04 行きつけのバーですら平穏がない
BARステイル。
駅から少し離れた路地裏にある隠れ家的なバー。
無垢の木でできた長いカウンター。
磨き込まれ、ほんのりとアルコールと柑橘系の香りが混じる。
奥に小さな丸テーブルがいくつか。2人〜3人が落ち着いて飲めるような配置。
窓はなく、外界を切り離すような雰囲気。時間の流れが緩やかになる空間が落ち着きお気入りだ。
また、ジャズやボサノヴァが静かに流れ、サックスの低音が店全体を包み、自分はイケてる奴だと錯覚させてくれる。
そんな空間が気に入り、いつも使う駅の近くなので、たまに一人で行くのがささやかな楽しみだ。
今日は仕事終わりの気晴らしに久しぶりに寄った。
やっぱり落ち着く。
あれから1週間ほどが経った。
が、驚くほど変わりがない。
安藤さんとは、普通に話す。
俺にぎこちないところはあるだろうが、特に以前と変わらずコミュニケーションはとる。
変わったことといえば……
二人での食事がなくなったことぐらいか。
ただ、気持ちの面は時間が解決してくれるわけでもなく、相変わらず安藤さんのことを目で追ってしまう自分がいる。
まだまだ、ダメか……。
グラスの氷がカランと音を立てる。
その小さな響きが、胸の中に広がる虚しさを強調する。
「振られたろ?あんた」
浸っていたところに冷や水をかけてきたのは、
このバーのマスター・響子さんだ。
髪は黒かダークブラウンをひとまとめ。
細身で背が高く、カウンター越しに立つ姿が様になる。
「俺、響子さんになんか言ってましたっけ?」
グラスを指で転がしながら、俺は苦笑いを浮かべた。
「そりゃあ、ここに座る常連の顔、みんな見てきたからね」
響子さんはワインレッドの口紅をほんのり光らせ、氷をトングで落とした。カラン、と澄んだ音が響く。
「幸せそうな顔の時も、落ち込んでる顔の時もね。……で、今のあんたは“振られた顔”」
その余裕の笑みは、俺の言い訳なんて最初から許してくれない。
俺は誤魔化すようにバーボンを一口。
「まぁ、お姉さんに話してみなよ」
「いや、大したことじゃ……」
「そう言わずに、な?」
なぜだか、響子さんの言葉に甘えたくなった。
「……片想いでさ。頑張ったけど、結局ダメだった」
バーボンの残りを口に含んでから、正寿はぽつりとこぼした。
響子さんは、グラスを拭く手を止めずに小さく笑う。
「ふふ、それでここに来てるのか。なるほどね」
「……いや、別に慰めてほしいとかじゃなくて」
「分かってるよ」
淡々とした声なのに、不思議と温度があった。
「でもね、傷が残るってことは、それだけちゃんと恋した証拠だよ」
響子さんはそう言って、
まるで「それでいいんだよ」と背中を押すような視線を向けてくる。
健二とは違う角度の言葉は、胸の奥にじんわり染みていった。
そうだよ。
俺はちゃんと恋をして振られただけなんだ。
まだまだ吹っ切れるわけじゃないが、なんだか気が楽になった気がする。
「いや、わかるよ……。辛いよね……。」
この声は響子さんのではない。
思わず顔を上げると、数席離れたカウンターに座っている女性が目に入った。
淡いベージュのコートを椅子にかけ、グラスを両手で包み込むように持っている
「ごめんねぇ、聞こえちゃった……」
桃色がかったロングヘア、ストレート寄りで毛先が少し内巻き。全体的にふんわりした印象。
ナチュラルメイクで女性というよりかは女の子っぽい。
淡いグレーのスーツ姿は様になっているし、コートや着けている腕時計も上品なブランド物っぽい。
多分、年上だろうけどそんな年は離れていない気がする。
「いや、こちらこそすみません。こんな話し聞かせちゃって」
「ははっ。この子こういう話に弱いんだよ」
響子さんが肩をすくめる。
「ごめんね……ほんとに……」
女性はぐしぐしと涙を拭う。
彼女のグラスに入っていたのは、ほとんど飲まれていないカシスソーダだった。
「大丈夫ですか?」
思わず声をかけると、女性はうつむいたまま小さく笑った。
「大丈夫。大丈夫。私、新垣桃子。よろしくね」
髪色に似合った名前のその女性はさっきまでの涙は嘘のような笑顔で自己紹介をした。
なんだ、この切り替えの速さ。
「……三浦正寿です。一応、常連の端くれで」
「えーそうなの?私も結構来てるのに会ったことないね」
新垣さんは目を丸くしてこちらを覗き込んでくる。
涙の跡がまだ残っているのに、まるで初対面の人とゲーム感覚で会話を楽しんでいるみたいな調子だった。
「そうですかね。時間帯が違うのかも」
「うーん……じゃあ運命のすれ違いってやつ?」
おどけてみせる新垣さんに、響子さんが呆れたように笑う。
「運命にしては、カシスソーダ一杯で泣き崩れてる姿しか見せてないけどね」
「やめてよー響子さん。そういうのバラすの!」
新垣さんは頬を膨らませ、マドラーをくるくる回す。
その仕草が妙に子どもっぽくて、さっきまで泣きじゃくっていた姿との落差に戸惑う。
「正寿、だめよ。桃子は彼氏いるから」
「振られたばかりって言ってんすよ」
思わず声が大きくなる。
さすがに、イジるのはやくない?
「もー響子さんったら、デリカシーないんだから」
桃子がぷくっと頬を膨らませる。
「だって、正寿が勘違いしたら困るでしょ?」
「いや、しませんよ!」
俺は慌てて否定する。
「ふふ、しないって言いながら顔が赤い」
響子さんの突っ込みは容赦ない。
「やめてくださいよ……」
グラスを傾けてごまかすと、隣から新垣さんの声。
「でもさ、彼氏いるからって“友達”になれないわけじゃないでしょ?」
2つ空いた席に座っていた彼女はそう言って、くるっとこちらを向いた。
「……え、まぁ……そうですけど」
「じゃあ決まり!今日から正寿くんは私の“失恋仲間”ね!」
「は?」
思わず聞き返す。
「新垣さ…」
「あ、桃子でいいよ。私もすでに正寿くんって呼んじゃってるし」
あ、ほんとだ。自然すぎて気づかんかった。
っていかんいかん。
「じゃあ…桃子さん、失恋ってどういう……」
呼び方などどうでもよく、聞かずにはいられなかった。
失恋という単語にシンパシーでも感じたのだろう。
「だって私も今、うまくいってないんだもん」
桃子さんはそう言って、カシスソーダを一口。
でもグラスを置く仕草は、さっきまでの軽さと違って少しだけ寂しげだった。
「だってさ、連絡取れないことも多いし、一緒にいるときも携帯ばっか見てるし、絶対他の子いる……」
「まぁ、それはなぁ……」
響子さんもフォローを諦めたように、眉を歪めてため息をつく。
こう言ってはなんだが、
カシスソーダ一杯で泣き崩れてるのが似合う……。
「それにね。先週久々に連絡取れて会ったの。そしたら、鼻が曲がっててね」
「なんすか、それ……」
「なんか人に絡まれて蹴られたって言ってたんだけど、怪しいっていうか、嘘ついてるっていうか……」
桃子さんはストローを弄びながら、じっと氷を見つめていた。
「普通さ、彼女に会うのにそんな顔してくる?」
「まぁ……確かに」
俺は相槌を打ちながらも、思った。
嘘かどうかは分からない。
けど“雑さ”みたいなものは感じる。大事にされてる感じがしないというか。
でも、怪我してる状態でも会いたいとか……。
いや、そんな奴は連絡取れなくなったりしないか。
「それに、その日も二時間ぐらいで帰っちゃったの。『仕事残ってるから』って」
桃子さんの声はどんどん小さくなっていく。
「……彼、まだ大学生なのに」
言い訳雑すぎるだろ。
ちゃんとしろよ。
しんとした空気を壊したのは、響子さんだった。
「桃子、その男……曲がってるのは鼻だけじゃなさそうだね」
「ちょっとぉ響子さん! 笑い事じゃないんだから!」
桃子さんはむくれるが、響子さんは肩をすくめて笑っている。
「悪い悪い、でもその男顔蹴られたって、一体、何をしたのやら…」
ん?まてよ?
顔を蹴られた?
大学生?
しかも、鼻が曲がってるってことは相当な威力……。
頭の中であの光景がフラッシュバックする。
いや、まさかな……。
その瞬間、
カランッカランッ
店のドアが開いた。
「こんばんはー!!!」
と元気に入ってきたのは、橙がかった髪の女の子。
初めて見る子だ。
「杏奈、お疲れ様」
「お疲れ様ッス、マスター!今日は友達連れてきたんスよ」
もう一人後ろにいるのが見えた。
「いらっしゃい」
「……こんばんは」
艶のある金髪を巻き、タイトなライダースにミニスカート。
ヒールの音をコツコツ響かせながら歩いてくる。
そこには、俺が思い浮かべってしまった人物が立っていた。
「あれ?証人さん?」
−−−古野沢梨里が、夜の空気をまとってそこにいた。
やっぱなんか絵になるな。
一瞬でカウンターの空気が変わる。
ジャズのリズムさえ、どこか緊張しているように聞こえる。
「知り合い?」
杏奈と呼ばれた女の子が目を丸くする。
視線が俺と古野沢を往復する。
「……まぁ、ちょっと」
答えにくそうに古野沢さんは答えた。
確かに説明しにくいか。
ということは彼氏にシャイニング・ウィザードかましたこと、友達に言ってないのか。
その日の夜に速攻で健二に話したことに、少し罪悪感を感じてしまう。
「そっか。私が着替える間、暇かなと思ったけど、知り合いさんがいるならヘーキッスね」
「着替えって言っても少しの時間でしょ?そ大げさよ」
「まぁまぁ。じゃあ、知り合いさん!少しの間ですけど、梨里のことよろしくお願いしますッス♪」
「あ、はい」
俺の返事にニコッと笑顔で返し、杏奈さんは店のバックヤードの方に消えていった。
「それで?証人さんはどうしてここに?」
「行きつけなんだよ」
「へぇー、なんか意外。こういうところ行くんだ」
君が俺の何を知っているというのか。
「古野沢さんは?」
「友達がここでバイト始めたの」
「さっきの子か」
始めたってことは、最近なのか。
どうりでで見たことないわけだ。
「そう、それで来てって言われたから来た」
「フットワーク軽いな…」
「ギャルですから」
ギャルって自認あるんだ。
「その子、杏奈ちゃんと来てたけど、正寿くんの友達?」
と響子さんと話していた桃子さんが話しかけてきた。
「うん、まぁ…」と曖昧に答える。
実際難しい。
今のところ、俺の中の古郡沢 梨里は彼氏と揉めた末にシャイニング・ウィザードをお見舞いした武闘派ギャルだ。
いや、聞いた過去を考えたら、養殖ギャルって言った方がいいのだろうか?
「あたし、古郡沢 梨里っていいます。この人の友達というよりは杏奈と大学で友達で……」
俺の影からひょこっと顔を出し、挨拶をする。
やっぱ、武道をやってただけあって、礼儀正しいんだな。
「あ、そうなんだ〜。私、新垣桃子。よろしくね~」
やっぱこの人、相当コミュ力高いな。
「やっぱ、桃子。さっきの話、若い子に聞いてみたら?」
お互いの自己紹介も終わったところで、響子さんが提案をした。
「なになに?なんの話っスか?」
「ちょうどよかった。若いのが一人増えたし」
バーテン姿の杏奈さんがカウンター越しに顔を出し、首をかしげる。頭の上に浮かぶ「?」が目に見えるようだ。
「そうね。やっぱ大学生のことは大学生に聞くべきね」
桃子さんは意を決したようだ。
俺と響子さんで3人の時は明るく振る舞ってはいたが、同性でしかも彼氏と同じ大学生である古野沢さんと杏奈さんの意見は彼女とって知りたいものなんだろう。
まずい。
まだ確証はないが、おそらく、桃子さんの彼氏はあの日、古野沢さんに大技を食らってた細身茶髪だ。
いや、どう考えてもその可能性が高い。
あいつ古野沢さんと桃子さんで二股してたのか。
なんと贅沢な……。
桃子さんが顔を少し赤くしながらも、ゆっくりと言葉を発し始める。
「実はさ…私、彼が最近ちょっとおかしいんだよね」
その言葉に杏奈さんが興味津々で顔を寄せる。
「おかしい?どんな風にっスか?」
桃子さんは黙って一瞬だけ視線を落とし、続ける。
「連絡が減ったし、会うのも少なくなって。なんか、最近私と一緒にいるときも前みたいに楽しそうじゃなくてさ…」
「今のところ、どう思うよ?大学生達」
「冷めちゃってると思うッス」
「ちょっと、杏奈……」
古野沢さんがワタワタしながら、杏奈さんを静止しようとする。
にしてもこの子、ずいぶん、はっきりと言うなぁ。
「しかも、先週会ったとき、鼻に絆創膏貼っててさ。不良に絡まれて、顔を蹴られて鼻が曲がっ『ぐほぉぉぉぉ!!!!!!』え、なに?どうしたの?」
「ちょっと正寿、なんなのよ」
「すみません。ちょっとむせちゃって……」
急に脇腹大きな衝撃が来たが、原因は分かっている。
俺の隣にいる金髪ギャルだ。
「おい、どういうつも……『小声!』は?」
意味がわからず聞き返すと、古野沢さんは顔を近づけて来た。