白い結婚の夫が祭壇で私にだけ聞いた。「許可は」
妹ソルシェナの甲高い声が、神殿の石壁に跳ね返った。
「偽聖女リーゼルナを断罪してください! その印は、私にこそ宿るべきものです!」
列席の貴族たちがどよめき、香の匂いが一瞬だけ苦くなる。私の指先は冷えて、袖口の奥で震えた。祭壇の上、私は花嫁衣装のまま、神官に腕を掴まれかけていた。
大神官オルヴェルトの瞳は、慈悲という名の鎖をしている。
「聖女は神殿のもの。血の証明が必要だ。今ここで誓印を示せ。示せぬなら連行だ」
連行。聖女として育てられた日々が、祈りと命令の繰り返しに戻る。私は反射で頷きかけた。拒むという選択肢が、喉の奥で溶けて消えそうになって。
その瞬間、隣にいた新郎が一歩、私の前に出た。
レオドリス公爵。冷たい噂の多い男。今日、私は彼と「白い結婚」を誓うはずだった。世間に向けた形だけの婚姻。私は守られる代わりに、彼の政略の駒になる。そう思っていた。
けれど彼は、誰よりも静かな声で宣言した。
「白い結婚を誓う。触れるのは、彼女が許した時だけだ」
神官たちが顔をしかめる。オルヴェルトが嘲るように笑う。
「公爵、聖女は神殿の——」
「その言葉、今この祭壇で口にするなら、神前の誓いに泥を塗ることになる」
レオドリスは視線も揺らさない。私のほうを振り返り、唇だけで息を落とした。
「許可は」
それは命令ではなかった。お願いに近い、ひどく不器用な問いかけだった。
私は、何年ぶりかに「私が決めていい」と言われた気がして、胸が痛む。怖い。許可して、裏切られたら。許可しないで、連行されたら。
それでも。ここで頷いたら、私はまた道具に戻る。
私は小さく息を吸って、言葉をひとつずつ組み立てた。
「……指先だけ。いまは、指先だけなら」
レオドリスは、頷いた。手袋を外し、ゆっくりと私の左手に近づける。石畳の上を歩く靴音さえ、誰かが飲み込んだみたいに消えていた。
指先が、私の薬指に触れた。
熱が、灯る。肌の下で小さな星が生まれたみたいに、誓印が白く輝いた。光は派手ではない。けれど嘘を拒む強さがあった。列席者の息が止まり、次の瞬間、ざわめきが爆ぜる。
「……灯った、だと?」
オルヴェルトの声が、掠れた。
私は、レオドリスの指先から伝わる温度を感じながら、初めて確信した。
誓印は、私のものだ。私の許可でしか、灯らない。
***
屋敷に戻っても、神殿は追ってきた。馬車の轍の音がまだ止まぬうちに、黒衣の神官たちが門前に並ぶ。
「聖女を返還せよ! 神殿の所有物を奪うとは——」
声を張り上げる若い神官の横で、ナディが顔を顰めた。彼女は私付きの侍女で、祈りより台所の火の扱いが上手な人だ。
「所有物って……人を棚にでもしまう気ですかね」
小さく毒づいたナディに、私は笑いたくなったのに、喉が固くて音が出なかった。
レオドリスは私の前に立った。腕を広げて壁になるのではなく、ただ一歩、私と神官の間に立つ。触れない。祭壇での誓いを、そのままここに持ってきたみたいに。
「ここは公爵邸だ。無許可の立ち入りはできない」
「許可など、神殿が出す!」
若い神官が手を伸ばしかけた。ナディが素早くその手首を払う。パシン、と乾いた音。
「触るな。うちの奥様の許可なしで触ったら、黒くなるのはあなたですよ」
私は、その言葉に背中を押されるようにして、レオドリスの横に並んだ。
彼は振り返らずに、小さく言った。
「怖いなら、断っていい」
断っていい。そんな言葉を、私は誰からももらってこなかった。
神官たちは引かない。門の外で騒ぎ、神殿の権威を振り回す。
その時、レオドリスが懐から鍵束を取り出し、私に差し出した。冷たい金属が、私の掌に落ちる音がした。
「君の部屋に入る許可をくれ。君の領域だから」
「……私の、領域」
その言い方が、胸のどこかを解かす。部屋は私に与えられる檻だと思っていた。でも、領域と呼ばれると、守るべき場所に変わる。
私は鍵を握りしめたまま、言った。
「……入っていい。けど、勝手に触らないで」
「もちろん」
彼は即答し、扉を開ける前に一度、私を見た。確認する目。許可が「通行証」ではなく、「私の意思」だと理解している目。
鍵が回る。カチリ、と小さな音。私はその音に、初めての成功体験を聞いた気がした。
夜、部屋に戻って、私は自分の左手を見つめた。誓印は薄い光を残し、やがて眠るように消えていた。
許可を出しても、私は壊れなかった。
許可を出したからこそ、私は守られた。
その事実が、ゆっくりと、怖さの底に沈殿していく。
***
公開裁定の日が近づくにつれ、屋敷の空気は薄く張り詰めた。神殿が「真偽の裁定」を要求し、王都の広場で儀式を執り行うという。逃げれば罪。出れば罠。どちらにしても、私の人生はまた誰かの手で決められる。
夜の廊下で、レオドリスとすれ違った。蝋燭の光が揺れ、彼の影が長く伸びる。
彼は手袋を外しかけて、途中で止めた。指先が空気に触れ、そして引っ込められる。
「リーゼルナ」
名前を呼ばれるだけで、心臓が少し速くなる。私はそれが怖かった。恋は、許可よりずっと厄介だ。
「触れたい」
彼はまっすぐ言った。思わず目を見開く私に、続ける。
「だが勝つために君を使いたくない。君が許す時まで、俺は触れない」
その言葉は甘いのに、無理やり甘くしていない。砂糖菓子ではなく、温いスープみたいに、身体の奥を静かに温める。
私の記憶が、一瞬だけ刺さった。
神殿で、祈りの時。私は無許可で手を取られ、指を組まされ、笑顔のまま「聖女らしく」祈らされた。拒めば罰が待っている。許可という概念すら、そこにはなかった。
その時の指の痛みと、今日の指先の温度が、同じ「触れられる」なのに、まるで違う。
私は唇を噛み、言った。
「許可は、私が出す。奪わせない」
声が震えた。でも言えた。言えたことが、嬉しいのに泣きたくなる。
レオドリスは、微かに笑った。
「それでいい。君の許可は、君のものだ」
廊下の窓から、夜空が見えた。冬の星が冴え、遠くの鐘楼が静かに眠っている。私は、星の光よりも、自分の中に灯った小さな決意のほうが眩しく感じた。
***
公開裁定の日。広場は人で埋まり、神殿の白い幕が風に鳴った。香と汗の匂いが混ざり、私の胃がきゅっと縮む。
壇上には大神官オルヴェルト、その隣に妹ソルシェナ。二人とも、勝利を前提にした顔をしていた。見下ろすような笑みは、昔から変わらない。
そして、壇の端に立つ男が一人。
王命監察官ヴァルシオ。淡々とした顔で、巻物を開いた。
「王命により、本件は公開裁定とする。拒否は職務放棄とみなし、即時拘束。……以上」
逃げ道はない、と言い切る声。観衆がざわめき、私の指先が冷たくなる。
オルヴェルトが前に出た。
「リーゼルナ。誓印を示せ。神殿の儀式に従い、触れて確認する」
その言葉の「触れて」が、まるで私の意思を踏み潰す靴音のようだった。
私は一歩前に出る。足が震える。けれど、震えるのは怖いからだけじゃない。ここで言わなければ、私はまた戻る。道具に。祈りの器に。
私は観衆に聞こえる声で、宣言した。
「私の許可がない接触は、誓印が黒く濁ります」
ざわめきが膨らむ。オルヴェルトの眉がぴくりと動いた。
「脅しか。聖女は——」
「神殿が私に触れる許可は、今この場で取り消します」
言い切った瞬間、胸の奥が少し軽くなった。私は今、取り消した。奪われる前に、取り消した。
レオドリスが、背後にいる。触れてはいない。でも、そこにいるというだけで、私の背骨は折れずに立っていられる。
オルヴェルトは笑った。勝ちを譲らない者の笑みだ。
「許可など不要。神意が許す」
そして、私の手首に手を伸ばした。
触れた瞬間。
熱が、逆流するように冷たくなった。誓印が、白ではなく、墨を溶かしたような黒で滲んだ。指先にまで黒が走り、観衆の目が一斉にそこへ吸い寄せられる。
オルヴェルトの顔色が変わった。引っ込めようとした手が、硬直する。
「……な、ぜ」
神前で黒濁した印は、職務停止の印。神殿の規律そのものが、彼の指を裁いた。
祈りの歌が、ぴたりと止んだ。
「大神官が黒濁……」
「無許可で触れたのか」
囁きが波になり、広場を巡る。
オルヴェルトは怒鳴ろうとして、声が出なかった。喉が神の前で詰まる。彼は、自分の言葉で自分を縛ったのだ。
妹ソルシェナが慌てて前に出た。
「違う! 私こそ聖女です! 見て! 私の印を!」
彼女は袖をまくり、手首を掲げた。何もない肌。焦りが、汗となって光る。
「……触れてみなさい。ほら!」
誰も触れない。触れたら黒くなるかもしれない、と皆が理解してしまったからだ。
ヴァルシオが冷静に告げた。
「誓印の反応なし。聖女血統の証明不成立。偽称とみなす」
観衆のざわめきが、今度は確信の音になった。ソルシェナの顔が真っ赤になり、唇が震える。
「そんな……私は、だって、私は——」
言葉が崩れる。彼女の足元から、彼女が積み上げてきた虚勢が崩れていく。
レオドリスが一歩前に出た。私に触れないまま、壇上に響く声で言う。
「リーゼルナは俺の妻だ。本人の許可なく扱う者は、神殿であれ誰であれ、敵とみなす」
その宣言は剣のように鋭いのに、私の内側を切らない。守るための刃だった。
ヴァルシオが巻物を閉じた。
「本日をもって大神官オルヴェルトは職務停止。妹ソルシェナは偽称の罪で拘束。……以上」
世界が、ひとつだけ、私の味方の形に変わった。
***
屋敷へ戻る馬車の中で、私はずっと自分の手を握っていた。誓印の黒は、もう消えている。黒は私ではなく、無許可の側に付く汚れだと、ようやく身体が理解した。
それでも震えは止まらない。勝ったのに。自由を手にしたのに。怖さは、長年の習性のように私を追う。
部屋に入ると、レオドリスが扉の前で立ち止まった。入っていいか、目で問う。
私は頷いた。鍵はもう、私の手の中にある。
「……入って」
彼は静かに入室し、すぐに膝をついた。公爵が跪く姿は不釣り合いで、だからこそ真実だった。
「触れたい。でも、怖い」
私が言うと、レオドリスは視線を上げ、まるで宝石を扱うみたいに慎重な声で返した。
「その許可は、俺だけが聞く」
胸の奥が、きゅっとなる。誰かの前で聖女らしく微笑む必要のない場所で、私は初めて「欲しい」と言えるのかもしれない。
私は両手を差し出した。自分から。許可は、言葉だけじゃなく、動作でもいいはずだ。
レオドリスは、私の手の上に自分の手を重ねる前に、もう一度だけ聞いた。
「……今?」
私は頷いた。
「今。手なら、いい」
掌が重なった瞬間、誓印が淡く灯った。白い光が、部屋の影を柔らかく溶かす。私はその光が好きだと思った。誰かに見せるためではなく、自分が安心するための灯り。
レオドリスは、そっと私を引き寄せた。抱き締める前に、私の腕が彼の背に回るのを待つ。私が抱き締め返して初めて、彼の腕が私を包んだ。
息が重なり、心臓の音が近い。怖い。けれど、怖さの中に、甘い熱がある。
彼の唇が、私の額に触れた。軽い、誓いのような口づけ。
「ここまででいい?」
私は、笑ってしまった。泣き笑いだ。こんな質問を、私はずっと欲しかった。
「……今日は、ここまで」
「了解だ、奥様」
その言い方が少しだけ照れ臭くて、私は彼の胸に顔を埋めた。
翌朝、窓から差す光は柔らかかった。私は湯のみを持つ手が震えていないことに気づく。湯気の向こうで、ナディが鼻歌を歌いながら布を干している。
レオドリスは扉の外から声をかけた。
「入っていいか」
私は湯のみを置いて、扉に向かう。鍵を回す音が、昨日よりも軽い。
「どうぞ」
彼は入室し、少し間を置いて言った。いつもみたいに、でも今日からは少し違う響きで。
「今日の許可は」
私は、指先を差し出す。自分から。
「……手から。あと、笑う許可も。私、きっと笑いたいから」
レオドリスが、微笑んだ。その笑みは、祭壇の冷たい空気を溶かした時と同じ、静かな強さを持っていた。
「喜んで。何度でも聞く。君が選ぶ限り」
誓印が淡く灯り、朝の光と混ざった。
私の人生は、ようやく私の許可で始まる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。ここまで来てくれたあなたに、心から感謝です。
「許可ひとつ」で人生は変わる。
触れられるより先に、自分を取り戻す恋の物語でした。
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