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24 この展開は予想できなかったです

扉を押し開けた瞬間、湿った夜風が一気に流れ込んできた。

こういう場所のドアは無駄に重いから嫌いだ。


ネオンに照らされた街の喧騒は、さっきまでいた店のざわめきとはまるで違う。

空気が冷たく、喉の奥に残る酒と煙草の匂いを洗い流してくれるようだった。


「……ふぅ」


思わず息を吐き出すと、肺の奥に張りついていた緊張が少しだけ剥がれ落ちていく。


杏奈さんも肩で小さく呼吸を整えながら、空を仰いでいた。

橙色の髪が街灯に照らされて、風に揺れる。


「外……出られたッスね」

「……ああ。ほんと、心臓止まるかと思った」


互いの言葉が、さっきまでの張り詰めた空気を少しずつほどいていった。


「すみませんッス。完全に頭に血がのぼってしまったッス」

「いや、あれは仕方ないよ。気持ちはわかるし」


そう。杏奈さんを責めることなんかできないし、するはずもない。

それより……


「俺の方こそ、ごめん。バレないようにするためとはいえ、あんなこと……」

「別に気にしてないッスよ。知り合いさん、反射的に守ってくれたって感じッスから」


気恥ずかしいさもあって、言い淀んでしまう。

杏奈さんは少し顔を赤らめながら、目をそらすが、耳が真っ赤だ。

いや、もうホントごめんなさい……。


杏奈さんは少し顔を赤らめ、視線をそらす。耳まで真っ赤で、手で軽く髪をかき上げる仕草が自然に出る。

「……でも、ちょっとドキッとしたッス……」と、小さく呟く声が聞こえた。


「そ、そうか……でも、あれは……あくまで反射的に……」

「結果、バレなかったんです無問題ッスよ」


自分も顔が熱くなるのを感じながら、二人は少し照れくさい空気の中、歩を進める。


二人で歩き出すと、街灯の光が濡れたアスファルトに反射して、まるで小さな星々が足元に散りばめられたようだった。

遠くから聞こえる車の音や、誰かの笑い声が、さっきの緊張をゆっくりと溶かしてくれる。


「……そうだ」

「ん?」

杏奈さんは少し間を置いてから、恥ずかしそうに小さく言った。


「梨里に連絡しないと、今頃家で悶々してるッスよ」

「そうだな」


杏奈さんはスマホを取り出し、画面を見つめる。まだ少し恥ずかしそうにしている様子だ。コールボタンを押すと、数回の呼び出し音の後、応答したみたいだ。


「もしもし、梨里?終わったッスよ」


スマホを耳に当てている彼女の隣で、少し間隔をあけながら歩き続ける。

声は小さく、でも確かに聞こえる。


『うん、うん……そうッスね……』

『えぇ……そういうことッスか……』


俺には電話の内容がほとんど分からない。

二人の間で交わされる言葉は断片的で、聞き取れるのは「そうッスね」や「うん」といった相槌だけだ。

ただ、その声のトーンや間の取り方で、会話は和やかで少しだけ緊張感のあるものだと伝わってくる。


杏奈さんの表情も、電話の向こうにいる梨里の言葉に応じて、時折笑みを浮かべたり、少し驚いたように目を大きくしたりしている。


でも、細かい会話の内容までは、俺には分からない。

少しして、杏奈さんが少し大きな声で言った。


『えっ……でも……梨里いいんっすか?』


声には少し戸惑いと確認するような響きが混じっている。


『分かったッス。じゃあ、伝えてみるッス』


スマホを耳から外し、こっちを向いてきた。

その間に、俺の胸の奥がざわつくのを感じる。


『梨里が知り合いさんも家に来るようにって言ってるッス……』


え?なんで?

俺は思わず足を止め、杏奈さんの顔をまっすぐ見る。


「俺が……行くの?……古野沢さんの家に……?」


杏奈さんは小さくうなずく。


「……はい。『知り合いさんも来るように』って……言ってるッス」


俺はしばらく言葉を失った。

胸の奥がざわついて、心臓が跳ねる。


勝手な行動したから怒られるやつか?これ。

こんな夜に一人暮らしの女子大生がの家に行くのはまずいのでは……。

いや、古野沢さんならそんなこと「は?」の一言で一蹴しそうだけど。


街灯の下で地面を踏みしめながら、頭の中でいくつもの疑問がぐるぐると回る。


……すごく行きたくないけど、拒否する権利がない気がする。


俺は足元を見つめたまま、少し間を置く。

胸の奥でざわつく気持ちを、どう整理すればいいのか分からなかった。


「……わ、わかった」


声に少し震えが混じる。恥ずかしいのもあるし、不安なのもある。

でも、このタイミングで拒否する勇気は俺にはなかった。


「……行こう」


小さく息を吐き、俺は頷く。

杏奈さんも、それを確認するように小さく頷き返す。


夜風が、橙色の髪を揺らす。街灯に照らされた濡れたアスファルトが、足元に小さな光の粒を散りばめたように輝いて妙に画になっている。


「じゃ……向かうッスね」


杏奈さんが軽く笑みを浮かべ、バッグにスマホをしまった。


にしても、何を言われるんだろう……。

怒ってんのかな、古野沢さん。


憂鬱さと軽い緊張感を抱えながら、俺たちは夜の街を歩き続ける。

濡れたアスファルトに映る街灯の光が、まるで導くように、俺を次の場所へと誘っているようだった。


電車に乗って、最寄り駅に着く。いつもの駅だ。

そういえば、同じ駅で塔南大の方だったな。


駅の改札を抜けると、夜の冷たい空気がさらに肌に刺さる。

濡れた街灯に照らされたホームは、深夜のせいか人影もまばらだ。


「……もうすぐッスね」

「そうなんだ……」


この前、古野沢さんと別れた道。まっすぐ行けば自宅だが、今回は違う。


「やっぱ緊張してるッスか?」

「緊張…っていうよりは、罪悪感かも」

「梨里に黙って行動したことっすか?それともこんな夜中に女の子の家に行くことですか?」

「どっちもかな……」


また、見透かされたよ。

いかんいかん。話を変えよう。


「そういえばだけど、桃子さん。あれからステイル来てるの?」

「来てるッスよ。彼氏に別れを切り出したこともその時聞いたッス」

「じゃあ、知ってたのか」

「はい……だから余計にムカついたッス。桃子さん、何度かマスター相談してたッスから」


俺は思わず眉をひそめる。

なんで杏奈さんは、こんなにもスムーズに俺に協力してくれているんだろう。


「どうしてそんなに……協力してくれるんだ?」


杏奈さんは少し驚いたようにこっちを見たあと、少し間を置いてから答える。


「……だって、知り合いさん、梨里のこと大事にしてるッスよね?それに……あの人、放っておけないッスから」

「俺は最初、巻き込まれたんだけどな。あとは成り行きだよ。成り行きで古野沢さんに振り回されてたら、親友の因縁に繋がって……引くに引けなくなった」


本当に成り行きだ。

流されていたら、いつの間にか知らんふりできなくなってしまった。

ただ、古野沢さんを放っておけないという気持ちはよく分かる。


「自分もッス。人助けとかそんなに綺麗な理由じゃなくて、ただ友達が傷つけられたにが許せないだけッス」

「十分、綺麗な理由だと思うけど……」

「こんな黒い感情、とてもそうとは思えないッス」

「そりゃ、殺気に満ちた目してたわけだ」

「え!? 自分、そんな目してたッスか!?」


自分がどう見えていたのかを知り、杏奈さんは驚きを隠せない。


あの時の杏奈さんの視線は、怒りで張り詰めていた。明るい子ではあるが、根はクールという印象からまるで違う。

正直、意外だった。


杏奈さんは小さく息をつき、また恥ずかしそうにしている。


「今日は調子が狂うッス……」

「そういう日もあるって」


行きつけのバーの店員さんが、今はまるで違う人に見える。その微笑ましさに少し心を和ませたところで、杏奈さんが足を止めた。


目の前には、白い外壁を夜の光に淡く浮かべる大きなマンション。窓のいくつかにはまだ明かりが残り、静まり返った深夜の街に微かな人の気配を感じさせる。


「着いたッスよ」


深夜の静けさに包まれたエントランスは、妙に落ち着かない。

杏奈さんが玄関ホールのインターホンを押すと、機械音が冷たく響いた。

結局、いいとこ住んでるんだな……。


『……はい』

「梨里ー、自分ッス!」

『……入って』


事務的なやりとりのあと、自動ドアが静かに開いた。


「やっぱ、怒ってないか?」

「大丈夫ッスよ、多分……」


え、何その返事。怖いんですけど。

自動ドアの向こうは静かで、少し冷たい空気が漂っていた。


エレベーターの金属扉が静かに閉まり、ふたりだけの小さな空間に包まれる。

ボタンの淡い光が、手元をぼんやりと照らす。


やがて、数字がひとつずつ光る。9階。

扉が開くと、窓一面に広がる夜景が目に飛び込んできた。


ネオンの光が街を彩り、遠くで車のヘッドライトが流れる。濡れた道路がその光を反射して、まるで星が足元に散りばめられたように輝いていた。


夜景に見とれていると、扉の前で腕を組んでいる古野沢さんに気づくのが遅れた。夜景の光が髪や輪郭に反射して、暗闇の中でも存在感を放っていた。


「……梨里、お疲れ様ッス〜」

「もう、こんな時間まで何してんだか」


古野沢さんは軽く眉をひそめながらも、その声には怒りよりも少し呆れたような響きが混じっていた。


「話は中でするッスよ」

「……まあ、いいけど。入んなさい、あんたも」

「お、おう」


扉の先に広がる室内は、外の夜景とは対照的に温かい光に包まれていた。

壁際のソファに腰を下ろす古野沢さんと、少し距離を置いて立つ杏奈さん。


「……で、どういうつもり?って聞いたほうがいいのな」


古野沢さんは腕を組んだまま、鋭い目でこちらを見据える。

俺は息を整え、言葉を選びながら答える。


「……あの、その……事情を説明したくて……」

「ふん、まあ座りなさい。話は聞くから」


少し眉を上げ、軽く鼻で笑ったような音を漏らす。

俺は小さくうなずき、言われるがままソファの前にそのまま腰を下ろす。

見下されている形になるから、迫力あるな……。


夜景の光が差し込む窓の向こうに、街の光がゆらめく。室内の温かさと、窓の向こうの冷たい光のコントラストが、妙に緊張感を引き立てる。


部屋はなんとも、女の子らしい柔らかい雰囲気でまとめられていた。

淡いピンクやクリーム色を基調にしたクッションがソファに置かれ、小さな観葉植物が窓際で夜景を背に揺れている。


棚には漫画や小説がきれいに並び、アクセサリーや小物が無造作に置かれているが、どれも手入れが行き届いていて、生活感と上品さが同居していた。


──これは、女性の部屋だ。

当たり前のことに、今更気づいて動揺する。


俺は今、女性の生活空間に入り込んでいる。

彼女のプライベートな領域に、土足で踏み込んでいる。


視界に入るすべてが、古野沢梨里という人間の一部で。普段見せない彼女の素顔が、部屋のあちこちに散りばめられている。


なんなんだろう、この落ち着かない感じは……。

いや、落ち着くはずがないか。


「事情っていうのも難しいんだけど、瀬川がどんなやつか、一度見ておこうと思って……」


きっかけは健二に唆されたからだが、あのバーに行くのを選択したのは、自分だ。

健二のせいにするのは違う。


「それはいいの」

「へ?」


俺は思わず聞き返す。


「私が言いたいのはなんで事前に相談しないのかってこと。この件には、あたしが証人さんを巻き込んだのに……」


言葉は柔らかくない。

むしろ少し叱責のニュアンスを帯びていて、胸の奥がざわつく。


「それは、言ったら絶対についてくるとか言い出すだろ?」


実際、電話で言ってきたし。


「電話でも言ったけど、古野沢さんがいたら、瀬川が警戒するだろうし、面倒事に発展しないとも言えない」

「それは……そうだけど……」


自分の言動を思い出したのか、言葉が詰まる。

納得はしてないという様子で鋭い目線。


「だからって相談ぐらいしてくれても、あんな事前に言って逃げようとするやり方なんて……」


古野沢さんの声には、ほんのわずかに苛立ちと寂しさのようなものが混じっていた。

確かに、言い逃げをしようとしたと言われたら否定できない。


「はいはい、そこまでッス」


なにを言うべきか迷っていると、杏奈さんがが口を挟んでくれた。


「知り合いさんをあんまり責めちゃダメっすよ、梨里。寂しかったからって」

「寂しかったからとかじゃ──」


古野沢さんは顔を真っ赤にして否定する。

杏奈さんはその様子を見て、にやりと小さく笑った。


「いや、顔真っ赤ッスよ?完全に寂しかったッスね、それ」

「ち、ちがっ……」


古野沢さんは慌てて顔を背け、手で髪をかき上げる仕草をした。

もしかして、さっきの鬱憤を晴らしてますか?杏奈さん。


「そ、そういうことじゃなくて……!」


「ほら、知り合いさんもさ、悪気はなかったッスから。だから、責めすぎたらダメッスよ」


杏奈さんは腕を組んで、少し得意げに二人を見比べる。


「知り合いさんも、めんどくさがらないでしっかりホウレンソウはするべきっすね」

「……そうですね」


報告、連絡、相談を女子大生に説かれてしまった……。


でも、確かに俺が悪い。

この件に関しては、あくまで古野沢さんが主体。彼女に相談はするべきだし、『ついてくる』と言ってもしっかり止めるのも踏まなければならない順序だ。


俺は思わず苦笑して、後頭部をかいた。


「ごめん、古野沢さん。事前に相談するべきだった」


古野沢さんは一瞬こちらを見たが、すぐに視線を外し、窓辺の観葉植物へと目をやった。


「……私もちょっとワガママだったかも」


声は小さく、どこかしおらしい。

さっきまでの強気な雰囲気からは想像できないその言葉に、胸の奥が少し温かくなる。


「じゃあ、ここから本題ッスね!」


杏奈さんがぱんっと手を叩き、にやりと笑う。

マジで杏奈さんいてくれてよかった……。

今は彼女が天使に見える。

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