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27/29

27 夜、公園にて

会社を出た俺は、まっすぐ家に帰らなかった。

季節は急に変わる。もうすっかり夜だが以前まであった涼しさはない。


唐突に送られてきた、杏奈さんからのメッセージには、こうあった。


『今夜9時、ステイルで桃子さんに伝えます』


時刻はもうすぐその21時に近い。

俺は駅前の路地を抜け、ステイルへと向かっている。

図らずも仕事終わりに直行したら、ちょうどいい時間になってしまった。


約束はしていない。

杏奈さんに「来てほしい」と言われたわけでもない。さらには、もう桃子さんには伝わってはいるだろう。


でも──じっとしていられなかった。


店の前に着くと、既に一人の人影があった。


「……証人さん」


古野沢さんだった。

金髪が街灯の光に揺れ、その表情は俺と同じように強張っている。


「来ると思った」

「……俺も」


互いに小さく笑って、それから黙り込んだ。

店の中からは、微かに音楽が漏れ聞こえる。

いつもの、落ち着いたジャズ。


でも今夜は、その音すら遠く感じた。


「杏奈にね。伝えるのは、自分たちでやるからって言われたんだけど……」


古野沢さんが小さくつぶやく。


「俺も」


二人は店の扉から少し離れた壁に寄りかかった。

中に入ることはできない。

待つことしかできない。


冷たい夜風が吹き抜ける。


──今、あの中で何が起きているんだろう。


時計を見る。21時5分。

まだ5分しか経っていない。


「……証人さん」

「ん?」

「桃子さん……どうするんだろう……?」


古野沢さんは、視線を足元に落としたまま続ける


「別れを切り出しているのに……そんな相手があんなこと考えてるって知ったら、すごく不安になると思う……」


瀬川のクズな考えは、かつて古野沢さんにも向けられたのものだ。

古野沢さんは空手仕込みの腕っ節があったから、何とかできた。

もちろん、桃子さんにはそれはない。というより、古野沢さんが稀な例なだけだ。


仮に警察に相談してもせいぜい、接近禁止命令を出されるぐらいだろう。

そんなもの破られてバーで言っていたことが実行されたら、取り返しのつかない。


「……そうだな」


俺は壁から体を離し、古野沢さんの方を向いた。


「だからこそ、伝えたんだろ? 知らないままでいるより、知った上で備えられる方がいい」

「でも……」

「不安にさせるのは確かだ。でも、それでも桃子さんには知る権利がある」


自分で言いながら、この言葉が本当に正しいのか、正直分からない。 でも──


「少なくとも、俺はそう思う」


古野沢さんは少しの間、じっと俺を見つめていた。 やがて、小さく頷く。


「……そうだよね。知らないで被害にあうより、ずっといい」

「とはいえ、なにか対策は立てないとだよな」


また、沈黙。

街灯の光が、二人の影を長く伸ばす。 遠くで車が走る音。 誰かの笑い声。

日常の音が、やけに遠く感じる。

時計を見る。21時20分。 もう20分以上経っている。


「……長いね」


古野沢さんがぽつりと言った。


「そうだな」

「どうなってるんだろう……」


不安そうに店の扉を見つめる横顔。 その表情に、俺は何も言えなかった。

21時35分。

古野沢の携帯が震えた。 杏奈さんからだ。


『終わったッス。どうせいるッスよね?知り合いさんも一緒ッスか?』


あ、文面でもその口調なんだ……。

俺と古野沢さんは顔を見合わせた。 どちらからともなく、頷く。


『いる』と返信すると、『じゃあ、店の外で待っててください。今、出ます』とだけ来て、数分後にステイルのドアが開いた。


出てきた杏奈さんは、いつもの明るさが影を潜めていた。 疲れた顔で、小さく手を上げる。


「……お疲れ様ッス」

「杏奈……」


古野沢さんが駆け寄ろうとするが、杏奈さんは首を振った。


「ここじゃなんなんで……少し歩きませんか?」


三人は無言で歩き出した。 駅前の喧騒から離れ、静かな住宅街へ。

街灯の少ない道。 足音だけが響く。


桃子さんはショッキングなことを聞かされたばかりだ。

今俺たちがぞろぞろと押しかけても気を使わせるだけだから、離れて話をしたほうがいいだろう。


やがて、小さな公園が見えてきた。 誰もいない。

ベンチに腰を下ろす杏奈さん。 俺と古野沢さんは、立ったまま彼女を見下ろす。


「……桃子さん」


杏奈さんが口を開いた。


「最初は、信じてくれなかったッス」


予想していた言葉だった。

浮気されていたとはいえ、3年間も付き合っていたんだ。

それに加えて、こういった裏切り方をされていると思わないだろう。

それでも、胸が締め付けられる。


「でも、バーで私と知り合いさんが見たこと、瀬川の高校時代のことも全部話したら……だんだん顔が変わっていって」


杏奈さんは、夜空を見上げた。

遠い目で、その場で見た光景を思い出すように、


「正直、見ていられなかったッス」


と言った声は少し震えていた。


「顔は真っ青で、手も震えてて。マスターがずっと肩に手を置いてくれてたッス」


響子さんが一緒にいてくれたのか。

それなら、少しは安心だ。


でも、想像するだけで胸が痛む。

ほんと、重ね重ねなんだんだ。


「それに桃子さん、落ち着いて。で、最後にこう言ったッス」


風が吹いた。 木の葉が揺れる音だけが、静けさを破る。


「『もう、絶対に終わりにします』って」


きっぱりと、迷いなく。

まるで桃子さんも実際にそういう表情で言ったのではないかと錯覚するくらい、覚悟の決まった目をしていた。


「……そっか」


古野沢さんは、両手で顔を覆った。

肩が小さく震えている。


「……よかった、ほんとうによかった」


かすかに聞こえた声は、安堵と罪悪感が混ざり合っていた。


「梨里……」


杏奈さんが立ち上がり、古野沢さんの肩に手を置く。


「もう、大丈夫ッスよ。桃子さん、ちゃんと前を向いたッス」

「……うん」


古野沢さんは顔を上げた。

目は少し赤いが、涙は流れていない。


「杏奈……本当にありがとう」

「礼なんていいッスよ。友達ッスから」


二人が抱き合う。

俺はその光景を、少し離れたところから見るしかない。

い、居場所がない……。

俺はここにいていいのだろうか……。と


「知り合いさんも、ありがとうございましたッス」


杏奈さんが、抱擁を解いて俺の方を向いた。

……こちらこそ、本当にありがとうございます、色々。


「知り合いさんが証人として見ててくれたから、桃子さんも最後には信じてくれたんだと思うッス」

「……俺は、何もしてないけど」

「いや、してくれたッスよ」


古野沢さんも頷く。


「証人さんがいてくれたから、あたしも……ここまでできた」

「……そっか」


いざまっすぐに褒められると、なんだか照れくさくてそれしか言えなかった。


俺達はしばらく公園のベンチに座っていた。

特に話すこともなく、静かな空間にそれぞれの思い整理する時間。


古野沢さんと杏奈さんは同じベンチに、俺は少し離れたブランコの前の柵に座っている。

これぐらいの距離感がちょうどいい。


「……これで、終わりってわけにもいかないッスよね。桃子さん、既に瀬川に別れを切り出してても、引き下がってくれないって……」

「そう……確かにあたしの時もしつこかったし……」


そうだ。瀬川が、素直に引き下がるとは思えない。

バーで見た、あの男の顔が蘇る。 あの傲慢さ、あの計算された笑み。


そして、あの言葉──

『最後にめちゃくちゃにする』


「桃子さんがこのまま別れを切り出し続けたら……いつか逆上するんじゃないか?」

「……そうね。あいつ、プライド高いから」

「だったら……」


杏奈さんがなにかを決意したように立ち上がる。


「まだ、終わってないってことッスね」

「そうだな、桃子さんを守らないと」


ここまで来てバッドエンドなんてあってたまるか。

クソゲーってどころじゃない。


「でも、どうやって……?」


古野沢さんが不安そうに言う。


「まず、桃子さんには一人で行動しないようにしてもらうッス。それと……」


杏奈さんは、俺の方を向いた。

そこから、3人で今できることを話し合う。

別に桃子さんに頼まれているわけでもない。

でも、このまま何もしないというのも、全員できなかった。


なにかを劇的に実行するわけではない。

ただ、できることが限られているからこそ、明確だ。


「……じゃあ、今日はもう帰るッスか。マスターに怒られちゃうッス」


杏奈さんが時計を見る。

液晶画面が淡く光り、22時8分を示していた。

いい時間だろう。


「そうだな」


三人一緒に公園を出た。

夜風が少し強くなっていて、街路樹の葉が乾いた音を立てる。 誰も言葉を発さないまま、足音だけが静かな住宅街に響いた。


駅前に戻ると、まだ人通りがある。終電前の慌ただしさが、さっきまでいた静かな公園との対比を際立たせていた。


「じゃあ、自分はここでッス」


杏奈さんがステイルへと続く路地を指差す。その表情には疲労の色が濃く出ていたが、それでも小さく笑ってみせた。


「二人とも、気をつけて帰ってくださいッス」

「杏奈さんも、響子さんに怒られないようにな」


俺がそう言うと、杏奈さんは「もう怒られる覚悟ッス」と肩をすくめて、手を振りながら路地へと消えていった。

残された俺と古野沢さんは、少しの間、その場に立ち尽くしていた。


「……行こうか」


古野沢さんが小さく言って、歩き出す。

俺も黙って隣を歩いた。駅前の喧騒が徐々に遠ざかり、住宅街の静けさに包まれていく。


二人の足音が、微妙にずれたリズムを刻む。合わせようとしても、どこかでずれる。それが妙に気になって、俺は少しだけ歩幅を調整した。


「……証人さん」


不意に、古野沢さんが口を開いた。


「ん?」


振り向くと、彼女は前を向いたまま、金髪が街灯の光を受けて揺れている。


「今日、来てくれてありがとう」


その声は小さくて、夜風に消えてしまいそうだった。


「……俺も、じっとしてられなかっただけだよ」


正直な気持ちだった。

家で待っているなんて、ドシッと構えてられる余裕はまだない。


「それでも、嬉しかった」


古野沢さんは少しだけ顔をこちらに向けて、小さく笑った。その笑顔には、安堵と疲労と、それから──少しの寂しさが混ざっているように見えた。


「一人で待ってたら、心細かったと思う」


その言葉が、胸に刺さる。

俺も同じだった。


一人で家にいたら、ずっとスマホを握りしめて、時計ばかり見ていただろう。結果を知らされるまで、きっと何も手につかなかっただろう。


「俺もだよ」


自然と口から出た言葉に、古野沢さんは少し驚いたように目を丸くする。


「……そうなんだ」


それから、また前を向く。

でも、その横顔はさっきより少しだけ柔らかくなっていた。


しばらく、二人とも黙って歩いた。

通り過ぎる家々の窓から漏れる暖かい光。どこかでテレビの音。犬の遠吠え。


日常の音が、今夜の出来事の重さを際立たせる。

やがて、いつもの分かれ道が見えてきた。


この角を曲がれば、古野沢さんは自分のマンションへ。俺はまっすぐ進んで、健二が待つ(多分寝てるけど)家へ。


「じゃあ……」


古野沢さんが立ち止まり、俺の方を向いた。

街灯の下、彼女の顔がはっきりと見える。

疲れているはずなのに、その目は強い光を宿していた。


「おやすみなさい、証人さん」

「ああ、おやすみ」


古野沢さんは小さく手を振って、自分の道へと歩き出した。

俺はその場に立ったまま、彼女の後ろ姿を見送る。

金髪が夜風に揺れる。

コツコツと響くスニーカーの音。時々振り返りそうになって、でも振り返らない背中。


やがて、彼女の姿がマンションの影に消えた。

それでも俺は、しばらくその場に立っていた。

冷たい風が頬を撫でる。空を見上げれば、雲が月を隠していた。


──まだ、終わってない。

桃子さんを守らなきゃいけない。瀬川がどう動くか、まだ分からない。


でも、今日という日は──確実に何かが動いた一日だ。俺はポケットに手を突っ込んで、自分の家へと歩き出した。


足音が一つになって、静かな夜道に響いていく。

背後で、さっきまで古野沢さんが立っていた場所の街灯が、静かに光り続けていた。

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