25 罪悪感
杏奈さんの明るい声が場の空気を一気に切り替え、本題に入りやすくなった。
俺も深く息を吸い込み、頭を整理する。
「本題って……瀬川のこと?いたの」
「うん……バーでバカみたいに大騒ぎしてたッス」
「……ああ。さっきバーで、あいつが言ってたことを伝えておかないと」
自分の口からあの台詞を再現するのはためらわれた。
でも黙っていたら、「報連相」を怠ることになる。
俺は言葉を選びながら、なぜ俺が瀬川を見に行ったのか、健二との因縁も含めて話す。
そして実際に見た瀬川の様子、口にした“ゾっとするような冗談”を淡々と伝えた。
『……最後にめちゃくちゃにするってのもありかもな』
その言葉が空気を震わせ、怒りがまた押し寄せてくる。
古野沢さんは無言でマグカップを握りしめ、視線は床に落ちているのに、全身から怒気が伝わってきた。
「なにっ……それっ……」
押し殺した声が怒りと悔しさで震えていた。
「瀬川は本気でやるつもりな気がするッス。あの目、冗談のそれじゃなかった」
古野沢さんは唇を噛み、窓の外に視線を向けたまま低くつぶやく。
「……許せない……桃子さんにそんなこと……」
別れる決断をした桃子さんに、こんな仕打ちを知ってしまって彼女が放っておけるわけがない。
「知り合い人さん、あのままだと本当に何かやらかしかねないッス。早めに手を打たないと」
俺は杏奈さんの言葉にうなずいた。
「……そう思う。ただ、まずは桃子さんに伝えるのが先だな」
「それ、自分がやるッスよ!」
杏奈さんは胸をトンと叩き、頼もしく宣言する。
「桃子さん、ステイルによく来ますし……電話なんかじゃ絶対ダメッス」
「でも……電話のほうが早くない?」
古野沢さんが眉をひそめ、真剣な声を投げる。
「早く伝えないと桃子さんが危ないかもしれない……のんびり会う余裕なんてない」
部屋の空気がピリッと張りつめる。
確かに正論だ。俺も思わず息を呑む。だが杏奈さんは一歩も引かない。
「違うッス、梨里!」
古野沢さんの手に自分の手を置き、真っ直ぐに言い返す。
「スピードだけじゃダメッス!電話一本でこのことを伝えても、桃子さんは怖がるだけッス。ちゃんと顔を見て、安心できるように伝えないと!」
杏奈さんの強い眼差しに、古野沢さんは言葉を失う。
悔しそうに拳を握りしめ、しばらく沈黙したあと低くつぶやいた。
「……分かってる。分かってるけど……」
その声は震えていて、桃子さんを本気で案じているのが伝わる。
「だからこそ、自分が動くッス」
杏奈さんは拳を握り、言葉を叩きつけるように言った。
「梨里、安心してほしいッス。桃子さんにはマスターから、瀬川と会う前に店に来るように伝えてもらうッスよ。だから、自分を信じて欲しいッス……」
杏奈さんのまっすぐな声が胸に響く。
ここで二人に揉めてほしくない。心からそう思う。
だから……
「ここは杏奈さんを信じよう」
自然と口をついた。
「それに今、古野沢さんや俺が桃子さんに接触するのは……干渉しすぎな気がする。前から桃子さんが相談していた響子さんの指示で、杏奈さんが動いた形にしたほうがいい」
古野沢さんは唇を噛み、しばらく黙る。
やがてため息とともに肩の力を抜いた。
「……分かった。響子さん経由なら……桃子さんも受け止めやすいかも」
杏奈さんはにかっと笑い、親指を立てる。
「っし、決まりッスね!」
とりあえず方向性は決まった。
よし、今すぐ帰ろう。
「そういえば梨里。どうしてこの件に入れ込んでるんスか?」
「え?」
立ち上がろうとすると、急な杏奈さんの問いに俺も止まってしまう。
そういえば、詳しくは聞いてなかったかもしれない。
「いや、その……自分でも言葉にするのが難しいかもしれないッスけど、気になったッス」
杏奈さんは笑顔を浮かべるけど、どこか鋭い質問のまなざしを緩めない。指先でマグカップの縁をなぞ
るようにしながら古野沢さんは言葉を探す。
「……罪悪感、だと思う」
「罪悪感?」
杏奈さんが首をかしげる。
「瀬川と……しつこくアプローチされたからって、軽い気持ちで付き合って……結局、あいつの浮気を成立させちゃった……。あたしの行動のせいで……」
その言葉は、自分を責めるように低く響いた。
古野沢さんはマグカップを抱え込むように持ち、指先が白くなるまで力がこもる。
「でもそれは……、古野沢さんのせいじゃ……」
「わかってる。けど……あたしがなにも考えなかったせいで……こんなことになっちゃったって、それが頭から離れないの。だから、桃子さんに危害が及ぶのは絶対嫌」
ぎゅっと手を握りしめて、必死に言葉を紡ぐ。
彼女は自分の行動の責任をとりたいのだ。
試しに付き合って、合わなかったから別れた。
──それだけのこと。
端から見ればよくある話だし、瀬川の浮気癖なんて、あの男を知っていれば「またか」で済むことかもしれない。
でも、古野沢さんにとっては違う。
「軽率だった」って思いが、彼女の中でずっと重石になっている。恋を知るために飛び込んだ結果、桃子さんを傷つけ、こんな厄介な状況を生んでしまった。
……たぶん、瀬川は古野沢さんじゃなくても浮気していた。桃子さんと付き合った三年、彼女ひとりで済んでいたなんて到底思えない。
けど、彼女はそんな理屈で自分を許す気なんてさらさらない。
『自分が関わってしまったから』
その一点だけで、ここまで動こうとしている。
だからこそ──彼女は桃子さんの危険を、誰よりも本気で心配しているのだ。
「優しいッスね、梨里は」
「そんなことない……。このままだったたらあたしはあたしを許せないだけ」
杏奈さんがにっこり笑ってそう言った。
「そんなことない……。このままだったら、あたしはあたしを許せないだけ」
古野沢さんは小さく首を振る。
その横顔を見て、胸の奥がじわりと熱くなった。
──この人は、"被害者"のはずなのに。
彼女は自分を責め続けている。
だからこそ、桃子さんのことを本気で守ろうとしている。
そんな彼女に「気にしなくていい」なんて慰めの言葉なんて意味がない。
むしろ──あのまっすぐさに応えなきゃならない、そう思った。
「梨里……」
心配そうに彼女を見詰める杏奈さんも、きっと俺と同じ気持ちなんだろう。
今は……二人だけにするべきだ。
空気感でそう感じた俺はの足は自然と外に向いていた。
夜はさらに深くなっており、電車や車の音すら聞こえない全く無音だ。
俺は彼女のまっすぐな気持ちを聞いたあと、自問自答する。
俺はどうなんだろう?
今回の件、巻き込まれただけと言われれば、そうだ。
あの日、安藤 聖に振られた帰り道。
チューハイ片手に歩いていたら見たシャイニング・ウィザードの現場。
流れるような綺麗な一連の動きについ目を奪われてしまった。
それから“証人”に任命され、ステイルで瀬川の二股の事実を知って、そのことを桃子さんに伝えた。
正確には伝えた古野沢の隣にいただけだが。
──正直、そこに自分の意志なんてほとんどなかったかもしれない。
あまりにまっすぐな古野沢のサポートをしたいと次第に思っていたのは事実だ。
恋愛なんて、この世からなくなればいい。
そう思っている気持ちは今も変わらない。
恋することが素晴らしい? 笑わせんな。
傷ついて、裏切られて、思い出すら嫌な記憶に変わる。そんなもの、クソだ。
でも──
桃子さんは本気だった。人目も憚らず泣きじゃくるほどに。
古野沢も、恋を知りたいと願って飛び込んでいった。
「恋愛なんて必要ない」なんてのは、結局俺の勝手な持論だ。。
自分が傷ついたからって、他人の感情まで否定していいわけじゃない。
それに──瀬川のあの顔が、頭から離れない。
バーで見た、あの計算された笑み。
女を道具のように扱う目つき。
取り巻きを従える傲慢さ。
健二が七年前に見たという「笑い」も、きっとあれと同じだったんだろう。
高校三年間、学校で遅くまで練習し、家の前でも素振りをし、朝も早くから野球に打ち込んでいた。
その努力を知っている。
そんな三年間積み上げたものを、一瞬で壊された健二の悔しさ。
今なら、少しだけ分かる気がする
だから、許せない。
俺の親友の努力を、最悪な形で終わらせたあいつを。
俺が代わりに背負う必要なんてないのに、それでも糾弾できるチャンスがあるなら手放したくない。
だから、瀬川を見に行くのにもためらいがなかった。
流されていることよりも、許せないという気持ちが強かったから。
……俺が動く理由は、もう十分すぎるほど揃っている。
巻き込まれただけ? それでもいい。
あぁ、俺は「証人」だ。
古野沢の真剣さに引っ張られて、
桃子さんの涙に胸をえぐられて、
健二の努力を思い出して、
瀬川の腐った笑みが頭から離れなくて。
恋愛なんてクソだ。
だからといって、目の前で傷つけられている人を放っておくことは──もっとクソだ。
だから俺は、動く。
「証人」なんて立場に甘んじていられない。
古野沢の真剣さに応えることを。
桃子さんを守ることを。
瀬川を許さないことを。
全部、俺自身の意志で。




