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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

『犯人は、昨日の私』

作者: 佐倉 透
掲載日:2026/04/08

人は、ときどき自分の記憶よりも、自分の直感のほうを信じるべき瞬間がある。

たとえば、見覚えのない置き手紙を見つけた朝。

たとえば、開けてはいけないと書かれた冷蔵庫の前に立ったとき。

たとえば、玄関の向こうから、自分自身の声が聞こえたとき。

これは、あるひとつの部屋で起きた、説明のつかない朝の話だ。

そしてたぶん、誰にでも起こりうる“最悪のすれ違い”の話でもある。

どうか最後まで、扉を開けずに読んでほしい。


午前七時十二分。

目を覚ました綾瀬真琴は、自分の部屋の天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。


枕元に、見覚えのないメモが置かれていたからだ。


冷蔵庫を開けるな。

警察を呼ぶな。

八時十分になったら、必ず黒い電話に出ろ。

そして何より、

昨日の自分を信じるな。


真琴は一人暮らしだった。

昨夜はたしか、編集プロダクションの仕事を終えてまっすぐ帰宅し、コンビニ弁当を食べ、シャワーを浴びて寝た。それだけだ。酒も飲んでいない。


なのに、机の上にはメモがもう一枚あった。


包丁は一本足りない。探すな。


背筋が冷えた。


部屋を見回す。カーテンは閉まっている。鍵も内側からかかっていた。荒らされた形跡はない。

だが、静かすぎた。妙に。


真琴は恐る恐るベッドを降り、キッチンへ向かった。

シンクはきれいに洗われている。まな板も乾いている。異常はない。

だが、包丁立てを見ると、たしかに一本分だけ空いていた。


喉が鳴った。


「なに、これ……」


思わず冷蔵庫に手を伸ばしかけて、メモを思い出して止める。

冷蔵庫を開けるな。

なぜだ。中に何がある。


そのとき、玄関のドアが三回、ゆっくり叩かれた。


コン、コン、コン。


真琴は息を止めた。

チャイムではない。ノックだ。妙に遠慮がちで、なのに確信めいている。


「……どなたですか」


返事はない。


覗き穴をのぞく。

誰もいない。

けれど、ドアの下の隙間から、白い紙が一枚差し込まれた。


震える指で拾い上げる。


覗いても無駄。私は死角にいる。

八時十分まで外に出るな。

生きたければ。


真琴は紙を落とした。


誰かがいる。

自分の行動を見ている。

しかも、家の構造を知っている。


スマホを探すと、テーブルの上にあった。

警察に電話しようとして、画面を見て手が止まる。

発信履歴の一番上に、見知らぬ番号への通話記録が残っていた。時刻は午前二時十四分。通話時間、四分三十八秒。


覚えがない。


さらに、ボイスメモのアプリに赤い未再生マークが付いていた。

再生する。


ザー、というノイズのあと、自分の声が流れた。


『明日の私へ。落ち着いて聞いて。時間がない。説明してもたぶん信じないだろうけど、本当のことだけ言う。私は今、あなたより“あと”にいる』


真琴はスマホを取り落としそうになった。


『八時十分に電話が鳴る。その相手の言う通りにして。警察は呼ばないで。冷蔵庫は見ないで。見た瞬間、あなたは“確定”する』


“確定”?


『私は最初、悪い冗談だと思った。でも違った。これは罠じゃない。“仕組み”なの。今日の夜、あなたは人を殺す。しかも、自分の意志で。止めたければ、電話に出て』


音声はそこで切れていた。


真琴は床に座り込んだ。

頭がついていかない。未来の自分? 何を言っている?

だが、声はたしかに自分だった。息の吸い方も、語尾の震えも。


時計は七時四十九分。


そのとき、また玄関が叩かれた。今度は二回。


コン、コン。


「やめて!」


叫んでも返事はない。

代わりに、玄関の外から女の声がした。


「開けないで。そのままでいて」


真琴は凍りついた。

その声も、自分の声だった。


「私が誰だかわかるよね」と外の声は言った。

「昨日のあなたは失敗した。だから、今日はやり直し。お願い、開けないで。八時十分の電話が鳴ったら、受話器を取って。“地下には行かない”って言うの」


地下?

このマンションに地下などない。


「意味わかんない……」と真琴は呟いた。


外の自分は続けた。

「冷蔵庫を開けたら終わり。中を見た瞬間、あなたは“自分が何をしたか”を理解して、同じ選択を繰り返す。だから見ないで」


「何をしたのよ!」


しばらく沈黙があった。

そして外の声は、泣きそうに答えた。


「私たちは、もう一人の自分を殺した」


その瞬間、部屋の黒電話が鳴った。


ジリリリリリ。


真琴は跳ねるように振り返った。

古い固定電話だ。入居時から置いてあったが、一度も鳴ったことはない。


八時十分。


真琴は受話器を取った。


「はい……」


男の声がした。低く、穏やかな声だった。


「綾瀬真琴さんですね。落ち着いて聞いてください。あなたの部屋は現在、時系列の歪みに巻き込まれています」


真琴は何も言えない。


「あなたは今朝、三つの可能性に分岐しました。ひとつは冷蔵庫を開ける真琴。ひとつは玄関を開ける真琴。最後が、電話に出る真琴です」


「誰ですか」


「あなたが昨夜電話した相手です。時間管理局監察課、と名乗っても信じてもらえないでしょうが」


あまりに馬鹿げていて、逆に笑えなかった。


男は事務的に続ける。

「昨夜二十三時四十分、あなたの部屋で“自己同士の接触事故”が起きました。未来のあなたが過去のあなたに接触し、さらにその未来のあなたを、別のあなたが刺した。結果、死体が一体、未確定存在が二体、現存あなたが一体です」


真琴の喉がひゅっと鳴る。


「……死体?」


「冷蔵庫の中です」


言われた瞬間、視線が勝手に冷蔵庫へ向いた。


「見ないでください」と男が鋭く言った。

「見れば記憶が接続され、あなたは“その死体を隠した私”になります。そうなるとループが固定されます」


真琴は目を逸らした。

気持ち悪い。吐きそうだ。


「では、どうすれば」


「玄関の外にいるあなたを入れないことです。彼女はあなたの未来の一形態ですが、もっとも自己保存に偏った分岐です。彼女は中に入り、冷蔵庫を見せ、あなたに罪を自覚させることでループを閉じようとします」


外から声が飛ぶ。


「嘘よ! 電話の男を信じちゃだめ! あいつが全部始めた!」


真琴は混乱して受話器を握りしめた。

男は静かに言った。


「外のあなたは、もう長く存在できません。だから焦っています。選択してください。

一つ、玄関を開けて彼女を入れる。

二つ、冷蔵庫を開けて真実を見る。

三つ、ベランダに出て、隣室との境の非常壁を叩く」


「非常壁?」


「隣の部屋には、まだ誰もいない“最初のあなた”がいます。壁を壊せば、時系列の閉鎖が破れます」


真琴は目を見開いた。

このマンションの隣室は空室のはずだ。


「そんなの……」


「時間がありません」


玄関が激しく叩かれ始めた。

コンコン、ではない。ドン、ドン、ドン、と体当たりする音。


「開けて!」

外の自分が叫ぶ。

「お願い! あなたは知らないだけ! もう何回も繰り返してるの! ベランダなんか行ったら、あれが来る!」


「あれ?」と真琴が聞き返した瞬間、天井の上で、何かが這う音がした。


ず……ずず……。


人間の足音ではない。

重く、粘るような音が、部屋の真上を移動している。


電話の男が初めて声を荒げた。

「ベランダへ!」


真琴は反射的に走った。カーテンを開け、窓の鍵を外す。

ベランダに出ると、朝の空気が冷たく肺に刺さった。


隣との境の薄い非常壁。

たしかにある。白い板。蹴れば壊せそうだ。


そのとき、背後の窓ガラスに、天井を這う“何か”が映った。


真琴は凍った。


天井に張り付いていたのは、人間だった。

いや、人間の形をした何か。


髪をだらりと垂らし、首があり得ない角度に曲がり、手足を蜘蛛のように広げて、ゆっくりこちらを見下ろしている。

顔は――真琴だった。


ただし、口が耳まで裂けている。


「見つけた」と、それが言った。


真琴は悲鳴を上げ、非常壁を蹴った。

一度、二度、三度。

板が割れる。


その向こうに、薄暗い隣室が見えた。


そしてそこには、ベッドの上で眠っている自分がいた。


真琴は立ち尽くした。

部屋番号を見間違えたのではない。家具の配置も、カーテンも、机も、すべて自分の部屋と同じだ。


電話の男の声が受話器越しに響く。

「その人が、まだ何も知らない最初のあなたです。起こしてください。あなたが存在している限り、ループは連鎖します。最初のあなたに選ばせるしかない」


背後でガラスが砕けた。


あの“天井の真琴”が、ベランダへ出てきたのだ。

四肢を歪ませたまま、にたりと笑う。


「毎回そこまで行くのに、毎回失敗する」


玄関の方からも声がする。

外の真琴が、どうやってか回り込んできたらしい。


「起こしちゃだめ!」

「起こせば増える!」

「減らすしかないの!」

「一人にするの!」


二人の自分が迫る。

一人は泣き叫び、一人は笑っている。


真琴は隣室へ飛び込み、眠る自分の肩を揺さぶった。


「起きて! 起きて!」


ベッドの自分が、ゆっくり目を開ける。


その目は、何も知らない朝の目だった。


「……だれ?」


その無垢な声を聞いた瞬間、真琴の中で何かが決壊した。

この子だけは、ここから出してはいけない。

自分がこんなふうになる前に、終わらせなければ。


背後から二人の自分が同時に叫ぶ。


「包丁を!」


その言葉に、眠っていた真琴が反射的にベッド脇を見る。

そこには、一本の包丁があった。


最初から置かれていたみたいに、自然に。


すべてが、罠だ。

真琴は直感した。

選ばせているようで、選択肢そのものが仕組まれている。


電話の男が言う。

「包丁を取ってください。未確定存在を処理すれば、あなたは安定します」


外の真琴が叫ぶ。

「包丁を捨てて! そいつの言う“安定”が、冷蔵庫の中身よ!」


天井の真琴は笑う。

「さあ、誰を殺す?」


そのとき、眠りから起こされた“最初の真琴”が、震えながら言った。


「……なんで、みんな私の顔してるの」


その一言で、真琴ははっきり理解した。


これは生き残りゲームじゃない。

“犯人探し”ですらない。

自分たちは全員、同じひとつの恐怖から派生した結果だ。


誰かが誰かを殺したから始まったのではない。

最初に“自分を殺してでもこの朝をなかったことにしたい”と願った瞬間に、犯人が生まれたのだ。


真琴は包丁をつかんだ。

二人の自分が身構える。

電話の向こうで男が息を呑む。


だが真琴は、包丁を非常壁の残骸に向かって全力で投げつけた。

配管に当たり、火花が散る。

次の瞬間、壁の中を走っていた古いガス管が裂けた。


耳をつんざく警報音。

ガスの臭い。


「やめろ!」と電話の男が叫ぶ。

「それは観測不能になる!」


「それでいい」


真琴は笑った。初めて、自分の意志で。


観測できるから固定される。

覚えているから繰り返す。

だったら全部、壊してしまえばいい。


天井の真琴が飛びかかってくる。

外の真琴が腕を伸ばす。

眠っていた最初の真琴が泣き出す。


真琴はガスの中、部屋の中央へ進み、黒電話を床に叩きつけた。

受話器から火花が散る。


世界が白く弾けた。


真琴が次に目を覚ましたのは、病院だった。


軽い爆発事故。

幸い死者なし。

古い配管の不具合が原因、と説明された。


マンションの自室は半焼。

隣室はやはり空室。

黒電話など最初から設置されていない。

冷蔵庫の中には、溶けたアイスと焦げた卵しかなかった。


警察も医師も、真琴の話をまともに取り合わなかった。

極度のストレスによる一時的な錯乱。そう処理された。


それでいい、と真琴は思った。


数週間後、退院の日。

荷物の中に、自分のスマホが返却された。


電源を入れる。

未再生のボイスメモが一件。


時刻表示は、明日の午前二時十四分。


真琴の指が止まる。


再生すると、ノイズの奥で、自分の声が囁いた。


『明日の私へ。今回はたぶん、かなり近いところまで行けた』


その後ろで、知らない子どもの声がした。


『ママ、まだ起きてるの?』


真琴の全身から血の気が引いた。

自分には、子どもなんていない。


音声の最後に、もう一つだけ言葉が入っていた。


『次は、冷蔵庫の中から始まる』

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


この物語では、「犯人は誰か」という問いを追いかけながら、

本当は「自分とは何か」「記憶とはどこまで信用できるのか」という不安を書きたかったのだと思います。


もし、自分の未来や過去が目の前に現れたとき、

それは味方なのでしょうか。

それとも、自分の顔をしたまったく別の恐怖なのでしょうか。


冷蔵庫を開けること。

電話に出ること。

扉を開けること。

日常のささやかな動作ほど、取り返しのつかない選択になるかもしれない。

そんな気味の悪さが、少しでも残っていたらうれしいです。


この話は1話完結ですが、

“まだ終わっていない気配”だけは、部屋のどこかに残しておきました。


また別の物語で、お会いできれば幸いです。

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