26 大人の余裕
目が覚めると朝だった。
カーテン越しの朝日が、やけに眩しい。
頭がスッキリしたからだろうか、寝たのが遅いにも関わらず、最近で一番ぐっすり眠れた気がする。
リビングに行くと、スーツ姿で食パンをほうばっている健二がいた。
「おはよう。正寿、昨日はどうだったよ?女子大生とのデート」
「おはよう、じゃねえよ……」
茶化す健二を一蹴する。
が、昨日についてはこいつの尽力が大きいので、文句を言う気にはなれない。
「昨日は帰ってくるまで起きてようと思ってたけど、遅かったから寝ちまったわ」
「あぁ、それは悪かったな」
「いや、それはいいよ。……で、どうだったよ?瀬川は」
「まぁ、なんというか胸糞悪い奴だったよ」
俺は冷蔵庫の扉を開け、ペットボトルのお茶を取り出す。キャップをひねる音が朝の静けさにやけに大きく響いた。コップに注ぎながら、昨日の出来事を言葉に乗せていく。
バーでの瀬川の様子、口にした冗談、古野沢さんの反応――。
淡々と話そうとしても、声の調子が少しずつ荒くなっていくのが自分でも分かった。
合間合間でコップに口をつけ、冷たさでなんとか頭を落ち着かせる。
健二はパンをかじる手を途中で止め、黙って俺の言葉に耳を傾けていた。
眉間にしわを寄せ、時折うなずく。
何か言いたそうに唇が動くけど、結局は飲み込んで、ただ聞き役に徹している。
俺がコップをテーブルに置いたとき、やっと健二が小さく息を吐いた。その顔には呆れなのか、どこか諦めの色が混じっていた。
「思ったより……だな……」
健二は食パンの耳をちぎりながら、低くつぶやいた。
その横顔は、昨日までの軽口を叩く親友の顔じゃなく、七年前の“あの時”を思い出しているようだった。
「正直昨日の瀬川を見たら、お前が見たバットをぶつけた時に見た笑顔ってのも、本当にわざとだったんじゃないかって俺も思ったよ……」
「そればっかりは前も言ったが、本当のことは分からんし、今になっても知りたくねぇよ」
「野暮だったな……ごめん」
「朝から謝んな」
健二はニカッと笑う。優しい奴だ。
今のは失言だったな……。
「正寿は朝飯食わないのか?」
「これ飲んだら食うよ」
「そっか、じゃあ俺は出るわ」
「おう、いってらっしゃい」
そのまま席を立って、玄関に向かう感じを見送る。
いつもなら気にも留めない後ろ姿なのに、今日はなぜか少し大きく、頼もしく見えた。
その背中を見ながら、俺は昨日の出来事と、今の穏やかな朝の対比に、微かに胸が熱くなるのを感じた。
★
オフィスのフロアを抜け、喫煙所に向かう。
普段なかなか行くこともないが、あの時買った煙草が残っているので、仕方ない。
捨てるのはもったいないしな。
それに煙草1本吸う時間がちょうど仕事と合間のリフレッシュになる。
続けようか……。いや、金がもったいないな。
冷たい朝の空気が顔に当たり、深く息を吸い込むと、昨日の夜の出来事がふっと頭をよぎった。
喫煙所といっても、そんな立派ななものじゃなく、会社の一回に設けられたスペースだ。
灰皿の前に立ち、残り少ない煙草を取り出す。
指先で包み紙をそっと剥き、火をつける。パチッと小さな音が響いた。
昨日の今日で桃子さんに話が伝わってることもない。最速で今晩だが、まぁなにかあれば連絡があるだろう。なんにしても、今はできることはない。
「お、三浦じゃないか」
振り向くと、会社の先輩・瀧島さんだった。
スーツはきちんとしているのに、どこか疲れた雰囲気を纏っている。
「お疲れさまです」
本来なら年齢より若く見える瀧島さん。
でも今は整えてあるが、分け目に少し乱れがあり、デスクワークで凝った表情筋のせいか目の下にはうっすら影ができている。
サラリーマンの権化みたいな人だ。
「どうしたんだ?三浦が喫煙所にいるなんて珍しいな。お前が新入社員の時はよくいたが」
「前に買った煙草が残ってまして、その消費に……」
そういえば、新卒の頃は上の人とコミュニケーションを取るためによくここに来てたな……。
あの頃は、頑張ってたもんだ。
「なんだ、なんかあったのか?」
「え……いや……?」
改めて聞かれると返答に困る。
色々あった。ありすぎた。
「ははっ。あったって顔だな」
またバレた。
「安心しろ、何があったとかは聞かんよ」
色々察してくれたのか、瀧島さんは、肩を軽く上げて少し笑う。その仕草に、どこか余裕と疲労が混ざっている。
俺は一瞬、視線を落としたまま、昨日の夜のことを思い返す。
桃子さんの顔、古野沢さんの真剣な目、バーでの瀬川……。
全部が頭を駆け巡り、思わず肩がぎゅっと縮む。
「……いや、別に、大したことじゃないっす」
声に少し力が入ってしまった。
瀧島さんは眉を上げ、笑いながらも黙って煙草をくゆらせる。
口元の筋肉がわずかに動き、社会人経験の余韻が漂う。
煙が空に消える間、瀧島さんの瞳は遠くを見つめつつ、視線の端で俺を捉えている。
肩の力は抜け、壁に寄りかかる姿は自然体なのに、背筋から余裕と緩やかな緊張感が伝わる。
「まあ……たまにはこうやって外に出るのも悪くないな」
その声に、微かに夜の残業疲れが混じっているのに、妙に落ち着いたかっこよさがある。
俺は思わず息を飲んだ。なんでこんなに余裕があるんだ、この人は。
「瀧島さん、一つ聞いていいですか?」
「なんだ?」
瀧島さんは壁に寄りかかったまま、俺の方を静かに見つめた。
煙の輪が空中でゆらめき、朝の光に反射する。
その影に、ほんの少しだけ見える笑みや疲労の線が、俺には眩しく見えた。
「大人の余裕ってなんなんですかね……?」
最近、特にだが自分には余裕がないように思えた。
今回の件も、一喜一憂せずに構えられたら、こんなに悩むこともなかっただろう
そんな思いから口にしたその言葉に、瀧島さんは前傾して、
「……知らねぇよ」
と笑いながらも、きっぱり言われてしまった。
「いや、瀧島さんっていつも余裕あるように見えるから……聞いてみたかったんですけど」
「俺、そんな風に見えるか?毎日一生懸命よ?」
言葉の端々に、ほんの少しの疲労と、それでもやり切っている感覚が滲む。その背中や仕草が、無意識に“余裕”として映るんだろうな……。
「まぁ、なんだ……」
後輩の疑問に答えようとしてくれてるのか。瀧島さんは、考え事をするように少し上を向く。
口元はわずかに緩み、笑みには届かないけれど、確かに何か伝えようとしているのが分かる。
「余裕か……は知らんが、自分のペースを守ることじゃないか?」
「……ペースですか?」
「人間、普通に生きていたら勝手に他人が介入するもんだ。そんな時にどうしよう、ああしようっていつもなってたら、疲れちまうだろ?」
瀧島さんは煙草の火を見つめながら、ゆっくりと続ける。
「自分のペースをしっかり持っていれば、多少周りがどうであろうと、焦らずに済む。焦れば焦るほど、余裕なんてなくなるもんだ」
その声には押し付けがましさはなく、あくまで静かな実感としての重みがあった。俺は黙って聞き入り、煙と一緒にその言葉を胸に吸い込む。
瀧島さんは煙草の火をつま先で踏み消し、灰皿に落とす。
その仕草までが、妙に落ち着いて見えた。
「……まあ、偉そうなこと言ったけどな。俺も毎日、余裕なくしては取り戻しての繰り返しだよ」
そう言って笑った顔に、刻まれた疲労の線が光に揺れた。
それでも俺には、眩しく見えた。
俺は胸の奥で小さく息をついた。
"自分のペースを守る"――
今の俺に一番足りない言葉かもしれない。
流されるばかりで、自分のペースなんて考えたこともなかった。
でも、もしかしたら――
古野沢さんのために動くのも、瀬川を許せないのも、それが「俺のペース」なのかもしれない。
巻き込まれたんじゃない。
選んでいるんだ。
二人とも一服を終えたので、瀧島さんと並んでオフィスへ戻る。
喫煙所からの道は短いはずなのに、妙に静かで、足音ばかりが響いている気がした。
「さて、働くか。おっ……!」
瀧島さんがそう言って肩を回した、その時だった。
「おう、安藤。朝から大変そうだな」
廊下の角から、安藤さんが書類を抱えて現れた。
「おはようございます、瀧島さん。……三浦くんも」
「おはようございます」
胸のあたりまで積まれた資料が、今にも崩れそうで不安定に揺れている。
それを見た瀧島さんが「おいおい」と苦笑いして、俺の方へ顎をしゃくった。
「三浦、持ってやれ。見てて危なっかしいぞ」
「え、あ、はい」
言われるままに数束を受け取る。
意外と重くて、思わず腕に力が入った。
「……ありがとう」
安藤さんが小さく笑みを見せる。
その瞬間、瀧島さんは「俺ちょっと寄ってくるわ」と手を上げて、トイレの方へ消えていった。
廊下には、俺と安藤さんだけが残る。
抱えた資料の重みと、沈黙がやけに意識される。
「……これどこに運べば?」
「資料室、部長に書類整理頼まれて……」
「そりゃ、災難で」
普通に話せてる。
さっきの瀧島さんの話が刺さってるのだろうか。我ながら単純だな……。
意外に落ち着いている自分に驚きながら、抱えた資料の重みを感じ、廊下を進む。
安藤さんは軽く笑みを浮かべ、ゆっくりと俺の歩調に合わせる。
「大丈夫?重そうだけれど」
「あぁ、なんとか……」
言葉に出すと、自然と肩に力が抜ける気がした。
特に会話もなく、資料室に着くとそのまま書類整理を手伝う流れになった。
空気的になんとなく資料運んで、はい終わり。と言うわけにもいかず……いや、もう少し一緒にいたかったのか。
あんな振られ方をしたのに……。
そういえば、二人きりになるのはあの時以来だな。避けていた訳ではないが、こうして会社で会うこともなかった。
前に駅前会った時は、古野沢さんも一緒だったし。
資料室の中は、外の喧騒から隔絶されたように静かだった。
安藤さんと並んで書類を整理していると、なんとなく視線がぶつかる瞬間がある。
お互い何も言わないが、沈黙の中にほんの少し距離を感じる。
「結構、量あるな……」
静かな空間に耐えれず、つい声が漏れてしまった。
「ほんと、部長放置しすぎよ……」
安藤さんが小さくため息をつく。肩越しにちらりと笑みを見せるその顔に、少しだけ和む気持ちが湧いた。
二人で飲みに行った時、よくこんな感じで愚痴ってたっけ。なぜか、すごく昔のことのようだ。
「……正直、こうやって手伝ってくれて助かる」
その一言に、思わず肩の力が抜ける。
俺は、無意識に少し笑ってしまった。
「まぁまぁ、俺もサボれるし、逆に礼を言いたいくらいだ」
「……なによ、それ」
安藤さんの笑みを見ていると、不思議と肩の力が抜けていく。
あの日のこと――駅前の街灯の下で、言葉に詰まった夜のこと。
そこまで時間は経ってないのに、今は遠い昔のことみたいに思える。
「……ありがとう」
安藤さんが小さく笑う。
その笑顔に、もう気まずさはない。
これでいいんだ、と思った。
安藤さんの笑みは、軽やかで、でもどこか芯のある温かさを帯びている。
あの日感じた冷たさとは違う。
その表情を見ていると、余計な詮索は無粋だと自然に思えてくる。
いや、俺にこれ以上踏み込む勇気も度胸もないのだ。
「……まぁ、助かったのは本当だけど」
口に出すと、自然に肩の力が抜けた。
安藤さんは軽く頷き、ちらりとこちらを見て微笑む。
その目に、あの日のことを思い出させるような影はもうない。
空気は静かで、資料室の中の時間はゆっくりと流れる。
重い書類を運ぶ手も、少しだけ軽く感じられた。
振られたこと、気まずい気持ちも、今はただ“二人で同じ空間にいる時間”の中に溶けていく、そんな気がした。
これでいい。
最初から、恋愛感情なんか勘違いだっただけ。
ただ一緒にいる時間が多くなったから脳が錯覚したんだ。
友達として、同僚として。
それ以上でも以下でもない。
余計な感情は──
「三浦くん?」
安藤さんの声に、我に返る。
「……あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「もう、しっかりしなさい」
笑いながらそう言う安藤さんの横顔を見て、俺は視線を逸らした。
余計な感情はいらない。
そう言い聞かせながら、俺はまた資料に目を落とした。




