07 真実と隠蔽の天秤
前提としてだ。
鼻が曲がってしまった男は、
既に古野沢さんとは破局していて、現在進行形で二股しているわけではない。
ただ、他にも相手がいて、別でやってる可能性は低くないだろう。
桃子さんが怪しんでいた影が古野沢さんだけという保証はどこにもない。
第一、俺は鼻曲がりくんのパーソナルを何も知らない。
名前なんだっけ。顔もあの時、あんまり見れなかったし。
そんなやつについて、どこまで断言できるっていうんだ。
一ついえるのは、俺は、桃子さんに傷ついてほしくはない。
初対面である俺の話にあんなに感情を出してくれたいい人には幸せに生きていて欲しいと思う。
「……やっぱりさ」
思わず切り出してしまった。
「桃子さんを傷つけたくないんだよ。あんなに彼氏のこと好きで……泣くほど想ってるんだぜ。そんな子に『二股されてました』なんて言えるかよ」
分かってる。逃げだ。
胸の奥から湧き上がった言葉が言い訳だと自覚してしまう。
そんな俺切り裂くように、次の瞬間、梨里は迷いなく口を開いた。
「……言うべきよ」
あまりに即答で、俺は思わず顔を上げる。
その目は真っ直ぐで、まるで俺を射抜くみたいに揺るぎがない。
今まで、黙っていたのは、俺が何を言うのか待っていたのか。
議題を投げかけた杏奈さんは、古野沢さんならそういうと言わんばかりやっぱりかという顔をしている。
「だって浮気って、悪いことじゃん。隠していい理由なんてない」
「でも──」
反論しかけた俺を、彼女は容赦なく切った。
「もし逆だったらどう? 証人さんが桃子さんの立場だったら。みんなが黙ってて、最後まで何も知らされなかったら。……絶対に許せないでしょ?」
息が詰まる。
その言葉は真っ直ぐすぎて、俺の胸に刺さった。
それはもしかしたら、二股には気づかずにそのまま笑って過ごせる未来もあったのかもしれない。
何も知らないまま「幸せだ」と思い込んで、いつか自然に終わる恋を「いい思い出」と呼べる可能性だって、ゼロじゃない。
「それを『幸せ』ってことにするのは、あなたのエゴよ、正寿」
「マスター、聞いてたんスか」
「聞き耳立てなくても、こんな狭い店じゃ裏にいても勝手に聞こえてくるわよ」
「確かにッス……っていてっ!ひどいッス、マスタ〜〜~」
狭さに同意した杏奈さんをペシっとチョップしたあと、響子さんは俺たちの方に身体を向き直した。
「恋愛なんてどうせ傷つくんだ。それは正寿、あんたは体験したんだろ?」
「だからこそですよ……」
そうだ、恋愛なんてクソゲー、どう進んだってダメージは食らうし、一歩間違えればすぐゲームオーバーだ。
「どうせ傷つくんだったら、知らないまま終わる方がマシでしょ……。誰も泣かないで済むなら、それでいいじゃないですか」
「知り合いさん……」
自分でもわかってる。理屈なんて穴だらけだ。
でも、あの取り乱した姿を思い出したら、これ以上傷つけることを俺が選ぶなんて、できるわけがなかった。
響子さんは、そんな俺の必死な声を真正面から受け止め、ゆっくりと息を吐いた。
「……正寿。泣かないで済む恋なんて、最初からないよ」
「……」
「傷つくことから守るのは、優しさじゃない。真実から遠ざけることは、ただの自己満足。だって、それで救われるのは“あんた”だけだから」
あぁ……そうか……。
俺は結局、自分が楽になりたいだけだったんだ。
桃子さんを守りたいなんて、きれいごとを口にしながら、実際は「自分が彼女の涙を見たくない」ってだけ。
――ただの逃げだ。
「というか、証人さんが何と言おうがあたしは伝えるわよ」
その声音には一切の迷いがなかった。
俺がどう足掻こうと、この子は曲げない。
――そう悟った瞬間、胸の奥がスッと冷えていく。
……そうだよな。
最初から止める資格すら、俺にはないんだ。
「あたしがあんたに求めるのは最初から、一つだけ。まさかこんな形になるとは思わなかったけど……」
古野沢さんは、まっすぐに俺を見据えた。
その瞳に映るのは、迷いも、怒りもなく――ただ、静かな決意だけ。
胸の奥がじんと熱くなる。
初めて出会ったあの日、彼女に言われた言葉が蘇る。
「……そうだな、俺は『証人』だ」
彼女なら、このクソゲーを――
俺にはクリアできないステージを、進んでいける。
その一部始終を、最後まで目に焼きつけたい。