21 後輩とアイスと青春
土曜日、日曜日が過ぎ、みんな憂鬱な月曜日。
おはようございます。三浦正寿です。
結局、この休日の期間に同居人である駒沢くんは帰って来ずで、一人で過ごし、重たいまぶたをこすりながら職場に立っております。
あぁ……働きたくない……。
同僚の何気ない声も、パソコンの起動音も、コピー機の唸りも、妙に遠くに感じられる。
仕事に集中しようとしても、昨日の光景がふと頭をよぎり、指が止まる。
「三浦くん、これお願い」
上司に声をかけられ、慌てて資料を受け取る。
受け取った資料に目を通そうとするが、行間に古野沢さんの顔がどうしてもちらつく。
今すぐなにかを変えられるわけじゃない。
本当の意味で時間が解決することな気がする。
「……はぁ」
無意識にため息が漏れ、隣のデスクの同僚にちらっと見られる。
「月曜から疲れてるなー」なんて軽口を叩かれ、曖昧に笑ってごまかした。
休憩室へ行ってコーヒーを淹れる。
紙コップに注がれる黒い液体を眺めながら、ぼんやりと週末の空白を思い返す。
健二が帰ってこなかった部屋の静けさも、タバコの煙と一緒に宙へ消えていった思考も――ぜんぶまだ身体にまとわりついている。
椅子に戻り、パソコンの画面に向き合う。
メールの山、未処理の案件、やることは山ほどあるのに、どうしても意識が散る。
「……ダメだダメだ、集中しないと」
小声で自分を叱咤しながら、キーボードを叩く指先に力を込めた。
時計の針が定時を指した瞬間、オフィスの空気がわずかにゆるむ。
誰かの「お疲れさまでした」という声が飛び交い、キーボードの音も徐々に途切れていく。
正寿も机の上を片付け、パソコンを落とした。
だが胸の内は片付かない。今日一日、仕事に向き合っているはずなのに、気を抜いた瞬間に週末の光景が滲み出てくる。
「……お疲れさまです」
上司に軽く頭を下げ、オフィスを後にする。
外に出ると、もう夜の気配。
街灯に照らされた通りを歩きながら、周囲の人たちの足取りが妙に軽く見える。
帰宅する人、居酒屋へ流れる人、コンビニで立ち読みする学生。
そのどれにも自分は溶け込めていない気がした。
「せーんぱい、お疲れさまです!」
「うおっ!びっくりした!」
不意に声をかけられて、つい驚いた声を出してしまう。
振り返ると、同じく仕事を終えた宮沢さんがいたずら子っぽく笑っていた。今日は白の髪留めをしていて、綺麗な黒髪によく映えている。
「先輩、驚きすぎですよ!」
「いきなり声かけられたらこうなるって……」
「今日一日、ぼーっとしてたからじゃないですか?最近そういうこと多いですよね」
「そうかもな……」
曖昧に笑って返すと、宮沢さんは少しだけ目を細めた。
「……やっぱり。先輩、顔に出やすいんですよ」
「ほんとにそうなんだよな」
最近の彼女とのやりとりを振り返ると、否定できない。
宮沢さんやあと……響子さんもそうか。
俺の知り合いのなかでも鋭い2人だが、全て見透かされているようで、自分のことが情けなくなる。
「上司の前でも出てましたよ。『あ、三浦先輩、今日ちょっと元気ないな』って思いました」
軽口のように聞こえるのに、どこか鋭い。
苦笑して頭をかくしかなかった。
「心配してくれてんのか?」
「べつに? ただ観察してただけです」
「……こええな、お前」
「ふふ、でも先輩って、放っとくとずっと考え込むでしょ。だからこうやって声かけるんです」
「ありがとうございます?」
少し照れ隠し気味にそう返すと、宮沢さんは「どういたしまして」と言う代わりに小さく肩をすくめた。
「じゃあ――駅まで一緒に行きましょうよ」
「え、あぁ……まあ、いいけど」
気づけば並んで歩き出していた。
ビルの明かりが減り始めた通りに、街灯がひとつ、またひとつと浮かび上がる。二人の影が歩道に寄り添うように伸び、ゆらゆら揺れている。
「月曜ってほんと嫌ですよね」
「全員の敵だからな」
「ふふ、ですよね。……でも、こうやって帰り道に誰かと話せると、少しはマシに思えません?」
「そうかもな」
あやふやに答えてしまったが、足取りが幾分か軽くなっていることに気づく。
人と話すことで、頭が切り替えられているのは確かなだ。
「そういえば、浮気の件は解決したんですか?」
「え、あぁ……。俺詳しく話したっけ?」
「急にあんな質問されたら、なんかあったんだろなとは思いますよ。先輩、分かりやすすぎその2です!」
「人をアホみたいに言いやがって……」
「いえいえ、そんなそんな」
からかうような表情がムカつく。
年下女子にこんなに遊ばれるとは、俺と宮沢さんとは人としてレベルが全然違うんだろうな。きっとこの子学生時代は1軍だったんだろうな。
「先輩って、いじりがいありますからね」
「俺はペットかなんかか」
「犬っぽいです。ちょっと困った顔するところとか」
「いやいや、勝手に犬にするな」
「じゃあ猫ですか?でも猫っぽくはないんですよねえ」
「おい、じゃあ結局なんだよ」
「……うーん、鳩?」
「は?なんで鳩?」
「駅前でよく見かけるから、なんとなく」
「おい、人のこと雑にいじって、急にめんどくさくなるな」
この子ほんとに俺のことナメてるよなぁ。まぁ、いいんだけど。
でも……なんだか、それが妙に心地いい。
決してMではない。決してだ。
並んで歩く夜道、街灯の光に二人の影が揺れる。
ちょっとした会話で笑えるのは、案外疲れた心に効く薬みたいだ。
「先輩、駅前でアイスでも買います?」
「……アイスか。まあ、いいけど」
「やった!わたしチョコ〜」
そう言って、宮沢さんは少し前に駆けだした。
俺達は近くにあったコンビニに入り、それぞれアイスを選ぶ。就業時間すぐで帰宅ラッシュになる時間帯ではあるが、特に並ぶこともなくスムーズに会計を済ませた。
駅前の広場にある休憩スペースに腰を下ろす。普段なら学生たちの笑い声や賑やかな足音でいっぱいの場所だが、今は俺たち以外に誰もいない。長椅子も空き、ゴミ箱の蓋も静かに閉まったまま。街灯の明かりが柔らかく広場を照らし、ベンチの影が長く伸びている。
舗装された石畳はわずかに湿っていて、先ほどまで降った雨の名残を感じさせる。風が通るたびに、向こうの自動販売機の蛍光灯が揺らめき、広場にひと筋の冷たい光を落とす。遠くで電車の低いモーター音が響き、街の生活の気配はあるのに、この空間だけは時が止まったようだ。
アイスの冷たさが手のひらに伝わり、微かに溶けた水滴が指先に伝わる。周囲の静けさが、妙に心を落ち着かせる。普段は視界に入る学生たちの声や動きで、どうしてもそわそわしてしまう広場も、今は俺たち二人だけの世界だ。
街灯の下で揺れる二人の影が、石畳に静かに溶け込む。時折、遠くの車のライトが光を横切るが、それすらも幻想のように感じられる。空の色は深い藍に沈み、夜の匂いが微かに混じる。冷たい空気が頬を撫でるたび、日中の喧騒と忙しさがすーっと遠くに流れていくようだ。
こうやって、アイスを持って向かい合っている状況は学生時代を思い出させる。
もっとも俺の青春時代に女の子とこんな時間を過ごした記憶はないが。
俺はソーダ味のアイスを口に運ぶ。甘い物は基本的に苦手だが、この冷たさと微かな炭酸の感じなら、嫌じゃない。
「……冷たくてちょうどいいな」
思わず小声で呟く。
宮沢さんはチョコをほおばり、満足そうに目を細めている。
「あまあま〜!うまうま〜!」
その無邪気な姿に、少しだけ眉をひそめる。
うん、可愛いな。なんだこの生き物。……成人しているんだよな?
「先輩、ソーダって、意外と子供っぽいですよね。ソーダ味のアイスって小学生男子しか食べてないイメージです」
今の君に子供っぽいとか絶対言われたくない。
「甘い物苦手だから、これくらいがちょうどいいんだ」
「ふふ、なるほど〜。でも先輩っぽいかも」
ニヤリと笑った口元にはチョコの跡をつけている。
その様子に少しだけ顔をしかめつつも、どこか和む気持ちになってしまう。
こんな時間、こんな顔、…案外、悪くない。
「あ、そうだ」
宮沢さんはアイスを口元から離して、ちょっと真剣な表情を作る。
「1つ聞きたかったんですけど……」
その言葉のトーンは軽く、でもどこか意味深で──
心臓が少しだけ跳ねるのを感じた。
何を聞かれるんだろう……いや、正直、聞かれる前から少しドキドキしている自分に気づく。
「な、なに……?」
普段、宮沢さんと一緒にいたら感じることない雰囲気に身構えてしまう。
「安藤先輩となにがあったんですか?」
「ぐふぅぅぅぅ!!!!」
思わず吹き出してしまう。まさかこんなタイミングで聞かれるとは思っていなかった。
安藤さんとのこと……いや、これは説明しづらいというか、そもそも話すべきことなのかどうかも微妙だ。
というか、普通に振られたことなど会社の人間に言いたくない。
「えっと……いや、別に大したことじゃ……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
目の前の宮沢さんは、真剣に、でも少し好奇心で輝く目で俺を見ている。
「……先輩、もったいぶらないでくださいよ。明らかに最近おかしいですもん。前はしょっちゅう一緒に帰ったり、話してたりしてたのに、最近全然そういうの見ないし」
視線を逸らす。石畳に反射する街灯の光が、心臓の高鳴りを無駄に強調しているようだ。息が少し詰まる。
「安藤さん、最近忙しいそうだろ?出張とかも結構行ってるみたいだし。チームの違うから、話す機会がないだけだって」
苦しいかもしれないが、実際に最近会社で顔を合わす機会も少ないから、筋は通ってるはずだ。
宮沢さんは少し首を傾げ、目を細める。
「ふーん……そうですか。でも、先輩の顔、隠そうとしても全部出ちゃってますよ?」
手に持ったチョコアイスを少し傾けながら、口元に笑みを浮かべる。その仕草ひとつで、妙に心臓がざわつく。
「おいおい、それで全部通ると思うなよ?」
「ちぇっ!やっぱりなんかあるんじゃないですか」
少し不満げに口を尖らせるが、怖さはなくむしろ可愛らしい。
「……まあ、あれだよ。わざわざ言わなくていいこともあるんだよ」
逃げられないと思い、言葉を濁しながら視線を逸らす。石畳に反射する街灯の光が、心臓の高鳴りを無駄に強調しているようで、息が少し詰まる。
「別に最近様子がおかしいから気になっただけなんで、言わなくていいですけど。先輩、顔に出ちゃってるのはどうにもならないですねー」
宮沢さんはチョコをかじりながら、からかうように言う。その言葉に、なんとなく肩の力が抜けるような感覚を覚える。可愛いというより、ずるい。心を揺さぶるずるさ。
「まあ、確かに最近はあまり一緒に帰ってないけど……別に、心配することないって」
頬に風が当たり、夜の広場の静けさが妙に自分の内面を映し出す。
アイスのせいか、少し身体が冷えてしまった。
石畳の冷たさと、街灯の淡い光が、余計に自分のもどかしさを強調している気がする。




