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22 思い出したくない記憶

宮沢さんと別れ、帰路につきやっと家に着いた。

例によって健二の姿はないが、まだ帰ってきてないだけか、今日もいないのか。


シャワーを浴びながら、冷えた身体がじんわり温まっていくのを感じる。熱いお湯に包まれると、仕事の疲れや帰り道の微妙な緊張も、少しずつ流れ落ちていくようだ。


体を拭き、部屋着に着替えると、干してあった洗濯物を取り込みにベランダへ。だが、窓から差し込む街灯の光に照らされる洗濯物の影は、どこか穏やかで落ち着いた気持ちにさせてくれる。


「……今日も、まぁ、なんとか終わったか」


洗濯物を片付け終え、リビングに戻ると、静かな部屋の空気が心地よく、少しだけ肩の力が抜ける。健二はまだ戻っていないが、この静けさも、なんとなく悪くない気がした。


一息ついて晩御飯どうしよか。と考えていると、リビングの静けさを破るように、玄関のドアが開く音が響いた。帰ってきたみたいだ。


足音が近づき、リビングのドアが開くと、健二がカバンを肩にかけたまま立っていた。少し疲れたような顔をしているが、それでも口元にはいつもの気怠げな笑みが浮かんでいる。


「おー、正寿。起きてたんだな」

「お前な、何日ぶりだよ。もうずっと帰ってきてないから、家賃払って逃げたんじゃないかと心配したぞ」

「はは、いやー彼女が寝かしてくれなくてな」

「あぁ、もう聞きたくないわ。黙ってくれ」

「おいおい、それが数日ぶりに会った親友にかける言葉かよ」


軽口を叩くと、健二は気の抜けた笑いを漏らし、靴を脱いで部屋に入ってくる。その動作に、妙な安心感が広がった。


「晩飯、まだ食ってねぇんだろ?」

「まあ、考えてたとこだ。お前は?」

「俺も腹減った。なんか作るか、それとも買ってくるか……」

「マジでどっちでもいいわ」

「それ一番困るやつだな、女の子にやったら苛つかれるやつだ」


えー、女の子の地雷コワイ。

健二はカバンをソファに投げ出し、そのままドカッと腰を下ろした。まるで自分の家のようにくつろぐ姿は、同居人というより勝手知ったる居候に近い。


「カップ麺でもいいけどな。冷蔵庫に卵あったろ?」

「……あれは俺の明日の朝ごはん用なんだけど」

「いや、朝飯にカップ麺食うなよ」

「なんでだよ。自由だろ」

「正寿、お前……。健康って知ってるか?」

「カップ麺食う時に健康なんて考えてたまるか」


健二は「だーめだこりゃ」とでも言いたげに額を押さえ、ため息をつく。


「ほんっと独身男の発想だな。せめて味噌汁ぐらい作れよ」

「じゃあお前が作れよ」

「おー、任せとけ。洗濯物もやってくれたみたいだし、今日は俺の特製……えっと……冷蔵庫にあるもので何か作る」

「それ特製って言わねぇだろ」


そう言いつつも、健二は立ち上がり勝手にキッチンへ。

冷蔵庫を開け、余った野菜や卵を物色しながら鼻歌を歌っている。その後ろ姿を眺めていると、こっちもなんとなく力が抜けていく。


前のチャーハンもそうだが、こいつの飯はうまい。

新卒から一緒に住んでもう3年になるが、完全に胃袋を掴まれてしまっている。


しばらく時間が経って、ご飯と味噌汁とチンジャオロースが出てきた。

えなんで?錬金術?


「いやーピーマンと肉があったからな、さすがにタケノコはなかったが、そこはジャガイモで代用だ」


不思議そうにしている俺に対して、得意気な健二が胸を張る。


「いただきます」


さっそく、一口。

口に入れた瞬間、思わず目を見開いた。


「……うまっ」


ピーマンのほろ苦さに、ジャガイモのシャキシャキ感が意外なほどよく合っている。肉の旨味もしっかり出ていて、白飯が欲しくなる味だった。


「おい、これ本当にジャガイモか? 全然違和感ねぇんだけど」

「だろ? 料理はアレンジとノリだ。正寿、お前は考えすぎるから失敗するタイプだな」

「失敗前提で話すなよ」

「ははっ。でも、俺が帰ってきた時ぐらいはまともな飯食えよな。そうじゃねぇと、お前ほんとに干からびるぞ」


健二は味噌汁をすすりながら、軽く肩をすくめて笑う。その自然体の様子に、また少しだけ肩の力が抜ける。


ってそうだ。

健二が帰ってきたら、聞きたいことがあったんだった。


「なぁ、健二」

「ん?なんだよ」

「聞きたいことがあるんだけど……」

「どうしたんだよ、珍しいな」

「……瀬川翔って知ってるか」


その名前を聞いた瞬間、健二の食事をしていた手がピタッと止まる。

一瞬だけ空気が張り詰めた。味噌汁の湯気が立ちのぼる音までやけに大きく感じる。


「……どこで、その名前を」


低い声。普段の軽口とはまるで違うトーンに、思わず背筋が伸びる。

なんだその反応。知ってるのか?


「いや、ステイルで知り合った人の彼氏らしくてさ。俺らの地元の高校に通ってたっていうから、もしかしたら健二なら知ってるかなって」


健二は腕を組み、しばらく黙り込んだ。

テレビもつけていない静かな部屋で、味噌汁の湯気だけがゆらゆら揺れている。


「……なるほどな」

「知ってんのか?」


問いかけると、健二は深くため息をつき、背もたれに寄りかかった。

さっきまで軽口を叩いていた男の顔じゃない。真面目な顔つきは、逆に不安を煽る。


「知ってる。っていうか、高3の最後の大会でやった」

「高3の大会ってあれか?」

「あぁ、あれだ」


今だに覚えている。

部外者の俺からしても、酷いものだったということは鮮明に覚えている。


健二の顔が、いつもの軽口を叩く表情とはまるで違っている。腕を組んで天井を見上げ、深いため息をつくその姿に、俺の胸の奥に小さな違和感が走る。



「あの試合の……」


声に出してみても、なんだか妙に重い。

健二の反応で、あの日の記憶が少しずつ蘇る。

地方大会の準々決勝の試合だっただろうか。


当時、公立で快進撃を続けていたうちの高校私立の強豪校の対決。近隣の高校同士の対戦ということで、地元が大いに盛り上がっていた記憶がある。

受験勉強中だったが、その日だけは見に行ったっけ。


テレビの音も、ラジオの声も、日常の雑音もかき消されるような熱気が球場に満ちていた。スタンドは歓声で揺れ、応援団の太鼓とブラスバンドの音が混ざり合う。俺は座席に身を乗り出し、ただ試合を見つめていた。


健二はチームの4番で大会中も活躍していて、あの夏の期間は彼の表情は普段の軽口や気怠げな笑みとはまるで違い、集中と緊張が入り混じった硬い顔をしていた。


そして──あの一球。


3対2。1点差の接戦での試合終盤。

ある選手が空振りをしたあと、手から離れていったバットは、うちの高校のエースの肩に直撃した。


場内の歓声は一瞬にして怒号と悲鳴に変わり、選手たちの動きが止まる。ファーストを守っていた健二の顔も、硬直していたのを思い出す。

健二は深く息を吐き、視線を落としたまま言葉を紡ぐ。


「……あれは、最悪だったな」


俺はただ黙って頷くしかなかった。言葉にできない重さが、部屋の空気をじわりと満たす。あの時の球場の熱気、歓声、そして一瞬にして変わった空気――すべてが、健二の声と表情で蘇る。


試合は結局、あとから出てきたピッチャーが踏ん張りそのまま勝利したのだが、次の試合にあっけなく負けた。


「あの時さ、バットがピッチャーに当たったあと、瀬川が笑ってたように見えたんだ」


その言葉に、思わず息を飲む。


「……笑ってた?」


健二の目が、わずかに細まった。

何かを必死に思い出そうとするかのように、視線は天井の一点に固定されている。


「あぁ……少なくとも、俺にはそう見えた。あの時の俺らの焦りとか、バットが当たった苦痛とか、全部茶化すような顔だったんだ」


胸の奥に小さなざわめきが広がる。健二の言葉には、怒りと悔しさ、そして少しの苛立ちが混ざっていた。あの時の試合は勝ったけど、勝利の喜びよりも、あの一瞬の出来事が強く残っているらしい。


そりゃそうだ。

3年間頑張ってきたものが、あの場面で崩れてしまったのが間違いない。


「もちろん、事故だったかもしれない。故意かどうかなんて分からない。今さら、そんなことを知りたいとは思わない。けど、俺はあいつを一生許せないと思う」


部屋に静寂が戻る。健二の言葉が、まるで空気のように重く、俺の胸にずっしりと沈む。

目の前の彼は、あの頃の野球部の四番そのままだった。普段の気怠げな笑みや軽口は一切なく、ただ、「許せない」という感情だけが顔に刻まれている。


「悪い、嫌なこと思い出させちゃったな」

「気にすんなって、俺たちの仲だろ?」


健二はそう言いながらも、腕を組んだまま少し俯いている。普段の軽口やふざけた態度は影を潜め、あの夏の試合で見せた硬い表情が微かに蘇っているようだった。


俺は箸を置き、黙って健二の横顔を見つめる。言葉をかけるべきか迷ったが、無理に慰めるようなことを言う必要もない気がした。今はただ、彼の思いを共有している――それだけで十分だ。


静かなリビングに、ふたりの呼吸と味噌汁の湯気だけが漂う。

健二の心の中にまだくすぶる感情があることを、目の前にいる俺は確かに感じ取っていた。


「……でも、さ」


俺は小さく声を出してみる。


「今こうして帰ってきてくれて、飯作ってくれて、くだらない話で笑えるのって、やっぱりすげぇありがたいことだなって思う」


健二はしばらく沈黙したまま、やがて小さく笑った。


「……あぁ、そうだな。くだらない日常ってのも、悪くねぇ」


ついクサいこと言い合う流れに二人で苦笑し、少し肩の力が抜ける。

あの日の記憶は重くても、今の時間は確かに生きていて、俺たちの間にあるものは変わらないんだと実感する。


少し間が空いたあと、健二の声が気恥ずかしい空気を切り裂くように響いた。


「……おい、正寿。で、聞きたいことってやつ、まだあんのか?」


俺は一瞬、箸を持った手が止まる。健二の目は、軽口の裏にいつもある少し鋭い部分を帯びていて、あの夏の硬い表情を彷彿とさせる。


「……あぁ、そうだな。実はまだ聞きたいことがある」


言葉を選びながら、俺は健二の顔を見た。

いつもなら軽く流すだろう質問も、今は真剣なやり取りに変わっている。


「その瀬川翔って奴のこと、何か知らないか?評判とか」


健二はしばらく黙ったまま、目を細めて少し考えてから、口を開く。


「……評判か……あいつな、ちょっと……どう説明すりゃいいか……」


言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。普段の軽口とは違い、声には重みがあった。


「野球の実力はプロの球団もスカウト来てたってレベルだったな。オレらとやるまでは地方大会無失点だったし、まぁ、俺のホームランで記録は止めてやったけどな」


健二の声には、昔の栄光を振り返るような誇りと、同時にあの時の苛立ちが混ざっていた。


「ただ……性格がな。調子に乗りすぎるっていうか、周りを小馬鹿にするところがあった。対戦する前からでも性格悪いだのやり方が汚いだの評判は悪かったな」


俺は自然と息を飲む。健二の口調には、軽口ではなく、明らかに忌避と苛立ちが混ざっていた。


「あとは、女癖は有名だったな。やり捨てされたって子結構いたって……」


それは、まぁ予想通り。

こういう奴に限って、相手に困らないってあるよな……。


「悪いけど、正直言って、あいつには近寄るなって感じだったな。才能はあるけど、人としてどうかって部分がな……」


その言葉の重みを感じながら、俺は黙って頷くしかなかった。健二が過去の苛立ちを今でも抱えていること、その重さが伝わってくる。


「……で、正寿は何で急に気になったんだ?」


健二の声は穏やかさを取り戻しつつあったが、そこにはまだわずかに警戒の色が残っている。俺は深く息をつき、言葉を選ぶ。


ここまで、健二に聞いたんだ。

俺もこいつにだけは全部話さなければ対等じゃない。


「実はさ……」


俺は全て話した。

古野沢さんのこと。

桃子さんのこと。

俺が振られてから起こった、ここ数週間の全てを。


「まさかの、シャイニング・ウィザードがマジだったとは……」

「こんな作り話、思いつかねぇよ……」

「……なるほどな」


その声には驚きや軽い呆れだけじゃなく、少しの感心も混ざっているようだった。箸を置き、ソファに体を沈めた健二は、眉間にわずかな皺を寄せて考え込む。


「……正直、聞いてて腹立つし、笑えねぇし、何よりすげぇな、お前」


俺は思わず苦笑する。褒められたのか、呆れられたのか、自分でもよく分からなかった。


「いや、すごいのは古野沢さんだよ。俺はあんな風に立ち回れない」


健二は少し間を置いてから、軽く肩をすくめるようにして笑った。


「……そっか。まあ、そういうのもあるか。しかし、お前も妙なことに巻き込まれたよな」

「まったくだよ……。もう正直、他人事とは思えないけど」

「優しいね、お前は。なんでモテないんだか」

「うるせぇよ」


健二はくすっと笑いながら、空になった食器をキッチンに持っていってから、ソファに深く腰を沈めた。


「……で、正寿、お前はこれからどうすんだ?」

「正直、今はできることないな。桃子さんがどうするかだし」

「っで何かあった時のために、俺に瀬川のことを聞いてきたのか」

「ご明答。想像より濃い答えが返ってきたけどな」

「何の因果かね……」

「ほんとだ」


健二はソファの背もたれに寄りかかりながら、俺の方を見る。


「……まあ、でもさ。お前が全部話してくれたおかげで、少しは腑に落ちたわ。最近のお前おかしかったからな、振られたからだと思ってたけど」


また、俺の分かりやすい案件かい。

こいつ相手にはさすがに仕方ないか。


「俺ってそんな分かりやすいか?」

「そりゃもう、カンニングし放題」

「誰が楽単やねん」


思わず関西弁が出てしまった。


「あ、そうだ」


健二が今までの空気とは違うような、気が抜けたような声を出す。

なんだろう、こいつがこういう顔をしているときは、嫌な予感しかしない。


「……正寿、ひとつ提案なんだけどさ」


俺は顔を上げる。

健二の目はいつもの軽口の裏にある鋭さを帯びつつも、真剣そのものだ。


「瀬川が実際どういうやつか、直接見て確かめるのも悪くないんじゃねぇか?」

「は?」


今度は俺がこの抜けた声を出してしまった。

そんな俺を見て健二は、してやったみたいな顔で笑う。


「まあ、会うというか一緒の空間に行ってみるだけだ。戦うとか、そんなんじゃねぇ。雰囲気とか、女関係とか、実際に自分の目で見て、感じてみろってことさ」


俺は少し考え込む。確かに、健二の言う通りかもしれない。情報だけじゃ、判断は難しい。


「でも、どうやって?」

「おいおい、俺の人脈ナメるなよ?この辺の大学生が遊ぶような店、だいたい知り合いはいる」


あら、なんて頼もしいの。うちの親友。

これじゃあ、逃げ場がないじゃない……。


「……わかった。会ってみるか」


健二はにやりと笑った。


「そうこなくちゃな。じゃあ、オレが手配してやるよ。瀬川との“面会”だ」


その言葉に、俺は少し身構える。

だが、覚悟を決めるしかない。

これも、桃子さんのための保険だ。


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