に出る真琴です」
「誰ですか」
「あなたが昨夜電話した相手です。時間管理局監察課、と名乗っても信じてもらえないでしょうが」
あまりに馬鹿げていて、逆に笑えなかった。
男は事務的に続ける。
「昨夜二十三時四十分、あなたの部屋で“自己同士の接触事故”が起きました。未来のあなたが過去のあなたに接触し、さらにその未来のあなたを、別のあなたが刺した。結果、死体が一体、未確定存在が二体、現存あなたが一体です」
真琴の喉がひゅっと鳴る。
「……死体?」
「冷蔵庫の中です」
言われた瞬間、視線が勝手に冷蔵庫へ向いた。
「見ないでください」と男が鋭く言った。
「見れば記憶が接続され、あなたは“その死体を隠した私”になります。そうなるとループが固定されます」
真琴は目を逸らした。
気持ち悪い。吐きそうだ。
「では、どうすれば」
「玄関の外にいるあなたを入れないことです。彼女はあなたの未来の一形態ですが、もっとも自己保存に偏った分岐です。彼女は中に入り、冷蔵庫を見せ、あなたに罪を自覚させることでループを閉じようとします」
外から声が飛ぶ。
「嘘よ! 電話の男を信じちゃだめ! あいつが全部始めた!」
真琴は混乱して受話器を握りしめた。
男は静かに言った。
「外のあなたは、もう長く存在できません。だから焦っています。選択してください。
一つ、玄関を開けて彼女を入れる。
二つ、冷蔵庫を開けて真実を見る。
三つ、ベランダに出て、隣室との境の非常壁を叩く」
「非常壁?」
「隣の部屋には、まだ誰もいない“最初のあなた”がいます。壁を壊せば、時系列の閉鎖が破れます」
真琴は目を見開いた。
このマンションの隣室は空室のはずだ。
「そんなの……」
「時間がありません」
玄関が激しく叩かれ始めた。
コンコン、ではない。ドン、ドン、ドン、と体当たりする音。
「開けて!」
外の自分が叫ぶ。
「お願い! あなたは知らないだけ! もう何回も繰り返してるの! ベランダなんか行ったら、あれが来る!」
「あれ?」と真琴が聞き返した瞬間、天井の上で、何かが這う音がした。
ず……ずず……。
人間の足音ではない。
重く、粘るような音が、部屋の真上を移動している。
電話の男が初めて声を荒げた。
「ベランダへ!」
真琴は反射的に走った。カーテンを開け、窓の鍵を外す。
ベランダに出ると、朝の空気が冷たく肺に刺さった。
隣との境の薄い非常壁。
たしかにある。白い板。蹴れば壊せそうだ。
そのとき、背後の窓ガラスに、天井を這う“何か”が映った。
真琴は凍った。
天井に張り付いていたのは、人間だった。
いや、人間の形をした何か。
髪をだらりと垂らし、首があり得ない角度に曲がり、手足を蜘蛛のように広げて、ゆっくりこちらを見下ろしている。
顔は――真琴だった。
ただし、口が耳まで裂けている。
「見つけた」と、それが言った。
真琴は悲鳴を上げ、非常壁を蹴った。
一度、二度、三度。
板が割れる。
その向こうに、薄暗い隣室が見えた。
そしてそこには、ベッドの上で眠っている自分がいた。
真琴は立ち尽くした。
部屋番号を見間違えたのではない。家具の配置も、カーテンも、机も、すべて自分の部屋と同じだ。
電話の男の声が受話器越しに響く。
「その人が、まだ何も知らない最初のあなたです。起こしてください。あなたが存在している限り、ループは連鎖します。最初のあなたに選ばせるしかない」
背後でガラスが砕けた。
あの“天井の真琴”が、ベランダへ出てきたのだ。
四肢を歪ませたまま、にたりと笑う。
「毎回そこまで行くのに、毎回失敗する」
玄関の方からも声がする。
外の真琴が、どうやってか回り込んできたらしい。
「起こしちゃだめ!」
「起こせば増える!」
「減らすしかないの!」
「一人にするの!」
二人の自分が迫る。
一人は泣き叫び、一人は笑っている。
真琴は隣室へ飛び込み、眠る自分の肩を揺さぶった。
「起きて! 起きて!」
ベッドの自分が、ゆっくり目を開ける。
その目は、何も知らない朝の目だった。
「……だれ?」
その無垢な声を聞いた瞬間、真琴の中で何かが決壊した。
この子だけは、ここから出してはいけない。
自分がこんなふうになる前に、終わらせなければ。
背後から二人の自分が同時に叫ぶ。
「包丁を!」
その言葉に、眠っていた真琴が反射的にベッド脇を見る。
そこには、一本の包丁があった。
最初から置かれていたみたいに、自然に。
すべてが、罠だ。
真琴は直感した。
選ばせているようで、選択肢そのものが仕組まれている。
電話の男が言う。
「包丁を取ってください。未確定存在を処理すれば、あなたは安定します」
外の真琴が叫ぶ。
「包丁を捨てて! そいつの言う“安定”が、冷蔵庫の中身よ!」
天井の真琴は笑う。
「さあ、誰を殺す?」
そのとき、眠りから起こされた“最初の真琴”が、震えながら言った。
「……なんで、みんな私の顔してるの」
その一言で、真琴ははっきり理解した。
これは生き残りゲームじゃない。
“犯人探し”ですらない。
自分たちは全員、同じひとつの恐怖から派生した結果だ。
誰かが誰かを殺したから始まったのではない。
最初に“自分を殺してでもこの朝をなかったことにしたい”と願った瞬間に、犯人が生まれたのだ。
真琴は包丁をつかんだ。
二人の自分が身構える。
電話の向こうで男が息を呑む。
だが真琴は、包丁を非常壁の残骸に向かって全力で投げつけた。
配管に当たり、火花が散る。
次の瞬間、壁の中を走っていた古いガス管が裂けた。
耳をつんざく警報音。
ガスの臭い。
「やめろ!」と電話の男が叫ぶ。
「それは観測不能になる!」
「それでいい」
真琴は笑った。初めて、自分の意志で。
観測できるから固定される。
覚えているから繰り返す。
だったら全部、壊してしまえばいい。
天井の真琴が飛びかかってくる。
外の真琴が腕を伸ばす。
眠っていた最初の真琴が泣き出す。
真琴はガスの中、部屋の中央へ進み、黒電話を床に叩きつけた。
受話器から火花が散る。
世界が白く弾けた。
真琴が次に目を覚ましたのは、病院だった。
軽い爆発事故。
幸い死者なし。
古い配管の不具合が原因、と説明された。
マンションの自室は半焼。
隣室はやはり空室。
黒電話など最初から設置されていない。
冷蔵庫の中には、溶けたアイスと焦げた卵しかなかった。
警察も医師も、真琴の話をまともに取り合わなかった。
極度のストレスによる一時的な錯乱。そう処理された。
それでいい、と真琴は思った。
数週間後、退院の日。
荷物の中に、自分のスマホが返却された。
電源を入れる。
未再生のボイスメモが一件。
時刻表示は、明日の午前二時十四分。
真琴の指が止まる。
再生すると、ノイズの奥で、自分の声が囁いた。
『明日の私へ。今回はたぶん、かなり近いところまで行けた』
その後ろで、知らない子どもの声がした。
『ママ、まだ起きてるの?』
真琴の全身から血の気が引いた。
自分には、子どもなんていない。
音声の最後に、もう一つだけ言葉が入っていた。
『次は、冷蔵庫の中から始まる』
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
この物語では、「犯人は誰か」という問いを追いかけながら、
本当は「自分とは何か」「記憶とはどこまで信用できるのか」という不安を書きたかったのだと思います。
もし、自分の未来や過去が目の前に現れたとき、
それは味方なのでしょうか。
それとも、自分の顔をしたまったく別の恐怖なのでしょうか。
冷蔵庫を開けること。
電話に出ること。
扉を開けること。
日常のささやかな動作ほど、取り返しのつかない選択になるかもしれない。
そんな気味の悪さが、少しでも残っていたらうれしいです。
この話は1話完結ですが、
“まだ終わっていない気配”だけは、部屋のどこかに残しておきました。
また別の物語で、お会いできれば幸いです。




