08 夜風もってしても、俺の感情は洗い流してくれない
夜も深くなると、俺たちしかいなかった空間に、ぽつりぽつりと新しい客が入ってきた。
途端に店はざわめきを取り戻し、響子さんと杏奈さんも慌ただしく動き始める。
そろそろ、帰ろう。
グラスに残った酒を飲み干し、立ち上がる。
「……お先に」
小さく会釈して、俺はステイルの扉を開いた。
酒のせいで火照った身体に、春先の夜気が心地よく染み込んでいく。
まだ肌寒さの残る空気の中に、どこか遠くで沈丁花の匂いが漂っていた。
もう白い息は出ない。
けれど、確かに冬の名残はそこにある。
春の兆しと混ざり合うその風が、やけに胸に沁みた。
「……なんで?」
外に出た俺の隣を、なぜか古野沢さんが歩いていた。
「放っておいたら逃げそうだったから」
即答。
なぜこんなに信用ないのか。
「さすがに、ああなったら腹くくるしかないだろ」
俺がそう返すと、古野沢さんはにやっと笑った。
「ふーん。じゃあ、やっと腹決めた証人さんに質問」
「質問?」
「あの時、、なんで公園近くで突っ立ってたの?」
「なんでもなにも、駅から家への帰り道だったからな」
「そういえば、スーツ着てたっけ、仕事帰り?」
「仕事帰りなのか、フラレ帰りなのか……俺にもわからん」
「なにそれ」
古野沢さんは何かを思い出したように、足を止め、こちらを見上げてきた。
街灯の下で金髪が揺れて、いたずらっぽい目がキラリと光る。
「そういえば、魔王になりかけただが言ってたわね」
「……覚えてたのか」
「忘れるわけないでしょ。あんな意味不明な自己申告」
振られたあとの変なテンションで口走ったことが掘り返すのやめてほしい。
「じゃあ、ほんとに失恋直後に、あたしの修羅場に遭遇したわけ?」
「そういうことになるな」
「……タイミング悪っ」
「君に言われたくねぇ」
俺がため息をつくと、彼女はお腹を抱えて笑い出した。
その笑い声がやけに夜空に響いて、少しだけ胸のざらつきが和らぐ。
「でもさ」
「ん?」
「フラれたその足で“証人”に任命されるとか、あんた運命感じない?」
「感じるわけないだろ」
「うっわ、ノリ悪。もっとロマンチックにいこうよ」
「どこの世界に証人にロマン求めるやつがいるんだよ」
古野沢さんはまた声を立てて笑った。
「でも、今日こうやって会えたのは運命的でしょ?」
冗談半分の口ぶりなのに、その瞳だけは妙に真剣で。
俺は返す言葉を探しながら、視線を逸らした。
「……運命なんて、大げさだろ」
「ふーん。じゃあ偶然?」
「災いだな」
「夢がない……」
バーでの惨状を思い返すとこれが適切な気がするが、古野沢さんは、納得してない様子だ。
わざとらしく肩をすくめ、足を止めた。
街灯の下でこちらを見上げるその顔は、笑っているようで、どこか拗ねた子供みたいでもある。
「災いって言われると、ちょっと傷つくんだけど」
「……いや、古野沢さんじゃなくて状況にだ」
「ふーん。状況ねぇ」
彼女は小さくつぶやき、視線を夜空へ向けた。
春先の風が金髪を揺らし、その横顔にかすかな陰影を落とす。
「でもさ、災いの中でも出会えたって思えば、ちょっとは運命っぽくない?」
「……屁理屈だろ、それ」
「屁理屈でもいいじゃん。そう思ってた方が楽しいんだから」
にかっと笑う彼女に、俺はまたため息をついた。
けれど、胸の奥にこびりついていた苦さは、少しずつ薄れていく気がした。
★
ステイルは駅から歩いてすぐだ。
10分もしないうちに、俺と古野沢さんは駅前の広場に出た。
夜のわりには人通りがあり、タクシー待ちの列や、終電を気にして急ぐ足音が交差する。
ここから、俺はもう少し歩くだけどだけど、
古野沢さんはどうなんだろうか。
女子大生にどこ住んでるの?と聞くのは、なんとなく憚られる。
そんなことを思っていると、古野沢さんが口を開いた。
「証人さんの家って、あの公園の近くなの?」
「ああ。歩いて五分くらいだ」
「やっぱり。あの時もなんか地元っぽい雰囲気あったもん」
「まぁ地元といえば地元かな」
実家ここから3駅先だけど。
「ふーん。じゃあ証人さん、あの公園が庭みたいなもんじゃん」
「……庭って」
「だって、あんな修羅場に遭遇するの、庭じゃなきゃ確率低いでしょ?」
「それはただの不運だ」
俺が肩をすくめると、梨里は小さく笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、あの辺り、わりと落ち着くんだよね。気に入ってるの。あたし、大学進学でこっち出てきてからずっと一人暮らしだからさ」
「じゃあ、こっちの生まれじゃなかったんだ」
別に珍しいことではない。
このあたりは大学も多いから、進学を機に一人暮らしを始める人も多い。
その影響か家賃が安いのも助かる。
俺と健二がシェアハウスをしているのも、こういう得が多いからだ。
「うん。実家はもっと田舎。だから駅前とか夜の人混み、最初は慣れなかった」
「……今はもう慣れたのか?」
「半分くらい? でも“あの公園”みたいに静かな場所あると安心するんだよね」
そう言って笑った梨里の横顔を見ていたその時――。
視界の端で、見覚えのあるシルエットが改札を抜けてきた。
胸の奥が一瞬で冷える。
……安藤さん。
無意識に視線が吸い寄せられる。
向こうも何かを察したのか、ふとこちらに顔を向けて――目が合った。
刹那、時間が止まったように思えた。
あの日以来、初めての再会。
喉がひりつく。呼吸の仕方すら忘れそうになる。
「ん? どうかした?」
隣の古野沢さんが首を傾げる。まだ彼女は気づいていない。
安藤さんの瞳が、驚きと戸惑いを帯びて揺れた。
「……三浦くん?」
名前を呼ばれた瞬間、逃げ道を塞がれた気がした。